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 光の章 この道の続き


 ――お前は死ぬよ。

 不吉な予言を抑揚のない声で告げられたとき、それが自分の運命を語っているのだと、迷うことなく受け止められたのは何故だろう。
 五体満足で体力にも不足のない人間に未来の死を予言することなど、難しい。まして、訪れるだろう己の死を肯定し受け入れる者など多くはないだろう。
 僕は一度、死に直面したことがある。
 身体から血が失われ指先が凍えていく。だけど、傷口が熱く、身体を焦がした。あの日のことは一つとして忘れていない。
 段々と薄れていく意識を繋ぎとめるように僕は叫びたかった。
 まだ死にたくない、ここにいる、誰か助けて――と。
 しかし、声は喉にあいた穴から、ひゅぅと笛のように鳴るだけだった。
 誰もが雑草の狭間に転がった屑に見向きもしなかった。
 親を失い、橋の下で身体を丸めて眠っているような家なしの子供は、道端に転がる石くれと同じ。踏みつけられるか、蹴飛ばされる。
 鬱憤(うっぷん)を晴らすべく、道すがら通りかかった大人が僕を突き飛ばしたのが始まりだった。
 骨が折れたのか、足が動かなくなった。脂汗が滲み出てくるほどの激痛に、身体を抱えて蹲れば、邪魔だと背中を蹴られた。
 同じ年ぐらいの子供にさえ、草履の底で踏みつけられ、棒で突かれ、唾を吐き捨てられた。
 身体を走る激痛に立ち上がることも叶わずに、動けなくなった僕は野犬の餌へと鳴り果てていた。
 身体を齧られ、皮膚が裂ける。血がとくとくと傷口から、溢れていく。
 産まれて何年生きてきたのか、自分の年も知らない。名前すら僕にはなく、親の顔すら覚えていない。似たような家なしの大人たちのみよう見真似で、命を繋いできた。
 決して、褒められた生き方をしてきたわけではない。
 人様の家の軒下に干された着物を盗んだ。畑から勝手に作物を引き抜いた。人の袂から財布を掏ったこともある。
 罪人と誹られれば、僕はまさしく穢れた人間だろう。屑と呼ぶにふさわしいかもしれない。
 だけどそれでも、生きる権利を求めるのは、いけないことだったのだろうか。
 塵のように捨てられ、誰にも知られることなく、死んでいく。惨めだった。
 せめて誰か、僕の最期を看取ってくれ、そう訴える視線に誰も振り返ってはくれない。僕は既に死んでいるのか、そこにある意思すら幻想なのか。
 この痛みも絶望も、何一つ意味を持たないものだとしたら、生きているだけ虚しい。
 死を間近に感じて、それでもどこかで抗っていた。あの日の僕は、確かに死を恐れていた。
 けれど姫様が僕を見つけてくださり、命を取り留めた。
 姫様や御母堂様の手厚い看護に命を繋いだ僕は、

 ――お前は死ぬよ。あの子を守って……。

 淡々と言葉を紡ぐ若様の声を聞いて、根拠など何処にもあるはずはなかったのに、己の死を受け止めていた。
 こくりと頷いた僕に、若様は柳の葉のような眉をひそめる。姫様と同じ腹から生まれた若様は、まだ少年というお年でも立派な剣士であらせられた。
 若様が言うあの子とは、当然ながら、姫様のことだろう。
 後に宣託の巫女姫として都を見下ろす神殿に祀られる、神様の寵愛(ちょうあい)を受けた人。
 死にかけていた僕の手を取って、助けてくれた人。
 生死の境を彷徨い、かろうじて命を繋いで目覚めた僕に、涙をこぼしてくださった姫様を目にしたときから、僕は姫様を愛した。
 姫様は、僕のすべてを犠牲にしても、守りたい大切な人だ。
 だから、若様のお言葉は予言でも何でもなかった。
 僕は姫様のために死ねるのなら、本望だ。姫様のためだけに死にたい。他の誰のためでもなく、姫様のためなら死ねる。
 そう瞳で訴えた。声はあの日、喉を傷つけて失った。
 元より、学のない自分は碌な言葉を知らなかった。
 このお屋敷に引き取られ、上品な人々の言葉を耳にして、自分のなかにある想いを表現するということができるようになってきたけれど、悲しいかな、肝心の声が出なかった。
 それでも僕の真摯な思いは伝わったのだろう。
 真っ直ぐ見返した僕に、若様の秀麗なお顔が歪む。

