みらい星 始まりは婚約解消 ― 1 ― 多分ね、普通に出会っていたら。 もしかしたらね、もしかしたらの話。 ――好きになっていたんじゃないかと、思うのよ。 スラリと真っ直ぐに伸びた背筋は、姿勢がいい。だから、背が高く見えるの。 肩幅はそう広くないけど、華奢というほど細くもない。厚くも薄くもない胸板。頼りがいがあるという感じではないけれど、頼りないと思うほどでもない。 ブランドのスーツが特注であつらえたみたいにピッタリだから、カッコよく見える――そんな体型。 切れ長の目元は涼やかで、顎のラインは余計な肉がついていなくて、繊細な印象を与える面差し。スッと、筆で払ったような眉。筋が通った鼻梁。 肌は滑らかで、程よく日に焼けていて、スポーツマンとは言い難いけど、健康的な好男子であることは誰もが認めるだろう。 髪の毛が黒髪で、サラサラっていうのもポイント高い。それをさりげなくワックスで流しているのが、飾っていない感じで好感触。 結構、面食いなのよ、私。 そんな私が合格点を上げるんだから、美形と言って過言はないでしょう。 この相手ならね、一目惚れもあり得るかなってね。思ったの。 ニッコリと柔らかく微笑んだ笑顔を差し向けられたら、純情可憐な花の乙女である私も――それ、誰だ? って、突っ込みは止めてよね――ちょっと、ときめくわけよ。 ポッと頬が熱くなるのを自覚する私の耳に、低いけど柔らかさを持った声が私の名前を口にする。 「ミキさん?」 呼んだ後、そう呼んでいいかと、確認するように小首を傾げる。 未来という字を書いて「ミキ」と呼ぶ。それが私の名前。昨今じゃ、割とありふれていて、珍しくもない名前よね。意味不明の名前よりは、わかりやすくて嫌いじゃないけれど。 「あ、はい」 一応、うちの父親の部下として働く人だから、愛想を振舞っていても差し支えはないでしょう、と。 私も笑みを返す。 周りからは、それなりに可愛いと言われるから、私の笑顔も目の前の美形さんに劣らないと思うわよ――自分で言っていたら世話ないって? だから、突っ込むのは止めてよ。 まだ、話は序盤なんだから。 とにかくね、笑顔で見つめ合ったわけよ。第一印象はもうバッチリね。 でも、次の瞬間、 「話に聞いていると思いますが。僕が、フタバです。これから仲良く、やっていきましょうね」 その人の口から、一番聞きたくない「フタバ」という名前が飛び出たわけよ。 ――フタバ。 その名前はね、絶対に恋なんてしてやるものか、って。そう、心に決めていた、名前だったのよ。 * * * 「フタバって、確か、ミキの婚約者だっけ?」 幼馴染みのカナは事情通。もっとも、根本的なところは間違っているけどね。 「私は認めてないけどね!」 声を荒げて、言い放つ。ええ、もう。認めてないわよ。 大体、小学校も出ていないうちから、結婚相手が決まっているなんて、どういう話よって思わない? マンガや小説じゃあるまいし。そんな設定、冗談じゃない。 でも、そんな冗談じゃないことを平気で通した大人がいるわけよ。 他の誰でもない、うちのハゲ親父がね! 多少、頭が薄くなっているだけで、ハゲというのも可哀相な気もするけどね。娘の都合も考えず、勝手に婚約なんか決めてくれた馬鹿には、ハゲ親父で十分よ。 そんなハゲ親父は、私に「未来」っていう名前をつけるくらい、何かと先を気にする。 例えば、遠足の前の日。天気予報が、明日の降水確率を発表する。 十パーセントなんて予報なら、当日の空を見上げてから、傘なりレインコートなり、用意すればいい話でしょ。 なのにね、うちのハゲ親父は前日から私の荷物の中に折り畳み傘を入れるわけよ。玄関には雨靴を用意する。 用意周到なんて言えば、聞こえがいいけれど。単に、心配性なだけ。 だから、十歳の娘に婚約者を用意した。