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 第八章 午後九時



 
,夢の中で


 声が聞こえる。囁くような声でありながら、切なく響いてこちらに届く。
 辺りを見回す。夜の蒼闇が辺りに解けて、遠くでポツリと立っている人影が黒く、その世界の唯一の色としてあった。
「神様……どうか、お許しください」
 人影は崩れ、地面に膝をついた。うなだれ、頭を垂れて許しを請う。
「私は裏切り者です……そして、この手を血に染めた殺人者です」
 影絵が顔を上げ、天を仰ぐ。つられて空を見上げると星影が無数にきらめいていた。月はないのに、夜が漆黒に染まっていないのは、この星々のせいなのだろうか。白く青く銀色に瞬ききらめく。
 天上に輝く星の数だけ、この世界には神がいると言われている。
 最も、フォレスト王国の国民は神の存在を知ってはいるが、認めてはいない。それは七百年前、この国が誕生するきっかけとなった悲劇に由来する。
 だから、人々は神に祈らない。
 自分たちの行いの全てを自分たちの責任の下に。もしも、何かを望むのなら、それは自らの手で、足で、切り開く──それがこの国の信仰、メレーラの教え。
 全ては己によって叶えられるもの。
 裏切りも殺人も、その者の責任において罪を償わなければならない。
 だから、声が求める許しは、それ自体があってはならないことだった。
 神に許しを請う前に、己の罪を償わなければいけないのだ。
「罪深き血に汚れた手で、無垢な赤子を抱く私を……」
 目を凝らすと人影が赤ん坊を抱いているのが遠くても見えた。不思議なことに、赤ん坊の白い産着がはっきりとわかる。
「私が神様に祈るなど、それこそ冒涜でありましょう。けれど……私は、業火に焼かれても構いません。ただ一つ、お願いいたします。この何も知らずにこの世に生まれてきた赤子の将来を……。幸多くは望みません。ただ、私の罪がこの子の未来を閉ざすことはありませんように。この子がその足で己の未来を歩いていけるように……。今、再び、私が犯すこの罪をどうか見逃してくださいませ」
 そして、人影は赤ん坊をその場に置いた。
 立ち上がり、赤ん坊に背を向けてこちらに歩いてくる。その顔も姿かたちも黒い影だ。影が目の前に迫る。そして、自分に重なるようにしてすり抜けていく。
 …………あっ。
 振り返った、その先で彼女は静かに佇んでいた。
 茶色の髪は長く、仕事で邪魔になるために三つ編みにしていた。それを勿体ないと思っていた。緩く波打つその髪はとても柔らかく、触れるだけで癒される気がした。
 切れ長の水色の瞳は優しげで、大人っぽい顔立ちは貴族の令嬢と言っても誰も疑わないほど、端整で高貴な雰囲気を漂わせていた。だが、身にまとうは黒いメイド服。彼女は館に働きに来ていた。二つ年下の弟と二人で暮らしているという彼女は弟と同い年だという自分に親近感を持っていたのだろう。
 館の坊ちゃんということで、誰もが自分と距離を置く中で、彼女だけはすれ違えば笑顔を差し向けてくれた。嬉しかった。親でさえも、後継者という価値だけでしか自分を見てくれなかったから。
 彼女だけが自分を一個の個人として扱ってくれた。
 自分に課せられた重圧に倒れたとき、誰もが自分の心の弱さをなじった。その中で、彼女は自分に付き添い、寝ずの番で看病をしてくれた。
 弟によく歌ったんです、と彼女は子守唄を歌ってくれた。その優しいぬくもりを眠りの淵でまどろみながら、手放せないと思った。
 彼女を失えば、自分は家に縛られ続ける。貴族としての地位も財産も何一つとして欲しいわけじゃない。欲しいのは彼女一人だ。彼女さえいれば、どんなことがあっても生きていける。
 母親は彼女が息子をたぶらかしたのだと思っていた。
 でも、それは違う。最初に求めたのは自分だ。彼女はその優しさから、自分を受け入れたに過ぎない。
「逃げよう、どこか遠くへ」
 そう言ったときも、彼女は優しく頷いた。世間知らずの子供が、貴族という身分を捨てての逃避行などいつまでも続くわけはないと、彼女は知っていたのだろう。それでも、彼女は伸ばした手を握り返してくれた。
「君は私が守る」
 誰にも祝福されることはなかった。彼女の弟も認めてくれはしなかった。だから、彼にも所在を知らせなかった。
 貧しいながらの生活だったけれど、幸せだった。彼女に教えてもらって一通りの家事もこなすようになった。料理の腕は彼女も太鼓判を押してくれた。でも、追っ手の影がちらつくたびに住む場所を移りかえる生活に疲弊していく彼女を見ているのは辛かった。それがまた自分を不安定にさせた。元々性根が強いというほうではなかったのだ。
 弱虫なのだ。だから、家からも逃げた。強かったら、父親や母親の反対にあっても、彼女を妻として迎えることを貫いただろう。だけど、それはできなかった。
 二年の月日に幸福と同時に鬱々としたものを感じていた。疲れた彼女をもっと笑わせてあげたかった。だけど、何もできない自分が歯がゆくて、悔しかった。
 そんな折に彼女の弟は現れた。
 それが全ての終わりで、始まりだった。
 偽りの……幸せの。