 ――どうしてお前たちが、犠牲になるんだ……。

 苦しそうに、辛そうに、吐き捨てられた声が僕の胸をうった。
 術師の家系で予知夢の能力は女の人にしか受け継がれないということだった。だから、姫様は当然ながらその力を授かっている。故に十六になれば、神殿に祀られる。
 そんな姫様と同じ腹から生まれた若様にも、予知夢の力が授かっていたことを知るのは、僕だけだった。若様は僕にだけその秘密を教えてくれた。ただ、その夢も己の身辺に関わるものばかりで、姫様の夢が中心だという――予言者としてはできそこないだと自嘲しながら。
 そんな若様が、大人になった僕が姫様を守って死ぬのだと、教えてくれた。
 僕が姫様の運命に大きくかかわっていたから。
 姫様を守って、僕が死ぬから。
 だから、僕の運命を変えることで、若様は姫様の運命を変えようとしたのだ。
 宣託の巫女姫という神の寵愛を受ける姫様は、だけど国のための人柱でもあった。神殿に囚われたらその力を失うまで、外に出ることは叶わないらしい。
 姫様の御母堂様も若かりし頃、宣託の巫女姫であらせられたという。神殿に囚われることがどれだけ孤独で辛いことか、若様に語っては姫様の行く末に涙をこぼされたという。僕はそのことを若様から又聞きした。
 姫様を宣託の巫女になどしたくはないと、若様は歯軋りをしておっしゃられた。
 若様は、姫様には自由でいて欲しかったのだろう。
 妹君をとても大切にしている若様を僕は、姫様の次に敬愛している。
 できれば、若様の願いを叶えて差し上げたいと思うのだけれど、生憎と僕には姫様の身の安全の方が優先すべきことだった。
 宣託の巫女のお役目は姫様にとっても、大変なお勤めだろう。それでもいずれ、御母堂様と同じように子を産めば、姫様も重責から解放されるはずだ。恐らくは十年ばかり。
 その間、闇に閉じ込められ、国のために夢を見ることを強制される。自由はない。
 でも、その分、姫様の安全には気が配られる。
 この国の行く末を見守る方だから、神殿は堅固な守りで、姫様を保護してくれる。
 橋の下で凍え死ぬような夜を過ごすことも、寝床の心配をする必要も、明日の糧を心配する必要も、己の命運に恐れ抱くこともない。
 それは僕のような家なしに生まれついた人間にとって、自由を引き換えにしても手に入れたい保証だ。
 若様が見た予知夢で、姫様は長く生きるとあった。それは宣託の巫女となり、僕の命が犠牲になって築かれる未来であるのだと、若様はいう。
 ならば僕は、姫様のために命を捨てようと思った。
 いや、捨てるのではない。姫様のために、使うのだ。
 誰にも顧みられず塵として消えるはずだった僕の命が、姫様のために役に立つ。こんな嬉しいことはない。
 僕がこの世に生を受けたのは、姫様のためだったのだろう。
 姫様のために、僕は運命の日まで生きたい。

