第四章 午後二時 1,ミルクの時間 唐突に泣き出した赤ん坊の声に、ドリィは慌てて、台所に駆け込んだ。 テーブルの上に置いたかごの中で赤ん坊が、火が着いたように泣いている。 おしめは変えたから、お腹でもすいたのかな? 抱き上げて用意していたミルクを飲ませる。泣き止んだ赤ん坊は美味しそうにミルクを飲んでいく。 「ああ、そんな慌てないでも、足りないならちゃんと作ってあげるから大丈夫だよ」 言葉が通じないとわかっていても、思わず語りかけてしまう。不安なのだろう、自分は。 いきなり、赤ん坊と一緒に取り残されて……。 「ごめんください」 店のほうから声が聞こえる。お客だ。ドリィは一瞬迷った後、赤ん坊を抱えて店に出た。案の定、お客の女性は驚いた顔を見せた。 「まあ、その子は?」 「あ……僕の甥っ子なの。姉さんが旦那さんと旅行に行っている間、預かることにしたんだ」 ドリィはそう言い訳した。預かることになった過程は全然違うけれど、この赤ん坊がドリィの甥っ子であることは事実だった。クレインには隠したけれど。 「そうなの? かわいいわね。ドリィ君にも似ているかしら」 「そうかな……似ているかな?」 髪の色はドリィや姉と同じ茶色だ。瞳の色はいかにも貴族的な顔立ちをしている義兄と同じ水色だ。最も、姉も水色の瞳をしているが。涼しげな目元や口元は義兄によく似ていて、自分に似ているところを探すのは少し苦労する。でも、睫が長いところは自分に似ているかな、とも思う。 「クレインさんは、いらっしゃらないの?」 ひとしきり赤ん坊とドリィを眺めた後、女性客は店主の姿を探して店内をキョロキョロと見回した。彼女もまた、クレイン目当てのお客だ。 本人は自覚してないみたいだけれど、結構、モテる。頼りになりそうなところがモテる要因だとドリィは考えている。 「クレインさんはちょっと出かけているんだ。帰りは遅くなるかも」 「そうなの?」 「うん。ごめんなさい。何か伝言があるなら伝えとくけれど」 「いえ、いいのよ。それじゃあ、これを頂戴」 女性客はカウンターにおいてあったキャンディのビンから一掴み手にすると、ドリィに会計を求めた。ドリィは値段を告げてコインを受け取る。 「ありがとうございました」 出て行く客を見送って、そっとため息を吐く。甥っ子ということを言ってしまったのはまずかっただろうか? 彼女がクレインに会ったら、赤ん坊のことを話題に持ち出すのは目に見えていた。 「でも……クレインさんのことだから、ユニの正体、バレているかもね」 赤ん坊の顔を覗きこんで、ドリィは苦笑した。 お昼過ぎに、ドリィはクレインへ弁当を持って、治安管理官事務所を訪ねていた。 クレインがどこまで真相に辿り着いたのか、気になっていた。 全然、的外れな方向に捜査の手を伸ばしていたら、何のために彼を巻き込んだのか、まったくもってわからなくなってしまうからだ。 もし、危惧するとおりに、クレインが的外れな捜査をしていたら、何気ない口調で軌道修正するつもりだった。 しかし、治安管理官事務所にはクレインもアレフもいなかった。 留守番をしている自警団の青年の話によれば、馬車に乗ってどこかへ出かけてしまったとのこと。半日潰してという話から、ドリィはクレインが三つ東向こうエトランゼへ出かけたのだと確信した。 朝、クレインとの会話に「貴族の坊ちゃんと駆け落ちした姉さん」という、ドリィが是が非でも探し出して欲しい姉の存在が出てきた。あれは今にすれば、偶然じゃなかったような気がする。 「騙すような真似して悪かったと思うけれど……」 おなか一杯になったのか、赤ん坊はまたスヤスヤと眠り始めた。 ドリィはミルクで汚れた口元を指先でぬぐい、忍び足で台所に戻り、テーブルのかごの中に赤ん坊を戻す。椅子に腰掛けて両肘をついた姿勢で赤ん坊の様子を眺め、そもそもの発端を思い出していた。 2,事件の発端 それはドリィが昨日の休みに、姉夫婦が住むエトランゼに向かったことに始まる。 仕事が休みの日はいつもそうしていた。 両親は死んでいない。だから、唯一の家族は姉のマリーだけだ。