今から七年前の話。 婚約者の名前はフタバ。私より六つ年上だから現在、二十三歳。 うちのハゲ親父――朱里家が経営する会社の、親会社社長令息――とはいえ、跡継ぎを他所に出すはずないから、フタバは次男坊。 まあ、青埜家四兄弟の名前が上から、一葉、二葉、三葉、四葉とくれば、何番目かわかるわよね――それにしてもこの名付けのセンスも、どうよ? って感じよね。 うちのハゲ親父にあっさり、次男坊を上げちゃうあたり、親会社の社長もなかなかオモロイ人――無理矢理、関西弁を使うなって? 笑い話に仕立てなきゃ、やってられないんだから、大目に見てよ。 とにかく、そんな経緯で私は十歳にして六つ年上の婚約者を得たわけ。 とはいえ、フタバには同情しないでもなかったわけよ。 うちのハゲ親父の会社を継ぐより、親の会社の重役職についた方が、ずっと将来有望だったわけだから。 当時、フタバは十六歳。今の私より年下だったわけだから、なおさら同情するわ。だって、相手は小学生よ? 恋愛対象になったりしないでしょ。 うちのハゲ親父の話に乗って、私もフタバも人生、決定づけられた。 誰かに恋をすること。そんなささやかな夢を見ることも許されない、可哀相な私。 ――何たる、悲劇っ! 「よく言う。誰彼構わず、美形だ、カッコイイとか、騒いでいるのは誰だっけ?」 カナの突っ込みに、私は黙る。 幼馴染みのカナは長身で、どこか宝塚の男役のような雰囲気がある。そのせいか、男っぽい口調で、ズバッと痛いところを突いてくる。 「セイカも、ミキに彼氏を紹介するときは気をつけた方がいいよ。こいつ、恋に恋する乙女? ――だからさ」 「乙女」に疑問符をつけるように首を傾けて――何で、つけるかな――ニヤニヤと笑ってカナが忠告したのは、クラスメイトのセイカちゃん。 美人で礼儀正しい彼女は、私なんかよりよっぽど「お嬢様」らしい。 二つ年下の幼馴染みとの恋愛を満喫しているセイカちゃんは、女の私から見ても実に可愛らしい「恋する乙女」だ。 ああ、私もセイカちゃんみたいな乙女になりたかったわけよ。 名前だけしか知らない婚約者と、十八歳になったら結婚だなんて。お先真っ暗もいいところじゃない? そりゃ、別に恋愛だけが人生じゃないけれど。恋愛を取り上げられた人間としては、否が応でも「恋愛」をしたくなるわけ。 だからね、私は恋をするために、その対象を探しているの。面食いなのはしょうがないじゃない。だって、一目惚れというシチュエーションを求めるのなら、美形じゃないとね。 「―― 一目惚れじゃないと駄目なの?」 言い訳する私に、セイカちゃんは不思議そうに小首を傾げる。セキセイインコみたいね、可愛いわ。 「だって、セイカちゃんみたいに何年も愛を育んでいる時間なんて、私にはないもの」 そう言うと、セイカちゃんは頬を真っ赤に染めて俯いた。 セイカちゃんは幼馴染みの男の子に長い間、片想いしていた。今年のバレンタインデーに一大決心して、告白したことで晴れて、彼氏彼女になった。 そんな風に、時間をかけている余裕なんて、私にはないのよ。 十八歳になったら、結婚することが決まっている。 好きな大学に行っていいとか、就職も好きにしていいとは言われている。 でも、結婚話だけはうちのハゲ親父は譲ってくれなかった。 超ど級の心配性――だから、四十歳になったばかりだっていうのに、ハゲちゃうのよっ! ――ハゲ親父の考えていそうなことくらい、長年娘をやって来たからわかっている。 自分に何かあったらなんて、心配しているのよ。 母は私が八つの時に亡くなった。その四年前ぐらいから、闘病生活を続けていたから、私の生活空間に母がいた時間は少ない。 実質、父子家庭のような環境が物心つく頃にはあって、親戚縁者はそう多くないのに、財産だけはあるから――小さな会社だけどね――寄って来る親類は、あまり性質がよくなかった。 