44,命の天秤 「やった……スか?」 きしむ身体を無理矢理起こして、グレースはガランが消えた瓦礫の山へと目を向ける。ぶつかった衝撃に立ち上る粉塵が風に流れていく。 「彼をしとめることは無理ですよ。修復魔法がありますからね」 「あ……ああ」 廃屋でもガランはレイテにより両腕を失ったが、直ぐに元通りになっていたことをグレースは思い出して舌打ちした。 口の中に溢れた血をつばと一緒に吐き出す。出血量は多くないところを見れば、口の中を切った程度だろう。血の感触がある唇の端を親指でグイっと拭う。 「彼の動きを止めようとするならば、修復魔法の魔法陣を破壊するか解呪するしかありません」 「できるスッか?」 「遺跡に残されていた資料で、おおよそ彼に刻まれた魔法陣の図式はわかりましたがね。ただ、解呪をするには時間が必要です。やはり、修復魔法が彼の身体を直すにしても、時間が掛かるようにできれば両足の動きも封じたいですね」 グレースは胸の痛みに顔を顰めながら頷く。肋骨辺りが折れているのは間違いないだろう。そんなグレースを目の端に止めたレイテは彼に手を伸ばしてきた。 レイテの手が触れるや否や、身体から痛みが消えていく。引き裂かれた皮膚も再生し、傷口を塞いだ。 「ありがとうスよ……ああ、若様、嬢さんは?」 「置いてきました。一応、見つからないように魔法を掛けたので大丈夫でしょう」 「それがいいス。……あいつはマジで手強い」 肺に溜まった息を大きく吐き出してグレースは言った。 自らの腕を簡単に捨て去ることができるガランに対し、グレースは生身の肉体。守るべきものが多すぎた。 「ええ、そうですね。グレースさんも見物していますか?」 「……冗談スよね? オレはまだやれるスッよ」 「心強いですね。それでは行きましょう」 レイテは移動魔法を構成し、ガランが吹き飛ばされた先に転移した。 しかし、瓦礫の山の下にはガランの姿はなかった。 「逃げた?」 グレースは目を凝らして、黒い人影を探す。 今まで何度も自分たちの前に現れては、決着をつけずに姿を消すという行為を繰り返してきたガランにすれば、尻尾を巻いて逃げるというのもありえそうな話だった。 だが、レイテは首を振って否定した。 「それはないでしょう。腕が修復されるのを待っているだけだと思います」 「でも……形勢悪いスよ?」 「僕が推測することが外れていなければ、彼は逃げませんよ。望み通りの手駒が揃っているのです。逃げるはずがない」 「……それ、どういうことスッか?」 首を傾げるグレースに、レイテは微かに眉をひそめて言った。 「いえ、今のは聞き流してください。ルーの元に戻りましょう」 遠くで瓦礫が崩れる派手な音がした。立ち上る粉塵に、ルーはギュッと目を瞑り、組んだ指に力を込めた。 (今のは先生やグレースさんが怪我をした音じゃありませんようにっ!) 顔が真っ赤になるくらい、知らずに息を詰めていた。 (先生は約束してくれた。死なないって。あいつに負けるわけないよっ!) 自分に何度も何度も言い聞かせる。 そこへ、ザッと地面を蹴る音がした。レイテが戻ってきたのかと、目を開けたその先にあったのは黒い背中。 (あいつっ!) ガランだった。両腕を失った彼はルーの存在に気付かずに──隠匿の魔法効果で見えるはずがない──無防備な背中を晒していた。 (せ、先生は?) こいつがここにいるということは、先程の衝突音はレイテかグレースのものだったのだろうか? 怪我はしていないだろうか? ルーは粉塵が煙のように立ち上るそちらを振り返る。 「ちっ!」 ガランの舌打ちが聞こえて、ルーは再びガランへと目を戻した。 両腕を失ったはずの彼の元に左腕が戻ってきていた。そうして、右腕は細かい破片をより集めるように修復されていく。 まだ、肘から先は形すらないが、二本の腕が元通りになるのにはそんなに時間が掛からないだろう。 (先生たちが……) レイテたちが繰り出した攻撃が無駄になっていく過程にルーは震えた。 (そうやって、何度も何度も修復されるのっ?) レイテやグレースは傷つき、血を流し、体力を削がれていくというのに、ガランは痛みもなければ何も失わずに元に戻る。 (どうして、こいつだけっ? ピィもあのお姉さんも死んじゃったのにっ!) 沢山の人たちを傷つけるこいつが、どうして、傷つかずに許されるのだろう? そう思うと、頭の中が熱くなった。レイテには私情で戦うのは駄目だと言われた。この頭の熱は恐らくは私情だろうということはルーにもわかった。 (でも! でも! でもっ!) 無防備なその背中に、ルーは思う。 (ここで、あいつに……) 今なら、自分の魔法でもガランに対し傷を負わせることができるのではないか? ルーはそう錯覚した。 (……そうだよ。今、あいつをやっつけたら、先生はもう怪我しなくて済む。辛い思いも悲しい思いもしなくて済むんだ) 今なら……。 ルーは誘惑に逆らえず、魔法を構成した。 (燃えちゃえ、燃えちゃえっ! 先生は俺が守るんだからっ!) 炎が立ち上り、ガランを取り巻く。不意を突かれたガランは一瞬、焦りの色を見せたが直ぐに水の魔法を使い、鎮火する。結局、ルーの魔法はガランの服を焦がすだけに至った。 「何だっ? トラップ? ……違う、ガキか?」 ガランは焦げた服の一部を破り捨てた。 (駄目っ? 何で?) 一生懸命に構成した。自分の中の魔力を最大限に高めて、集中し、失敗せずに魔法を構成できたはずなのに、何で? ガランは熱を取り払うように、風の魔法を発生させた。そうして、黒い瞳で辺りを一周する。 「…………隠れているわけか」 まだ、ガランにはルーの存在は見えない。でも、それは時間の問題だった。ルーが魔法を構成し実行できる範囲内にいることを自ら明かしてしまったのだから。 (逃げなきゃっ!) 見つかってしまう前に、捕まってしまう前に。 (早く、逃げないと!) 馬鹿なことをしたと今さらながらに後悔する。自分にできることなど何もないとわかっていたはずなのに……。 守りたかった。いつも、自分を守ってくれるレイテを、痛みや悲しみから全部。守ってあげたかったのに……。 (どうして、俺は何もできないの?) 先生の側にいる。ただ一つの約束しか、自分にはレイテに与えられるものはない。 (先生は俺に一杯、くれるのに……) 嬉しいこと、楽しいこと、美味しいもの。ときには怒られて、叱られて、痛い思いもするけれど。 それでも、レイテと一緒にいられたら、凄く凄く、幸せを感じられるのに。 (俺は何も知らなくて……先生の辛いこと、悲しいことを一緒に我慢するしかない。でも、一緒に我慢するより、先生が傷つかないように、ずっと笑っていられるように守りたかったのに……) それすらも叶わない。 辺りを見回す黒い目と一瞬だが視線がかち合った。 (ヒィッ……) 単なる偶然だろう。直ぐに、ガランの目は別の方向に向く。でも、今一瞬の恐怖で移動魔法の魔法陣が頭の中からぶっ飛んだ。 (早くっ!) 真っ白になった頭の中に再度、魔法陣を思い描く。だが、脳裏には漆黒の瞳が焼きついて意識が集中できない。さらに、ガランがゆっくりとこちらに近づいてくる。 (見つかった?) 思わず声が漏れそうになるのを、ルーは必死に堪えた。 ガランは一歩、近づいては辺りを見回し、気配を探るように首を傾ける。苛立たしげに黒髪をかき上げ、目を細める。 そして、ルーの存在を見定めたかのように真っ直ぐに、完全修復された右手が伸びてきた。鼻先に迫る指が、レイテの結界魔法に弾かれる。 「……そこか」 再び、ガランが手を伸ばしてくる。結界が震えるのをルーは肌で感じた。薄い氷を指で剥がすように、ガランの指が少しずつ結界を削って、突き破られた結界の穴からルーの腕を掴んだ。 移動魔法の魔法陣が頭の中で完成するも、もう遅い。このままでは、ガランを引き連れて飛ぶことになる。逃げたところで一緒だった。 「出て来い、クソガキ」 結界の外に引きずり出されたルーの頭をガランはわしづかみにした。ギリギリと締め付けるその力に頭を潰されるのではないかとルーは思う。 あまりの痛みに、ガランの前では泣きたくはないのに、涙が出てきた。潤んだ視界に不意に現れたのは二人の人影。 他でもないレイテとグレースだった。 (……先生、……ごめんなさい……) 「ルーっ!」 「嬢さんっ!」 二人はガランに捕らえられたルーに、悲鳴を上げた。思わず駆け寄ろうとするレイテをガランが一喝する。 