４６，最後の誇り 右手の平に穿たれた氷の杭が体温を奪い取っていく。麻痺した指先は、もう既に感覚がなく痛みすら感じなくなっていた。 グレースは覚悟を決めて、左手で杭を抜いた。血塗れの氷の杭を投げ捨て、シャツの袖を引っ張って破り、それを包帯代わりにして、手の平に巻いた。 氷の冷たさに血も凍ってしまったのだろうか。出血は少なくなりつつある。 それでも、大量の血を失ったのは事実で、足元がふらついた。ギッと唇を噛んで身体を支えたグレースは<破壊巨神>に向かって歩き出した。 レイテとルーを見送って、どれだけの時間が経っただろう？ （まだ……間に合うか？） 追いかけていって、何ができるのかわからない。それでも、足は一歩一歩、確実に前へとグレースの身体を運ぶ。 暫く歩いたところで、グレースは足を取られて転倒した。何かに躓いてしまったのか、と顔を上げれば周りの景色が微かに振動している。大地を通して、その振動はグレースの身体の内部にまで伝わってきた。 徐々に熱を取り戻し、感覚が戻ってきた右手がその振動に悲鳴を上げる。 激痛に顔を歪め、アアッと声を漏らす。 （くそっ！ これぐらいの怪我なんてっ……！） 大したことないだろう？ そう自分に言い聞かせ、身体を起こす。 （きっと……若様のほうが辛い……） 自分を殴り、傷つけたレイテのほうが、ずっとずっと心を引き裂かれるような痛みを感じているに違いない。 （そう……若様が、オレたちを見捨てるはずはない） 戦争の悲惨さを説いた彼が、そこで失われた命の多さを知っている彼が、ガランの復讐劇に自ら好んで、手を貸すはずがない。 （嬢さんが……人質に捕られて、身動きができなくなって……。それでしょうがなくなって……） でも、まだレイテは勝機を残しているのだとグレースは思う。 （オレが生きているのが、何よりの証拠だ。世界が滅ぶなら……ここで、奴の言葉に従ってオレを殺したって良かったはず。奴のご機嫌を損ねたら、それこそ嬢さんの命が危なくなるんだ） <破壊巨神>へと距離を縮めながら、グレースはレイテの心情を推測する。 （……嬢さんとオレを比べたら、オレを殺すなんてこと、若様にはどうってことない。世界すら見捨てられるって豪語して、今さらオレのことに構うなんて……矛盾している） レイテには何か考えがあるのだと、信じよう。絶望しかないと思うより、そちらのほうが活力になる。 段々と足取りが力強くなっていく。グレースは目の前に迫った<破壊巨神>が大地の震動を引き起こしていることを知った。<破壊巨神>の巨体を支える廃墟がその振動に耐え切れず、崩れていく。 それを目に留め、グレースはこの振動を利用し、ガランからルーを奪還できないだろうか？ と考える。 外まで伝わる揺れは、内部では比較にならないほど大きいだろうから、隙を突けば今の自分でも何かしらできるはずだ。 ガランの元にルーがいる限り、レイテとしても動けないだろう。 もしかしたら、ガランの目から自分の存在を外させるために、レイテはわざとこちらを傷つけるように行為に出たのではないだろうか？ 実際に、ガランはグレースをもう既に使えないと認識し、あれだけ、殺せと言いながら、結局は歯牙にもかけなかった。 彼がその気を出して、氷の魔法でグレースの心臓を槍で突いたら……終わっていたはずだ。 （奴にとって、オレは完全に終わったものだと思っている。ならば……） グレースは<破壊巨神>によじ登ろうとした。右手に体重が掛かれば、脳天を直撃するような痛みが襲うが、唇を噛んで堪えた。 そして、さらに上へと手を伸ばした瞬間、ドォォォンッという音が<破壊巨神>の内側から、響いた。それは大きな振動となって、<破壊巨神>の大きな巨体すら揺るがし、グレースの身体は飛ばされた。 「なっ？」 高く放り出されたその身体は、廃墟を押しつぶし転倒する<破壊巨神>の兜部分まで投げ出された。すべらかな曲線を描く側面に叩きつけられ、滑り落ちそうになるのを指に引っ掛かった出っ張りに身体を預けた。 爪が剥がれそうになりながらも、グレースは数本の指で全体重を持ち上げる。足場を見つけて、爪先をそこに引っ掛けると、一気に上まで登った。 どこから、入れば良いのだろうか？ と辺りを見回せば、目元を隠す部分がずり上がっていた。グレースは反対側に回って、寝転がり頭だけで<破壊巨神>の内側を覗いた。 暗いと思っていた内側はレイテの光魔法によって、白く照らされていた。 その中でルーを抱きかかえるレイテの存在を確認し、グレースはガランの姿を探した。 すると、黒髪の青年はレイテの足元に倒れていた。 「若様っ！ 嬢さんっ！」 グレースは右手の傷を抱え込むようにして、<破壊巨神>の内部に下りた。本来は縦になる空間は<破壊巨神>が完全に転倒した姿勢になっているので、横になっていた。 