ハゲ親父は自分がいなくなれば、私が独りになって大変なことになると思い込んで、青くなった。 会社のこともあったんでしょ。長年、病気を患っていた母を見ていたから、自分も同じように病んでしまったらという不安は拭えなかったんでしょ。 そこで、信頼しているフタバの父親に相談したところ、私とフタバの婚約が成立したというわけ。 確かに、小学生の頃は私だってハゲ親父がいなくなったらどうしようなんて、不安を覚えていた。 小さい会社だけど、従業員だっているんだから、社長に倒れられたら堪らない。 母の闘病生活もあって、心底疲れた顔をして、居間のソファで倒れこんで寝ているハゲ親父をみれば、私もしっかりしなきゃと思ったものよ。 不安はハゲ親父だけじゃなく、私の中にもあったの。 それをハゲ親父も敏感に察したのかもしれない。 私とハゲ親父の不安の解消のために、結ばれた婚約。 自分に何かあっても大丈夫だって、勝手に一人で納得して。私の気持ちなんて、全く考えずに、ハゲ親父は無邪気な顔をして、昨日、フタバを私に紹介した。 その顔に飛び蹴り食らわせてやりたかったわ、まったく。 小学生のときならいざ知らず、私は十七歳になったのよ? 誰かに保護してもらわなきゃならないような、子供ってわけじゃないわ。だから、婚約話なんて、もうどうでもいいじゃない? それでも、ハゲ親父は絶対に私とフタバを結婚させるっていうの。 「いい男なんだろ? 別に、婚約者だからって気負わず、普通に一目惚れしたことにすればいいじゃん。実際、一目惚れする相手としては、不足がなかったのならさ――恋愛したいわけだろ、ミキは」 胸元で腕を組んで、カナは偉そうにふんぞり返る。女の子なのに、女の子にモテるのは、その男っぽい所作がある。 本人はあえて、そういう男っぽさを演出して楽しんでいる節もあるけれど、男の子を好きになったとき、困ったりしないのかしらと、幼馴染みの私としては心配する。 「フタバだけは、駄目よ」 絶対、フタバとだけは恋をしないと決めているんだから――と反論すれば、 「何で?」 間髪入れずに問いが返って来て、私はちょっとだけ口ごもった。 「……だって」 フタバだけは駄目だということは、フタバ以外なら誰でもいいということ。 恋愛相手にこだわりを持っていない時点で、フタバを拒絶する理由なんて、わがまま以外の何でもない。 そういう自覚があったから、私としても答えを瞬時に返せない。 本当のところ、相手にこだわるのなら、それこそセイカちゃんみたいに何年も想いを積み重ねるような――そんな恋の相手じゃないと駄目なんだと、思うの。 「だって……ハゲ親父の策略に乗るみたいじゃない?」 「ようするに、親父さんへの反発か」 訳知り顔でカナに指摘されて、私はぐうの音も出ない。 その通りだから、嫌になっちゃう。 フタバに同情しながら、フタバを許容できないのは、ハゲ親父への反抗心に他ならない。 あのね、私だってハゲ親父の苦労を理解しているつもりよ? だから、大学では経営の勉強をして、会社の助けになれたらとか考えて。県内一の進学校にがんばって、入ったのよ。今だって、受験に備え、放課後に居残って、校内の図書室でセイカちゃんたちと勉強会をしている。 少しでも、私にできることを――って、私なりに考えていたのに。 そんな私の気持ちを知らず、ハゲ親父はフタバを自慢げに、私へ紹介した。もう自分の息子のような馴れ馴れしさ。 フタバは高校途中から海外に渡って、あちらで会社経営の勉強をして来たというから――だから、今まで私はフタバと会ったことなかった――語学も堪能。 正に会社を継ぐに相応しいだけの人材だ。 県内一の進学校であるこの高校に入るのに、苦労していた私とは出来だって違うでしょうよ。