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 ― 2 ―


 学校にまで押しかけて来ているフタバを前にして、
「何で、ここにいるのっ?」
 私は思わず、責めるような口調で言ってしまった。
 フタバは何も悪くないと、頭ではわかっているけれど、感情がついていかない。
 だって、この人が婚約者だって対面したのは、昨日よ? しかも、私自身はこの婚約を認めていない。
 落ち着いて対処できる相手じゃないのよ。態度が刺々しくなったって、しょうがないじゃない。
 調子が悪くなって俯いた私の耳に、苦笑交じりの柔らかな声。
「少し……帰りが遅いようだったから、心配になって迎えに来ました」
 そう言うフタバの背後には最高級車が停まっている。
 くっ! さすが、大会社の社長令息だわ。大学出たてだというのに、もう高級車? きっと、オモロイ社長さんに買ってもらったのね。
 うちのハゲ親父はその車には手が届かず、ワンランク下の車に乗っているというのに。
 子会社であるハゲ親父の会社と、フタバの実家の親会社とは、明確なまでの差がある。
 心配性のハゲ親父のことだから、会社は堅実経営。バブルと呼ばれていた頃もあまり冒険をしなかったらしい。それが功を奏して、不況にも大した影響を受けずに済んでいた。
 損はしないけど、あまり儲けもしない。普通よりはちょっと裕福だけど、大金持ちと呼ぶには遠い。
 ねぇ、肩書きは社長令嬢とはいえ、私とフタバじゃ身分違いもいいところじゃない?
 フタバの方から、婚約話をなかったことにしてくれればいいのに。
 半ば、八つ当たり気味の感情が私の中に満ちてくる。
「貴方に心配される謂れなんて、ないんですけど」
 苛立ちにささくれ、尖った声が、気がつけば私の口から出ていた。
 瞬間、少しだけ傷ついたような表情がフタバの顔をかすめた。直ぐに取り繕うような笑みを見せて、首を傾げた。
「ミキさんの方にはないとしても、僕の方にはありますから」
 スッと伸びてきた手が、私の手から鞄をさらう。
「ちょっ……」
「帰りましょうか」
 私の抗議の声を、これまた同居を決めたときみたいに聞き流して、フタバは車に乗り込んだ。そうして、助手席側のドアを開けて、私に乗れと促す。
 ――誰が!
 一緒に帰るなんて、冗談じゃない! と思ったのも、つかの間。
 財布から何から鞄ごと、敵の手中にあることに気づいて、私は車に乗り込んだ。
 私の鞄は後部座席に置かれていた。その位置を確かめていると、
「シートベルト、お願いしますね」
 フタバがドアをロックして、告げた。反射的に、シートベルトをつける。
 鞄を奪取して、逃げるってわけには行かなくなった。
 一本とられたわ、屈辱。
 車が静かに発進する。さすが、最高級自動車。乗り心地は抜群で、揺れも少ない。多分、フタバの運転が上手いっていうのも、あるだろうけれど……認めたくないわ。
 運転の上手さも、十七歳の小娘を簡単に手玉に取ってしまう余裕も。
 何でも出来てしまう人なのね。
 六つの年の差があるとしても、やっぱり、私には敵わないのかしら。
 ……私が馬鹿みたいに気を張っても、しょうがないの?
 私が会社を継いであげるなんて言うより、フタバと結婚した方がハゲ親父は喜ぶのかしら。
 母の葬儀の日、子供みたいに泣いていたハゲ親父を――その頃は、まだハゲてはいなかったけれど――見て、私がしっかりして、支えてあげなきゃと思った決意は、所詮、子供の浅知恵?
 多分、その通りだと思うけど。それでもやっぱり、認めたくないの。
 私のこれまでの時間、無駄だったなんて、言いたくない。これからの時間も、私は私が考えた道を歩きたい。
 そう考えれば、フタバは敵なのだと思う。
 憤然とした表情で、窓の外を眺めていると、フタバの声が耳に触れた。
「ミキさんは――僕のこと、嫌いですか?」
 随分と、単刀直入に聞いてくる。
「嫌いだ」って言われたら、どうするつもり?
 思わず、相手のダメージを心配してしまえば、私の口は「……別に」と、まごついた。
 それから、ハッと気づく。
 私がフタバに嫌われたら、婚約破棄されるんじゃないの?
 そしたら、私も自由の身?
 ああ、でも。あまり怒らせると、ハゲ親父の会社経営に響くかしら? 何しろ、フタバの実家はうちのハゲ親父の会社の親会社だし。
 ここは嫌われるというより、呆れられる路線で、フタバから距離を取るべきね。とはいえ、どうしたら、婚約破棄に持ち込めるのかしら?
 呆れられるって……理解不能なギャルを装ってみる? 考えてみたけど、三秒で却下。無理だわ、私にはあんな真似できない。
 眉間に皺を寄せて唸っていると、再びフタバが問いかけてきた。
「では、僕のことが好きですか?」
 思わず、ポカンと口が開く。
 照れるってことを知らないのかしら、この人。
 海外暮らしをしていたとはいえ、オープンすぎない? 第一に、好きか嫌いかの二択しかないの?
 いきなり確信を突く質問されたって、答えに詰まるわよ。二つしか選択肢がなかったら、怒らせないで断られる返事なんて、できやしない。
 私は頬がひきつるのを自覚した。
 きっと、私の今の顔はとんでもないくらい、不細工じゃないかしら?