 
,真実の名前


 ドリィはハッと我に返った。暗い室内に目を凝らす。店じまいをして、クレインの帰りを待っているうちに眠ってしまったらしい。
 夢を見ていた気がするが……どんな夢だった?
 テーブルに手をついて、立ち上がり暗がりの中、壁を探る。スイッチを入れると魔法アイテムが明かりを白くともした。魔法の明かりは、簡単な仕掛けで夜の闇を追い払う。
 台所は無人だ。クレインが帰ってきた様子はない。
「遅いな、クレインさん……」
 用意した夕食はすっかり冷めている。テーブルの上ではユニを入れたかごが置いてある。そろそろ、オムツを替えなきゃ……ドリィはかごの中を覗いて目を見張った。
 赤ん坊の姿が消えていた。変わりに二つの写真が入っていた。
 一つは姉と自分が写っているもの、もう一つは姉と義兄が写っているもの。この写真は姉の家の寝室に飾ってあったものだ。それがここにあるということは……。
「クレインさんっ!」
 ドリィは台所を出て、店に出た。窓ガラス越しに夜の蒼闇が店内を染めていた。そこに人影を見つける。ドリィは店の照明をともした。
 白い光のなかに浮かび上がったのは、赤ん坊を抱いた女性だ。茶色の髪に水色の瞳のその女性は赤ん坊からドリィに視線を向けてきた。
「……姉さん。良かった、帰ってきてくれたの」
 駆け寄るドリィを、横から制する腕があった。驚いて腕の持ち主を見上げると、クレインだった。
「あ、クレインさん、姉さんを見つけてくれたの」
「……違う」
 クレインは低く言った。言葉の意味がわからなくて、ドリィは目を瞬かせる。
「え? クレインさんが、姉さんを見つけてくれたのでしょう?」
「一号の姉さんじゃないでしょ、その人は」
「何を言っているの? もう、クレインさんのことだから、全部わかっているのでしょう? ごめんなさい、クレインさんを騙すようなことをして。でも、クレインさんに姉さんを見つけてもらうには、ああ言わなきゃ駄目だと思ったから」
「全部……うん、全部、わかったよ。アンタが貴族の坊ちゃんだったんだね」
「えっ?」
 目を見張るドリィの背後でガタンと音がした。振り返ると売り物のホウキを立てているバケツが倒れていた。その陰に隠れていたらしいアレフがこれまた目を丸くしている。
「アレフ管理官……そんなところで何をしているの」
「……あ、いや、これは」
 右に左に視線を泳がせ言葉を探すが、見つからずにアレフはクレインに助けを求めた。
「もういいよ、管理人さん。二人きりだったら化けの皮を脱ぐかと思っていたけど、どうやら、こちらの奥さんが言ったとおりみたいだね。一号は完全に自分をこの奥さんの弟だと思い込んでいる」
「……えっ?」
 何度聞いても、クレインの言っている言葉の意味がわからない。
 ドリィは混乱して三人を見回す。マリーは視線を逸らし、アレフも目を伏せた。ただ、冷淡にこちらを見つめているクレインが口を開いた。
「一号、アンタの名前を言ってみな」
「ドリィだよ……もう何度も言っているでしょう?」
「ああ。でも、それはこちらの奥さんの弟の名前で、一号の本当の名前は…………」
「ユーシス殿です。ユーシス・クラスター殿です」
 またも名前で躓いたクレインにアレフが言った。
「そう、その名前だ」
 と、クレインが指を突きつけてくる。
「何を言っているの? それは義兄さんの名前だよ」
 半笑いで応えるドリィをマリーは悲しげに見つめていた。姉の視線に気付いて、ドリィは心が揺れる。
 どうして、そんな顔をするの?
「違うよ。アンタの名前さ。そして、こちらの奥さんの旦那さんの名前で、この赤ん坊の父親の名前だ」
「だから、それは義兄さんの名前でしょう?」
「その義兄さんが他でもない、アンタなんだよ」
「……何、それ?」
 目を丸くするドリィを見て、アレフは何を言っても無駄なのではないかと思う。そして、ドリィがユーシス・クラスター本人だというのはクレインとマリーの説明を聞いてもまだ信じがたかった。
 どうして、彼は義弟の名前を騙り、その人本人に成りすましたのか……。