 ――本気で、運命を受け入れるつもりなのか。

 決心を確かめるように若様が迫る。僕は迷いもなく、頷いて返した。
 僕の運命が変わってしまえば、姫様は宣託の巫女として神殿に囚われることはなくなるかもしれない。けれど、同時に約束された未来や、生を失ってしまうかもしれない。
 宣託の巫女が存在しない国の世は、ときに混沌として乱れる。
 巫女が見る予知夢は決して明るいものばかりではない。天災を予言することもある。
 けれど、予言があることによって日照りが続いても、備蓄していた食料で飢饉(ききん)を免れた歴史があれば、予言がどれだけ重要か、政に疎い僕でもわかる。
 御母堂様が宣託の巫女姫の位を退かれて、姫様が次代の巫女になられるまでのこの空白。僕自身が世の混乱を肌で感じていた。
 国が安定していれば、親に捨てられる子供はいなくなるだろう。どんなときにも、子を捨てる親がいるのだとしても、子供相手に憂さ晴らしをするため、暴力を振るう大人は少なくなるだろう。それは楽観したものの見方だろうか。
 人間は残酷で非道な存在だとは、僕は思わない。
 僕を助けてくれた姫様や若様の存在を知れば、人はそれほど酷い生き物ではないのだと、希望を抱く。
 だからこそ、安寧が欲しかった。希望を信じていられるように。
 それに、混乱した世では、宣託の巫女でなくなった姫様の存在は軽視される。
 そこらの娘と同じように、危険が付きまとうだろう。
 暴徒と化した者が貴族のお屋敷に押し入る例は、少なくない。
 誰かの汚い手が、姫様を穢すなど考えるだけで、背筋が凍る。姫様の笑顔が曇ることを想像しただけで、息が詰まる。
 姫様には未来永劫、健やかで心穏やかな日々を過ごして欲しい。そのために暫く不自由な思いをしなければならないのだとしても。そのために僕が死ぬのだとしても。
 僕は若様に剣術の教えを請うた。
 姫様が神殿に祀られた数年後、賊が神殿を襲うのだと、若様が見た予知夢は告げていた。そのときに僕は賊と戦って死ぬらしい。
 姫様はその後も生き続ける。ならば、僕は姫様をお守りして死ぬのだろう。
 こうして運命を知らされることも、僕が選ぶ未来にとって、予め定められていたことなのかもしれない。
 何も知らなければ、僕は強くなろうと決心はしなかっただろう。いずれ、神殿に赴かれる姫様を見送るのだと思っていた。
 けれど、強くなれば姫様のお傍にいられる。死を迎えるその時まで、僕は姫様のために生きられる。
 若様は僕の覚悟を確かめるように、厳しく当たられた。力強い木刀の一振りに、何度手を痺れさせたことだろう。受け損ねた一撃が肩や腕を打って、激痛に気を失いかけたことも数知れない。
 それでも僕は若様に向かって行った。
 強くなりたかった。姫様をお守りするために、僕は強くなりたかった。
 この想いが僕の武器だった。誰にも負けなかった。負けたくなかった。
 やがて、僕の身体は姫様を抱え上げることも苦にならなくなっていた。
 二人でお屋敷を抜け出して、市場へと出た。
 神殿に身を置けば、姫様は夢を見るために、闇へと閉じ込められると聞いていた。
 例え闇のなかに閉じ込められたとしても、僕は姫様に色々なものを覚えていて欲しかった。目蓋の裏に色彩を記憶していて欲しかった。
 寂しくないように、辛くないように。一人ではないのだと、覚えていて……そして僕を忘れないで欲しかった。
 僕が死んでも、同じ空を見たこと。虹を見たこと。花の蜜を味わって、笑い合ったこと。
 降り注ぐ陽ざしの熱も、木陰の涼しさも、小鳥の歌声も、小川の水面の煌めきも。
 転びそうになった姫様を抱きしめたときの、僕の鼓動の一つ一つを忘れないで欲しかった。
 草笛の楽を喜んでくれたから、僕は若様にお願いして横笛を教えて貰うことにした。
 綺麗な音色を姫様に届けたかった。聴いて欲しかった。
 姫様が十六になられ、神殿から迎えが来ることが決まった日、若様はもう一度、僕の決意を確かめた。
 あの子のために死ぬのかという、若様の問いに、僕はやはり迷うことなく頷いていた。
 答えは昔と変わらない。
 唇を噛んだ若様は、僕に姫様の守人(まもりびと)を命じてくださった。
 ――絶対に死ぬなよ。俺はお前を死なせるために、お前に剣を教えたんじゃない。あの子を守るために、教えたんだ。