そのマリーは奉公先の貴族の館で、そこのお坊ちゃまと恋に落ち、結婚を反対された二人は駆け落ちしてエトランゼに一年前から住み着いていた。 週に一度、クレインがくれる休みには、姉たちのところに顔を出す。昨日はその日だった。 けれど、訪れたそこにいたのは、寝室のゆりかごの中で眠っている甥っ子のユニだけだった。 姉のマリーと義兄のユーシスの姿はなかった。 最初は用事で家を空けているだけかと思った。この日、自分が訪れることは知っているはずだ。だから、ユニを置いてちょっと出かけたのだと思った。直ぐにどちらかが、帰ってくると。 でも、幾ら待っても二人が帰ってくる気配がない。そろそろ、エイーナに戻らなければならない時刻が迫って、ドリィは姉たちに置き手紙を残して、ユニを自分が暮らしているアパートに連れ帰ることにした。 帰りの道中で、ドリィは姉たちが赤ん坊を置いていなくなったわけを考えた。そして、思い当たったのは義兄のユーシスの家のことだ。 ユーシスは南西区エルマの中流階級貴族の子息で、唯一の跡取り息子だ。そのユーシスが出奔して家のほうが黙っているわけではなかった。 実際に、ユーシスとマリーが駆け落ちをしたのは三年前だ。エトランゼに至るまでは何度も住む町を変えている。 それはユーシスを連れ戻そうとする追っ手の影が、幾度となく見え隠れしたから。諦めたとは思えない。そろそろ、居所が知れる頃だろう。もう、見つかってユーシスとマリーは連れて行かれたのかもしれない。 そこまで考えて、ドリィは絶望的になった。 相手は貴族だ。治安管理官に訴えても、握り潰されてしまうかもしれない。ユーシスは跡取りだから、酷いことはされないと思う。けれど、姉のマリーにはユーシスの家の者たちが辛く当たるかもしれない。 よく眠れない夜を過ごして、朝、ドリィはユニを連れてクレインの店に向かった。早朝の通りは人影がなく、赤ん坊を連れている自分の姿を目撃する者はいなかった。いても、そのときは甥っ子だと告げるつもりではあった。 だが、店の入り口に立ったとき、クレインならマリーとユーシスを見つけ出して助けてくれるかもしれない、と思った。 元宮廷騎士で、副隊長まで勤めたクレインなら、ユーシスの家に対しても発言力はある。退団しても、国王に目を掛けられているクレイン相手には無視もできないだろう。 最初はありのままを告げて、彼に力になってもらおうとした。でも、クレインが面倒くさがって治安管理官の仕事だから、と言ってしまったらお終いだ。 クレインはトラブル好きだけど、人間関係などのトラブルは面倒くさがっていた。 だからなるだけ、クレインの気をひかなければ……と考えて、ドリィは捨て子を装うことにした。事件の匂いをさせれば、クレインは間違いなく飛びつくと思った。 今の状況は、ドリィの筋書き通りと言ってよいだろう。 ただ、寝ぼけたクレインが、拾ったものを元の場所に返して来い、と言ったときは、どうしよう、と青くなった。 幸いに、その動揺はクレインには気付かれなかったようだったけれど。 「……大丈夫、ママとパパを見つけてあげるからね」 ドリィは指先で赤ん坊の柔肌を撫でた。 きっと帰れない状況にあるのだと思う。 二人が意図してユニを置き去りにしたとは、考えたくなかった。 その可能性を否定できるものは何もない。本当のことを言えば、そちらの可能性がドリィの頭を占めていた。 駆け落ちしてからこちら、ユーシスは少しずつ変わっていった。 家からの追っ手に逃れて、転々とする生活がストレスになったのか。時折、情緒不安定になった。いつもは大人しい優しげな青年だが、ふとした弾みにわけのわからないことを言い出す。特にこの一年はその変化が著しかった。 時に暴れたりしているようだ。姉の顔がぶたれて赤くなっていたのを何度か見た。ユーシスに注意しようとしたが、ドリィは結局、止めた。暴れているときの記憶がユーシスにはまったくないのだ。きっと、何を言っても信じてもらえないだろう。 そんなユーシスにマリーはどこまでも尽くしていた。