 
,本当の正体


 男たちが見張っていたドアをクレインとアレフはそれぞれ開けた。
 アレフが開けた小さな部屋に彼は閉じ込められていた。店の代表が言っていたように、一応、客として丁重に扱われていた様子だ。縛られている風でも、暴行を受けた様子もない。
「もう、大丈夫ですよ」
 部屋の片隅で縮こまっている少年にアレフは声を掛けた。写真に写っていた大人っぽい顔立ちの少年は、こうしてみるとやはり少年特有の細さがある。彼はアレフを見上げると微かに首を振った。
「管理人さん、そっちは?」
 クレインが一人の女性を伴ってやってきた。彼女もまた、大人っぽい顔立ちをしているがまだ若く線が細い。でも、子供を産んでいる経験からか、少年にはない芯のようなものを感じた。
「はい、少し怯えていらっしゃるようですけれど。大丈夫そうです」
 応えるアレフの脇をすり抜けて、女性は少年に近づいた。
「みたいだね」
 クレインは二人を一瞥して頷いた。それから、
「お嬢さんっていうのは変か。アンタが一号の奥さんで、そっちがアンタの弟だね」
 と、女性に対して、茫然自失の体でいる青年を指差し、確認する。
 捕らわれていた二人を赤ん坊の両親だと思い込んでいたアレフは、それを耳にして思わず「はあ?」と聞き返した。
「何を言っているのですか、そちらはドリィさんの姉上様でしょう?」
「その名前の奴がそっちの奴で、こちらが姉さん。で、姉さんの旦那さんが一号だよ」
「あ、あの……何がどうなっているのですか?」
 アレフはクレインとマリーを見比べた。この時点で、アレフは女性の名前を知らないことに気付いて問いかける。
「私はエイーナの町で治安管理官を勤めています、アレフ・アドレイズです。こちらは元宮廷騎士を勤めていらっしゃったクレイン・ディック殿。失礼ですが、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
 女性はそれまで見せていた怯えを解いて、ホッと安堵の表情を浮かべて頷いた。
 立場を明かしていなかったので、彼女らを捕まえていた男たちの仲間と思われていたようだ。
「わたしはマリー・フラスコ。彼はクレイン様がご推察の通り、わたしの弟のドリィ・フラスコです」
「えっ?」
 アレフは聞き間違いかと思った。どうして、ここにいる少年がドリィであるのだ? ドリィはエイーナの町で店番をしているのに。
 戸惑うアレフとは別に、マリーは一瞬で状況を察したらしい。クレインに水色の瞳を向けて深々と頭を下げた。
「クレイン様のことは彼から……ユーシスから聞いております。とても頼りになるお方だとか。ユーシスに頼まれて、わたしどもをお助けくださいましたのですね。ありがとうございます」
「頼まれた……というのはちょっと違うね。強引に巻き込まれたんだよ」
「……えっ?」
「うちの店の前に赤ん坊が捨ててあって、それが俺の子だって言うんだ。生憎、俺には心当たりがないから、本当の親を捜すために奔走する羽目になったと、そういう筋書きだよ」
「それは……」
「一号は一号でこの状況──奥さんたちが捕まっている状況を推測していたんだろうね。管理人さんじゃなく、宮廷騎士だった俺を動かそうとしたのはそういう意図からだろう」
「そ、そういう意図とは?」
 アレフはクレインに問いかけた。
 自分の頭が悪すぎるのだろうか? 想像力が足りないのか? 何が何やらわからない。
「俺だったら貴族の坊ちゃんの実家に対しても発言力があるでしょ。階級で言えば俺は第二位だからね」
「……ああ」
「とりあえず、ここを出ようか。二人が解放された以上、管理官のオジサンの手を煩わせるまでもない」
「そ、そうですね」
 頷いて、クレインたちは男たちの意識が戻らないうちにと、オズワルドの店を脱した。そのままエトランゼの治安管理官事務所により、クリスに事の報告を済ます。
 そして、アレフとクレインは二人を連れてエイーナへと帰路に着いたわけだ。その道中で、アレフはクレインからドリィがユーシス本人であることについての説明を受けた。