僅かな衝撃で着地に成功したグレースは声を張り上げ、レイテの元に駆け寄る。 「一体、何があったスッか？」 レイテの足元に倒れているガランはグレースの騒々しさに、うるさいと言いたげに目を細めた。 そんな彼の姿は胴体に大きな穴を開けていて、生身の人間なら即死間違いなしだろう。<人形>だからと言って、この穴は動くには致命的な損傷だと思われる。 グレースはレイテに目を向けた。 若様が、こいつをやったスッか？ と視線で問えば、レイテはいまだに微かに振動を続ける床にルーを下ろして、ゆっくりと頭を振った。 「何も……。彼の望みが叶えられた。ただ、それだけです……」 「望みって……」 （復讐じゃなかったのか？） ガランの内側で魔力が膨れ上がるのをルーは肌で感じ、戦慄を覚えた。その強大なエネルギーは<破壊巨神>の中に充満し、今にも破裂しそうなほどだ。 とても、人の手に操れるレベルのものではない。 （こんなのが暴走したら……世界なんて、一瞬で灰だっ！） 八百五十年前の悲劇が目の前で繰り返されようとしている。 （止めなきゃ……っ！） ルーはレイテに、そう訴えようとした。ガランから視線を移そうとした瞬間、魔法陣の中央に陣取った青年は恍惚の表情をその整いすぎた顔に浮かべると、黒衣の胸に手の平をあてがった。 （何をする気なんだ？ こいつ） ルーは思わず、青年の動きに注視してしまった。 すると、ガランの手の内側で光の爆発が起り、その振動は<破壊巨神>全体に広がった。ルーの軽い身体は、レイテの腕から放り出されボールのように弾み、揺さぶられ床を転がりかけた。 レイテが再び、ルーの腕を取り自分の胸に抱きかかえた。そして、浮遊魔法を発動し、揺れとは無関係の位置にその身を置いた。 揺れは大きく、空間は縦横が逆転した。さっきまで足をつけていた床が顔の近くに迫り、ガランの身体は壁の内側へと叩きつけられた。 「なっ！」 ルーはガランの腹部に大きく開いた穴に息を飲み込んだ。 （何でっ？ こいつ、自分で自分を……） 支えを失った青年の身体は<破壊巨神>の内部の壁──今や、床となったそこを転がっていく。やがて、振動が収まると、レイテは浮遊魔法を解いて、青年の近くへと降りた。 「あなたの望みはやはり……魂の解放でしたか」 悲しげに、それでいて確信を持ったレイテの呟きに、ガランは薄く笑った。 「お前の手に掛かってなんて……死んでやるかよ」 「一体、何だって言うスッよ？」 混乱が頂点に達したグレースの声は、悲鳴に似ていた。 「訳、わかんないスッ！ どういうことスッか？ 説明してくださいスッよ」 「うるせー。そこの馬鹿を黙らせろ」 ガランは尊大な物言いで言ってきた。その身体は大きな穴が開いて、見るも無残。なのに、声や表情に勝者の余裕染みたものが感じられる。 （何で、こんな……） 生身の人間なら瀕死の重傷──いや、完全に死んでいるところだというのに。 「……グレースさん、少し黙っていてください。今から、説明しますから……」 レイテはグレースを黙らせると、ガランに目を向けた。 「残り少ない時間は僕に付き合ってもらいますよ」 「勝手にしろよ」 ガランはそう吐き捨てた。 （…………？） グレースはガランに対して微かな違和感を覚えた。それが何かを把握する前に、レイテが語りだした。 「彼が求めたのは人間への復讐などではありませんでした。彼は自らの魂の解放、それを望み、その望みを叶えるために行動した。それだけです。その仮定で、どれだけの人間が犠牲になろうと、また、結果的に人類を滅ぼしてしまうとしても、彼には関係なかったのです」 黙れ、と言われたが黙っていられない場合もある。グレースはレイテの言葉に反発した。 「そりゃ、自分の意志とは別に<人形>にされてしまった恨みはあると思うスッよ。でも、だからって、そんな人を滅ぼすなんてっ！」 「グレースさん、間違ってはいけません。彼は人を恨んでなどいませんよ。そういう感情を向ける対象でさえ、ないのです。彼らにとって、人とは」 「恨んでなくって、どうしてこんなことができるスッよ？ <破壊巨神>を使えば、世界を滅ぼせて、それを使おうとしていて……復讐じゃないって、そんな、そんなはずないでしょ？」 こんな大げさなことを仕掛けて、恨みがないなんて……信じられるはずがない。 「……彼らにとって、僕ら人間という存在は砂粒ほどのものなのですよ」 「砂粒？ じゃあ、奴は何なんスよ？ 凄ぇ大層なものだって言うスッかっ？ 人を殺して、何の罪悪感も持たない外道でしょっ！」 トレジャーハンターたちを殺し、ライラを騙し、死に追い詰め、哀れな<人形>のピィを破壊した。その行いを恨みによる犯行だとすれば、許されるものではないが、理解はできた。 だが、レイテの言い分ではガランに恨みはないという。 それなら、ライラが死んだ意味は？ ピィが殺された理由は？ 大勢の人間たちの命が危険に晒されたこと、それすらも意味がないと……？ 「ならば、グレースさん。あなたは自分が食べる豚や牛、鶏や全ての生き物の死に罪悪感を抱いているというのですか？ その一つ一つの死に、罪悪感を積み上げていけば、あなたのその性格でも精神は耐えられるものではないでしょう？ だから、僕ら人間は食卓に上った生き物の命の恵みに感謝すれど、死を悼むことはしない。そんなことをしていけば、精神が崩壊する」 「何の話スッか？」 持ち出された例題が随分と場違いな感じがして、グレースは眉間に皺を寄せた。 「……今の話の中の人の部分に彼を置き換えてください。そして、食材の部分が僕ら人間だ。僕らは人に食べられることを前提に生きているわけではない。けれど、理不尽なことに僕らは人に食べられるために飼育されている」 「訳、わかんないスッ！ ハッキリ言ってください」 レイテの言いたいことが見えずに、グレースは声を張り上げた。 「彼は人ではない。あなたは……ドラゴンですね？」 セリフの後半はガランに向かって、問いただすものだった。 「…………ドラゴン？」 ルーは赤い瞳を大きく見開いて、呆然と繰り返す。 目の前にいる人にしか見えないものが、あのドラゴン？ 「先生っ！ ど、ドラゴンって……雪竜みたいな？」 少女は去年の夏に対峙したドラゴン種の姿を思い出す。あの強大な堂々たる体躯の白いドラゴン。大きな羽、太い尻尾、大きな口から覗いた鋭い牙も、爪も……。 思い出すだけで、背筋が震える。 ルーに微かに頷いて、レイテはガランに再度、問う。 「あなたの種は？」 「それを聞いてどうするってんだ？ 牙も爪もドラゴンとしての全てを失くした俺が己の種を口にできると思ってんのかっ！」 「全てを失った？ それは違うでしょう。あなたはドラゴンとして、もっとも尊い誇りを失ってはいない。だからこそ、<人形>というもっとも軽蔑すべき人の形をしたその檻からの解放を願った」 レイテは断定するように言った。 人の世が騒々しくなっているのは、眠っていても大気を通じて感じていた。 だが、そんなことはどうでもいい。人の世が滅ぼうが、大地がそこにあるのなら、空が天にあり続けるのなら、風が吹き続けるのなら、川が流れ続けるのなら、太陽が、月が昇り続けるのなら、星が瞬き続けるのなら……。 ドラゴンであるガランにとって、人の存在など瑣末なもの。生きようが死のうが、たかだか百年しか生きられない人間なんてものはドラゴン種の果てのない寿命に比べれば、瞬きのうちに消え失せる儚いものだ。 同情すら覚えるほどに、哀れで矮小な生き物。 ドラゴン種の中でも好戦的なものは人にわざわざ関わっては、殺しを楽しんでいるものいるようだが、ガランは己の領域を侵しさえしなければ、人と関わろうとも考えなかったし、関わる必然性も考えていなかった。 あの日までは……。 その日は唐突にやって来た。休眠期が明け、地上へと出ようとしたときだった。 気がつけば、周りを囲まれて魔力を封印されていた。ドラゴン種が持っている最高の武器である死の咆哮は使えない。四方からの魔法攻撃に耐えながらも、ガランはドラゴンの肉体と息で戦った。牙で目の前にいた男の魔法使いを屠り、尻尾で女の魔法使いを叩き潰す。両腕の爪で前面にいた二人の魔法使いの身体を引き裂いて、活路を開く。 しかし、どこからかまたゾロゾロと魔法使いが現れては魔法を放ってきた。風が羽を切り裂いた。 ドラゴンの羽は空を飛ぶためのものではあるが、強大であるが故に鈍重になってしまう動きを少しでも軽減するものであった。 羽を切られたガランの動きは見る間に重くなった。振るう爪も軽々とかわされてしまう。魔法使いたちは今が好機と見定め、一斉攻撃を仕掛けてきた。 分厚い鱗を突き破って、幾つもの氷の槍がガランの身体に突き刺さる。苦痛にのた打ち回るガランの耳に飛び込んでくるのは人間の声。 「動きを封じろ！ まだ、殺すな。実験室に届けるまでは生かしておけっ！」 捕縛するという人間の言葉はガランの逆鱗に触れる。 （人間風情が、俺を捕らえるだとっ？） その屈辱はドラゴン種族全てに通じる高慢なプライドを刺激するには十分だった。 命乞いをするくらいならば、最後の最後まで争って命果てる。誰に教えられたわけでもなく、ガランはドラゴンとしての誇りを身に付けていた。 結局、捕らえられ、<破壊巨神>の核として<人形>に魂を移されても……その誇りだけは失わなかった。 だからこそ、復讐なんて言語道断。恨みを抱くということは、負けを認めるということ。 この誇りがある限り、例え牙を失っても、爪を失っても、羽を失っても、自分はドラゴンであり続ける。魂が朽ち果てるその瞬間まで……。 それがガランの最後の誇りであり、願いだった。 |