もし、ユーシスがこの生活を嫌ってふらりと出て行ったら、マリーはもしかしたらユニを置いてついて行ったかも知れない。 それを信じたくなくて、クレインには子供を捨てる親は最低だと言った。自分の姉を最低だと思いたくないからこその言葉だった。 「きっと……事情があるの。帰れない事情が……」 祈りに似た思いでドリィは呟いた。 3,犯人 「……ドリィさんの甥っ子?」 アレフは呆然と問い返す。 どこからそんな結論が出てくるのか。クレインの思考回路を理解できない。 「……どうして、そんな風に考えるのですか?」 「だって、一号が赤ん坊を連れてきたから」 「……申し訳ありませんが、解説をお願いします」 端的に言ってきたクレインに、アレフは低頭で頼み込んだ。 クレインは首を傾げたあと、ああ、と息をついた。 「あのね、赤ん坊を置いたのは一号だと思うのよ」 「……ですから、その根拠を……」 クレインは自分のことを天然と言ってくれたが、クレインも負けずに天然だと、アレフは思った。 「オジサンに聞いたんだよ」 「クリス・フォード管理官に?」 いつ聞いたのだ、と驚きを交えて振り返ったアレフに、クリスはブンブンと首を振る。 「ああ、オジサンはオジサンでも配達員のオジサン」 ……まぎらわしい。 思わず本音がこぼれそうになって、アレフはクリスの部下が淹れてくれた紅茶で飲みこんだ。空いたカップに自警団の青年は気を利かせて茶を注いだ。 「あの、配達員が五時半にクレインさんのお店で販売される新聞を配ってきたときに、赤ん坊はまだ捨てられていなかった……それはエイーナの事務所でも聞きました。それ以外に何を聞かれたのですか?」 「朝の通りで誰か人を見かけなかったか」 「それで、配達員は誰か目撃したんですかっ?」 「見てないから一号が犯人なんでしょ」 「……ど、どういうことでしょう」 「うちの店は町の入り口から真っ直ぐに伸びた通りにある」 クレインはアレフを見、それからクリスに目を向けた。 「町の構造は区画整理されて、どこの町も同じようなものだからわかるでしょ?」 各町へ入る大きな街道は一本、それを入り口として、広場までは真っ直ぐに区切られている。町中へと入るにはこの通りを入って、中央広場と呼ばれる場所に出ないことには、町中を自由に歩き回れない。 「この広場に治安管理官事務所と郵便屋があるよね」 「はい。もし何かあったとき、直ぐに緊急便で騎士団と連絡を取れるように、治安管理官事務所は町の中心部、そして郵便屋の近くにと定められていますから」 町の入り口からの通りが一本道で区切られているのは、町の外から来た者を治安管理官事務所の前でチェックしやすくするためだった。 一つの町に何万もの人間が住んでいる。その治安を管理するのは治安管理官とその下の自警団だ。あまりにも人手が足りなすぎた。 しかし、住民たちの間のトラブルは信頼関係を築くことで、減らすことができる。対処に困るのは外からのトラブルだ。これに対し、重点的に目を光らせられるように各町の区画は整理されてきた。 アレフは通りを頭の中に描く。 エイーナの町は北と南に入り口が設置されていた。 クレインの店はその北通りの中央にある。元は酒場だったが、店主が病気で亡くなり店を閉じていた。そこを買い取って、クレインは雑貨屋を始めた。 「ということは、南からは管理官事務所前を通って、配達員の目に留まらずに俺の店に来るっていうのはちょっと難しいでしょ」 「えっ? あー、はい。そうですね。事務所には二十四時間、自警団の者を駐在させていますから。住宅兼店舗といったクレインさんのお店のような場合でしたら良いのですけど、店だけの場合、夜は無人になります。それを狙っての空き巣には我々としても目を光らせる必要がありますし」 「通りに不審者がうろついていたら、気がつくでしょ」 「はい。……ええ、恐らく、気付くと思いますが」 アレフは一度、力強く頷いてから、もしかしたら見逃している可能性を考えて少し不安げに付け足した。 「自警団の奴が気付かなくても、俺の店から戻る配達員のオジサンが気付くよ。