 ――最後まで諦めるな、と。

 そう念を押して、僕たちを送りだしてくださった。
 神殿に向かう姫様が乗られた牛車にお供しながら、僕は若様に心の中でお詫びした。
 僕を守人に命じなければ、僕は神殿に入ることも許されずに、死なずに済んだのだろう。けれど、そうしたら姫様をお守りする者はいない。
 若様の信頼に値する腕を持つ者は、誰もいなかった。だから、若様は僕を守人に選ばざるを得なかったのだ。
 若様は苦悩されたのだろう。だけど、僕は喜んでいたのだ。
 僕が死んでも、きっと若様は覚えていてくださるだろう。遠い未来、姫様と僕のことを思い出してくださるのではないかと、甘い期待を抱く。
 神殿での僕と姫様は壁に仕切られた。鍵が掛かる扉の向こうに闇がある。その中に閉じ込められた姫様を僕は外からお守りする。
 壁の向こうにいる姫様を感じながら、僕は姫様のお顔を拝すること叶わなかった。
 宣託の神儀の折、姫様は美しく飾られ、部屋から出ることを許されるけれど、僕のような身分の者が直接姫様のお顔を拝顔することは叶わない。御簾(みす)越しの姫様の影を見つめ、覚えている姫様の顔を思い出す。
 牛車から降りられた姫様を神殿へ導く、僕が姫様に直接触れることを許されたあのとき、僕の手を強く握り返して浮かべたのは、寂しげな笑顔……。
 姫様は僕が死ぬことを既に予知されているのだろうか。神殿の警護が増えたのは、予知があったからだろう。僕が死ぬことまで、夢に見ているのだろうか。
 だからあんなに寂しそうなお顔で僕を見つめてくださったのか。
 別れを知っていたから……。
 儀式が終わって塗籠めに戻られる姫様の後を追って、奥へと続く閉じられた扉の前に僕は立つ。ここが僕の持ち場だ。この先は姫様のお世話をする女人以外は誰も通さない。
 闇のなかで、姫様はどのようにお過ごしなのだろう。怖いだろうか、闇に閉じ込めてしまう運命を選んだ僕は間違っていただろうか。
 何度も自問自答する。けれど、引き返せるはずがない。
 愚かなことをしてしまったのかもしれない。僕はただ、姫様の記憶に残りたくて、酷な運命を押し付けてしまったのではないだろうか。
 時折、壁の向こうから姫様のか細い声が問う。
 ――そこにいるの、と。
 闇は姫様を孤独に誘う。
 僕はここにいますと囁くように笛を奏でた。
 姫様、僕はお傍にいます。運命の日が訪れるそのときまで、何があっても離れません。
 想いを込めて笛を吹いた。声を失っていて良かったと思った。声を持っていれば、僕は恥知らずにも姫様に想いを伝えていたかもしれない。
 神様の寵愛を受けた巫女に、元は家なしの男が懸想(けそう)するなど、許されないだろう。
 姫様に想いを伝えようとは思わない。誰かに許して欲しいわけでもない。
 僕はただ、姫様を想う。それだけだ、だから笛を吹く。
 笛の音ならば僕の想いは音色に溶けて、誰にも知られずに済む。
 そして、運命のときがやってきた。
 神殿のあちらこちらで悲鳴が響き渡る。僕は姫様がおられる塗籠に通ずる廊下に立ち塞がって、敵と相対した。
 振り下ろされる刃を下からはね上げる。鋼が打ち合わさり、火花が弾け散る。抜刀の勢いに押されて、よろけた敵の開いた胸元に手首を返して、太刀を叩きつけた。肉を斬って、骨を断つ。倒れた賊の影から現われた新たな敵の首を跳ね飛ばして、心臓を突く。
 敵である者に容赦はしない。誰にも姫様には触れさせない。
 吼えるように刃をうならせ、空を切る。血飛沫に視界が赤く染まる。頬に跳ね返る熱は命の残滓(ざんし)。いずれ僕も雫となって、散って逝くのだろう。
 だから、命を断つことに躊躇(ためら)いはしない。人を殺した(ごう)はこの身で(あがな)う。それは約束された運命であるのだから。
 次々と襲ってくる敵を斬り伏せる。賊は際限なく、現われる。それほどまで、姫様の命が欲しいのか。姫様が己の自由を犠牲にして、この国に安寧を導こうとしているのにっ、どうして。
 怒りが僕を突き動かす。
 刃が脂で鈍り、急所まで届かなかった。伸ばされた敵の手が僕の袂を掴む。動きが乱された瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
 背後から突き出た太刀の切っ先が視界に入って来る。喉を突いて溢れる血に息が詰まる。
 急速に身体の力が抜けていく。死が僕の心臓を掴んで、握り潰すのがわかった。