私なんかがいなくったって、フタバがいれば会社は安泰でしょうね。 フタバを前にすると何だか、中途半端に浮いてしまった自分がいるの。 「結局、寂しいんだろ? 親父さんに頼ってもらえない自分が」 長年の付き合いは伊達じゃない。私の痛いところを突いて来る。 ハゲ親父にとって心配の種でしかない私と、信頼を預けられたフタバ。 どちらがハゲ親父にとって有益な存在か、一目瞭然でしょ。それを思うとね、何だか、今までがんばってきた自分が惨めに感じるの。 そんな風に思うのは、私が子供だから? 会社のためだと割り切ってしまえば、婚約に対する反発も消えるのかしら? だけど、どうしても婚約を容認できないの。フタバを受け入れがたい。 フタバは悪い人じゃないと思う。 私を見る目も、婚約者だというモノを見る目じゃなくって。何となく感じたことだけどね。一人の女の子を見る目だった。 『――ミキさん?』 私の名前を呼んだ後、馴れ馴れしかったかな? と、後悔を滲ませ、そう呼んで良かったかと確かめるように首を傾げた一瞬、フタバの目に過ぎったのは、嫌われるのを恐れるような気配。 あれだけハゲ親父に気に入られていたら、いまさら私のご機嫌を取らなくても、会社はフタバのものになるだろう。 それでも、フタバは私の反応を伺った。傲慢ってわけじゃない。 それでいて、私の顔色ばかりを伺うようなわけでもない。 『仲良くやっていきましょうね』 と、宣言してくれたんだから。 そうして、フタバは私の家に乗り込んできた。 今日から、一緒に住むという――とりあえず、ゲストルームに寝泊りすることになっている――ハゲ親父は晩酌の相手ができたと大喜びで、当然、私の抗議は聞き流された。 「……憂鬱。家に帰りたくない」 帰宅を促す音楽がスピーカから流れてきて、私はぼやいた。 ハアッと盛大にため息を吐けば、セイカちゃんが「大丈夫?」と、心配してくれた。 ありがとう、セイカちゃん。やっぱり、私が見込んだとおりの優しい乙女ね。私、男だったらセイカちゃんと結婚したかったわ。 「要はさ、その婚約者を好きになればいいじゃん。それだけのことだろ?」 ホラ、帰るよ、と。カナに促されて、私たちは渋々――渋っているのは、私一人なんだけど――図書室を出た。 好きになればなんて、簡単に言ってくれちゃう。 それが出来たら、こんなに愚痴ったりしないわよ。 うん、……ホントはね、簡単なの。 私はフタバが嫌いってわけじゃないのだから。まあ、まだどんな人かよくわかっていないから、嫌いようがないだけなんだけど。それでいて、第一印象が凄く良かったから。 ただ――好きになりたくないの。好きになったら、負けるような気がしている。 だって、このままじゃ私はどこへ気持ちを持っていけばいいの? 私の気持ちを無視して勝手に決められた未来を、そのまま受け入れたら、私自身が私をないがしろにしてしまう。 私の未来は、私のものでしょ? ならば、恋の相手ぐらい、私は私で選びたい。その選択肢の中に、フタバが入っていないのは、私の子供染みた意地だけど……。 昇降口で私は独りになった。セイカちゃんは幼馴染みの彼氏と一緒に帰るから、グランドへ向う。彼氏はサッカー部員なんだって。 カナは、忘れ物をしたと言って、教室へ戻っていった。 どこかでお茶したいから、待ってようか? と尋ねてみたけど、この後、用事があるらしい。 真っ直ぐ帰れ、と。あっさり振られちゃった。 途方に暮れている私の長く伸びた影は、夕闇に飲み込こまれ、レンガ敷きの中庭に滲んでいく。 帰りたくないんだけど、引き止めてくれる人もいないから、帰らざるを得ない。 「――ミキさん」 校舎を出て校門へと向う途中で、記憶にある柔らかな声が、私を呼ぶ。 ハッと顔を上げれば、校門のところで――なんてこと! フタバがいるわっ! |