つまり、ここで南側から俺の店には接近できないということだ」 「そう……なりますか?」 店先が並ぶ通りの裏は塀で仕切られているので、抜け道というのがない。治安管理官事務所の前を通って、南からクレインの店に接近するのは、確かに難しいと思われる。 「細かいことは気にしない」 事実確認しようとするアレフに、あっさりとクレインは言ってきた。 ちょっと、待て! 4,名前を言え! 「細かいことを気にするなと言われましても……」 監視の目が絶対だった保証はないのだが……。 「可能性の小さいことをいつまでも追うより、可能性の大きなほうを追ったほうがいいんだよ。まず、大きなものから潰していくんだ。そうすりゃ、自然に答えが残る」 「……なるほど、勉強になります」 アレフはクレインの言葉に生真面目に頷いた。 「でも、直感を重視したほうがよい場合もあるから、それは経験値を積んでいくことだね」 「……はあ」 二転三転するクレインの言葉に、アレフは戸惑う。そんな彼を隻腕の元騎士は笑って、話を続けた。 「で、話を戻すよ。子供を捨てようと企んでいる奴が治安管理官事務所の前を堂々と通れるわけはないんだよ。見咎められたら、どう言い訳する? ただでさえ、人通りのない早朝、赤ん坊を連れて歩いているなんて、実母にしたっておかしいでしょ。寝てると思うんだよね、子供は。それを連れ出すなんてさ」 「私は子供がおりませんから、わかりかねますが。普通に考えたら……確かに変でしょうね。声を掛けるまではいかなくとも、注視してしまうと思います」 アレフは自分が早朝の事務所にいて、通りを監視しているとして……そう仮定し考え、自分ならどうするか、言った。 真面目に答えてきた彼に、クレインは唇の端を持ち上げて笑う。 一つのことにそこまで真剣に考え込んでいたら、気疲れするんじゃないか? でも、それこそがアレフらしさだろう。 「だとしたら、通りの北側から来たことになる。ここで、一号の登場だ」 「ドリィさん?」 「一号のアパートは通りの北端にある。町の出入り口にあたるところだね。元々、住み込みで雇ったんだけど、あまり依存するのもよくないなと思って、店の近くのアパートに一号の部屋を見つけたんだ」 「そうなのですか。……ああ、前から気になっていたのですけど、ドリィさんってエイーナの出身ではありませんよね?」 「らしいね。エルマの中央に近いところに姉さんと二人で暮らしていたらしいよ。でも、その姉さんが貴族の坊ちゃまと駆け落ちして、それから色々なところを転々としたって話だが」 ふと、クレインは違和感を覚えた。何かが、意識の隅に引っかかった。 ──何だ? 顔を顰めたクレインをアレフが心配そうに覗き込んできた。 「どうかしましたか、クレインさん」 「ん? ああ、何でもないよ。どこまで話したっけ?」 「ドリィさんのことです。姉上様と色々な町を移られたと。それはどうして、ですか?」 「その坊ちゃまを連れ戻そうとする人間が現れたからって聞いてる。それで一年前にここのエトランゼに腰を落ち着けたって」 「……つまり、クレインさんはドリィさんの姉上様をお探しに、こちらに参られたのですね?」 アレフは紆余曲折の末に、クレインの本来の目的を知った。クレインがドリィの姉の名前を覚えていなかったばかりの回り道に、ドッと疲れを覚えた。 「ああ、そう。その姉さんを捜してるんだ、知らない?」 クレインはクリスに身を乗り出して尋ねるが、肝心の姉の名前はいまだにわかっていない。 「名前はご存じないのか?」 クリスがアレフに視線を向けてきた。 残念ながら、私は存じ上げません、と断るとクリスは渋面を作った。 「話を一通り聞いて、こちらにお見えになった事情はわかりましたが、名前もわからない住人を捜せと言われましても困ります。この町にどれだけの住人がいると思いですか。住人を一人ひとり把握しておくなど、無理でしょう」 「まあ、そやね。でも、調べられないことないと思うね。今、話した分でも十分に手掛りはあるでしょ」 クレインは薄く笑って、クリスを見返した。 |