 ――姫様……。

 暗くなる視界の向こうで、賊の一人が姫様のもとへと向かう気配がした。
 まだだ、まだ死ねない。
 姫様の安全なところまでお連れするまで、僕は逝けない。
 重たくなった身体を引きずる様にして一歩踏み出す。目を見開いて、血に塗れた太刀で敵の背を突いた。崩れる敵を踏みつけて、僕は神殿の奥へと走った。
 身体が嘘のように軽かった。痛みは感じられなかった。振り向けば、通路に立ち塞がっている影が一人いた。
 それは他でもなく僕自身だった。僕の身体は壁のように、敵の前に立ちはだかっていた。賊はそんな僕を滅多刺しに貫くけれど、そこに苦痛を感じる僕自身はいない。
 僕は視線を戻して、姫様の元へと走る。
 姫様を閉じ込める扉を開けて、闇のなかへと踏み込む。
 真っ暗なはずの闇なのに、不思議と姫様のお姿が見えた。僕はそっと手を伸ばして、姫様の手をとった。
 指先が触れる――姫様の温かな熱を感じられる。
 まだ、僕はここにある。
 神様はご寵愛を与えた姫様を決してお見捨てにはならない。ああ、そうだ。僕はそのために、まだここにあることを許されたのだろう。
 姫様の手を引いて、神殿の外へと僕らは逃げ出した。森を抜けて、草原へ。坂を下って、都へと下りれば姫様は安全だろう。
 神殿には火が掛けられたから、都からも異変は見えるはずだ。いつ何時、運命の日が訪れるのか、予知夢は定かにしてはいなかったけれど、この日の出来事を予知していた若様は神殿の様子に日々、注意を払っていらしたはずだ。
 きっと、若様が駆けつけてくださる。だからそれまで……。
 僕は姫様を連れて走った。苦しそうに喘ぐ姫様を振り返る。姫様は決して足を止めなかった。
 止まってしまえば終わることを、僕も姫様も予感していたのかもしれない。
 今の僕は姫様と繋がった手のひらにだけ、熱を感じられた。
 肌に触れるはずの空気も足元に散らばる小石も、土の感触も。掻き分けて走る草の海の感触も何一つとして、実感できない。
 姫様の手を離してしまった瞬間、僕の役目は終わりだ。
 ならば、もう少し。あと少し……。
 僕たちは夜を走り抜けた。
 このまま道が永遠に続けばいい……。そんな途方もないことを願ったとき、僕の手のなかから姫様の手がすり抜けた。
 肩越しに振り返れば、足を滑らせた姫様が転び、強かに頬を打ちつけていた。白い肌に擦り傷ができ、唇の端に血が滲む。
 身を屈め、姫様の頬に手を添えれば、焼けるような熱に身体が溶けそうな気がした。
 手のひらの内側には痩せた頬。いつからこんなにおやつれになったのだろう。僕の視界で姫様の瞳から涙が溢れる。
 ……ああ、時が来た。
 僕は終わりを実感した。
 次から次へと溢れる涙は、僕との別れを惜しんでくださっているのか。少しでも僕のことを想ってくださるのなら、場違いだとしても嬉しく思う。
 僕は笑いかけて、姫様の手をとった。指を掲げて、道の先を示す。
 この先に、僕は行けない。身体が少しずつ、溶けていく。消えていく。
 泣かないで、姫様。僕は溢れる涙を指先で拭った。
 泣かないでいいんだ、姫様。これは僕が選んだことだ。神様が定めた運命なんかじゃない、僕が僕自身の意思で選んだ運命だ。
 僕は姫様のために生きた、その人生を後悔していない。
 もしも、ただ一つ願いが叶うとしたら……忘れないで欲しい。
 僕はそっと姫様の唇に指先を伸ばして、触れた。想いを告げることはないと心に決めていたけれど、その唇に一度でいいから触れてみたかった。
 想像していたように柔らかなその唇を口付けの代わりになぞれば、姫様の熱に僕の身体は雪のように溶けて消えていく。
 視界が曇り、闇に包まれる。指先の感覚も音も、何もかも遠ざかりつつある。
 この身は夜に溶け、大気へと変わるのだろう。
 そうしたら、僕は僕のすべてで姫様を包もう。闇となり光となり、僕はいつでも姫様と共にいる。
 お傍にいます、姫様。
 寂しくなったら、その唇で僕を呼んで。二人で歩いたあの道を共に行きましょう。僕は風となって、姫様を導くから……。
 だからどうか、忘れないで欲しい。

 姫様は一人じゃないということを……。




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