「近づくんじゃねぇ! ガキの頭を潰すぞっ!」 ビクッと身体を竦めて、レイテは立ち止まった。 二本の腕を後ろ手にとられ、頭を後ろからわしづかみにされたルーはボロボロと涙をこぼし、苦痛に顔を歪めていた。 今まで散々、レイテの愛の鞭と称する鉄拳を食らい、痛い目を見てきたルーが大量の涙を流す姿は初めてだった。目に涙を滲ますことはあっても、涙をこぼして泣くことはなかった。 そのルーが泣いている。それだけで、少女に与えられている苦痛の大きさがわかる。 「わかりました。近づきませんから、その子に手荒な真似はしないでください」 レイテは一歩下がり、降参だと言うように両手を挙げた。 「お前、ホント、こんなガキのどこがいいわけ?」 あっさりと降伏したレイテに、ガランは呆れ顔を見せる。 「誰にでも譲れないものがあるでしょう。あなたにも譲れないものがあるように」 レイテはグッと胸元に拳を握って訴えた。そんな彼をガランは冷めた目で眺めてくる。 「まあ、いいさ。何にしても、お前は俺に屈服せざるを得ない。俺が言った通りになったじゃねぇか」 「……そうなりましたね。それではあなたのお望みを伺いましょう。もう、大体の想像はついていますが」 そう言って、レイテは<破壊巨神>に目をやった。 「あれの修復ですね?」 確認するようにガランに視線を戻すと、彼は満足げに笑った。 「話が早いな。じゃあ、チャッチャッと直してくれよ。あのポンコツをさ」 レイテは黙って頷き、踵を返すと<破壊巨神>へと歩いていく。 その彼の腕を取って、引き止めたのはグレースだった。 「若様っ、どういうことスッか? 修復って?」 切迫した表情で問うグレースに、レイテは悲しげに首を振った。 「……<破壊巨神>は壊れていて、本来の働きを果たすことはできない。そういうことです」 「何を……」 何を言っているのだろう。<破壊巨神>が壊れているのなら、そもそもこんなところに来る必要なんてなかった……そういうことになるのではないか? ガランが世界を滅ぼすと言うから、自分たちはここに来て、彼と死闘を繰り広げることを決意した。 それなのに、その戦いが根底から覆るような事実は何だ? 「壊れている? ……それを直すっていうわけスッか?」 呆然と、グレースは問い返す。 「そのために僕らはここへ導かれたのですよ、グレースさん」 レイテが彼の腕を掴んでいるグレースの手を払った。そして、再び<破壊巨神>へと歩き出す。 「ちょっと待ってくださいっ! 直したらっ! 動くようになったらっ!」 レイテの前に回りこんで、進路を阻みグレースは叫ぶ。 (それこそ……世界が滅ぶっ!) 悪寒が身体中を駆け巡った。この廃墟のような都市が全世界に広がる。そういうことなのだろう? 「冗談じゃないスッよっ! 直すだなんて、そんなこと駄目スッ!」 声を張り上げるグレースに、ガランの冷ややかな声が飛ぶ。 「お前、馬鹿? そいつにはもう拒否権なんてねぇんだよ」 ガランは後ろ手に捕らえた腕はそのままに、グイッとルーの頭を前方へと押しやる。不自然な姿勢を強要されたルーは悲痛な呻き声を発した。 「イィィィィッ」 「止めてくださいっ! ルーを傷つけないでくださいっ! あなたの望みのままに動きますから……」 振り返ったレイテが喉の奥から叫んだ。 廃屋で会ったときから、常に涼しげだったレイテに余裕の色はない。必死の形相に歪んだ美貌。ガランはその姿を楽しむように眺め、黒い瞳をグレースの方へ投げてきた。 その視線の意味を察して、レイテはグレースに向き直り、告げた。 「邪魔はしないでください、グレースさん」 「だって……」 「ルーの命がかかっているのです。邪魔をすることは許しません」 「んなこと言われてもっ! <破壊巨神>を直してしまったら、奴は世界を滅ぼすスッよ? 沢山の人間の命が危険に晒される。若様はそれがわかっていて、それでもっ?」 それでも、ルーを選ぶと言うのか? グレースだって、ルーを見殺しにしたくはない。だが、大勢の命を引き換えにルーを選択することもできない彼には、より多くの命が助かるほうを選ぶしかなかった。 「ええ。例え、どれだけ沢山の人の命と引き換えにしても。それでも、僕はルーを選びます」 |