「……何でそんなことを聞くんですか?」
 当然、好きだなんて言えるはずがないから、私は問いで返して、答えをはぐらかす。
「ミキさんは――僕との結婚に、乗り気ではないようだから」
 に、鈍いわけじゃないのね……。できれば、もう少し鋭くなって、私の気持ちを察して欲しいわ。
「……誰か、好きな人でも?」
 ちょっとだけ、フタバの声が慎重になった。
 そんな人はいない、と言いかけた私の脳裏を何かがかすめる。
 婚約が嫌で、誰か別の人を好きになろうとした。でも、悲しいかな、この人だと思える人はいなかった。
 ただ、ちょっとだけ気になっている人はいる。
 名前も顔も知らないんだけど、その人は初恋の人と呼べるだろう。
 母の葬儀の時、泣きじゃくるハゲ親父を見て、しっかりしなければと思った。その瞬間、私は私自身に泣くことを禁じた。
 母と過ごした時間は少なかったけれど、それでも私は母が好きで。日に日に痩せていく母を見ているのは辛かったし、母が亡くなった時には、胸に言葉に出来ないくらい悲しみが満ちた。
 だけど、泣いちゃいけないと思った。
 きっと、私が泣けば、ハゲ親父は私を慰めるために、泣くのを止めるだろうと思ったからだ。
 そうして、涙を堪えていた私の前を通りすがった人がいた。若い声だったから、大人じゃなかったと思う。
 その人は、俯いている私の頭を優しく撫でてくれた。我慢している私に気づいたのか、泣いていいよ、と囁いてくれた。
 でも私が、泣いたらハゲ親父が泣けなくなるから駄目だと言えば、『偉いね』と一言、誉めてくれた。
 子供がそんなことを考えなくてもいいと、今の私なら当時の私に言うだろう。
 でも、その人は子供なりに考えたことを笑いもせずに、受け止めてくれた。
 あの人の一言が、私にはとても嬉しかった。
 結局、涙を堪えるために目を瞑っていたから、その人の顔は見ていない。声だって、今はきっと変わっているから、目の前に現れてもわからない。あの人を今も思い続けるほど、私は子供じゃないから、好きな人なんてやっぱりいないと答えるべきなんだろう。
「フタバさんは、私と結婚したいんですか?」
「はい」
 躊躇う間も置かずに、返事が口にされて、私は唖然とする。
「政略結婚ですよ?」
「僕にとっては恋愛結婚ですよ」
 何を言っているんだろうと、思わず目を剥いた。
「ミキさんは僕のことを覚えていないでしょうけれど、僕はミキさんを知っていました」
 ドキンと、胸の奥で心臓が跳ねた。予感を覚える。
 赤信号を前にして、車は停車した。前方から視線を動かして、フタバが私を見据えた。
「――もし、許されるのなら。僕はミキさんを幸せにしたい。あの日からずっと思っていたんですよ」
 真っ直ぐに私を見つめてくる視線の熱に、私は真っ赤になった。
「――信号、青になったっ!」
 話をそらすように、私は声を張り上げて前方を指差した。
 フタバは前に向き直って、ハンドルを握る。再び、車は走り出す。安全運転を心掛けてか、フタバは運転している間、決して余所見をしなかった。
 私は助手席で、バクバクなっている心臓を抑えて、頬の火照りを冷ますのに一生懸命だった。
 動揺したっ! 焦ったっ!
 何、今の? 今の、何?
 フタバは私のことが好きなの? だって、六つ年下の小娘よ?
 婚約が決まった時なんて、私は十歳で、フタバは十六歳。小学生と高校生じゃない。どう考えたって、恋愛対象にはならないでしょ?
 何、フタバはロリコンなの?
 様々な疑問が私の脳内を駆け巡る。
 ハゲ親父が勝手に決めた婚約話。それは私にとっても、フタバにとっても傍迷惑な話だと思っていた。
 けれど、それは違うの?
 フタバはハゲ親父から会社を譲り受けることじゃなく、私と結婚することにも乗り気なの?
「どこか、寄り道しますか?」
 閑静な住宅街へと入って行く道を前にして、フタバが一言問いかけてきた。
 私はブルブルと首を横に振った。とりあえず、一人になりたい。早く家に帰って、自分の部屋に逃げ込もう。
 私がそう決意しているうちに、車は家へと辿り着いた。
 親子二人が――それは昨日までだけど――住むには、大きすぎる家。私一人じゃ、掃除なんて追いつかない。第一に、母がいなくなってから、家事の手が存在しないから、通いのお手伝いさんが来てくれている。
 フタバは勝手知ったるなんとやらで、ガレージに車を納めた。
 車が止まると同時に、後部座席の鞄を取って、逃げようとした。
 鞄を掴んで、ドアを開けようとした瞬間、フタバの手が私の肩に触れた。
 強い力ではないけれど、私は動けなくなって、フタバを振り返った。
 真っ直ぐな視線が私を見つめている。
「――僕と結婚してください」
 視線と同じくらい直球のプロポーズ。
 待って!
 待ってよ――って、思う。
 いきなり、この展開はないわ。恋愛の余韻も何も、ないじゃない。
 ていうか、私ったら、いつの間にフタバを恋愛対象にしているわけ?
 だって、フタバは私の敵でしょ?
 私は自分の未来を自分で決めたいから、フタバを好きにならないと心に誓ったのよ。
 それなのに、私の心は目の前の男の視線に揺さぶられていた。





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