 
,嘘の記憶


「記憶の改ざん?」
「人間の記憶って結構曖昧でしょ。嫌なことは忘れるし、思い出は美化する。追い詰められたら自分のことも忘却しても、そうおかしなことではないと思うよ」
「ど、どうして……そんな」
「最初は一号が頭を怪我したからだと思ったんだけどね」
「怪我ですか……?」
「管理人さんも見たでしょ、あの家でカーペットの下にあった血の染み」
「あ、はい。あれが……?」
「あれ、頭をぶつけてできた血溜まりだと思ったんだ。故意に隠したのは事故なんかじゃなかったから……そう俺は推理したわけなんだけど。どう?」
 クレインはマリーに目線で問いかけた。彼女は小さく頷いて答えた。
「ユーシスとドリィが争ったようでした。その場をわたしは見ていませんが、駆けつけたとき、血溜まりの中に倒れているドリィと、殺してしまった、と頭を抱えていたユーシスがいました」
「実際は死んでいなかったわけだが、一号は自分が殺したと思い込んだ。確認はしなかったの?」
「わたしも動転していたのだと思います。とにかく、ユーシスを逃がさなければいけないと……」
「逃がす……逃がそうとしたのですか? だって、そんな殺人を犯した可能性のある人を逃がすだなんて……どうして」
 アレフは思わず声を荒げていた。治安管理官としては例え、犯罪が成立していなくても見逃せない事実だ。
「管理人さん、犯罪者は往々にして自分の犯罪を隠蔽するものだよ。奥さん自身が犯罪者じゃないけど、夫婦ということで共犯とみなされても仕方がないね」
「そんな……クレインさんはマリーさんの行為をお認めになるのですか?」
「認めるわけじゃないけどね。その状況に陥ったら、最初に考えるのは間違いなく保身だよ。冷静になれば自首しようとする奴も出てくるけど」
「……保身だなんて」
「管理人さんはそういう状況に身を置いたことないからね。納得できないだけ。それで奥さんは一号を逃がしたんだね?」
 突き放すようにそっけなく言って、クレインはアレフからマリーに視線を移した。
「はい。もし殺人で捕まれば、彼はクラスターの家に永遠に縛られてしまうでしょう。彼は自由を求めて家を出たのです。弟とユーシスとの間に何があったのかはわかりませんが、穏やかな彼が弟を故意に殺したとは考えられませんでした」
「諍いのお心当たりはないのですか?」
 問いかけたアレフにマリーは一拍の間を置いて、告げた。
「あるとすればわたしがユーシスと夫婦になったことでしょう。そのことで、わたしはクラスターの家から恨まれる身。それがドリィにおよび、何か不都合が生じたのかもしれません。……ドリィはクラスターの家の援助から王立学院に進学していたのです」
「王立学院っ! 国内の最高学府じゃないですか。王族でさえも、学力が合格点に達していなければ入学を認められないところですよ……」
「ああ、王様と姫殿様は王立学院を首席で卒業したけど、末殿様は入学さえ認められなかったって話だね。それだけ基準が厳しいって」
「……末殿様とはもしかして、ウィラード殿下のことですか?」
 アレフはクレインに問いかけた。
王家の兄弟──長男ジルビア、次男ジズリーズ──二人の兄と違って、三男のウィラードは勉学のほうはあまり出来が良くないという評判だ。だが、その分、剣技は宮廷騎士団の隊長クラスに匹敵する実力者だと。
「うん、そう」
 あっさりと頷いてくる。
「では、姫殿様とは……、ジズリーズ殿下?」
「うん。王様そっくりで、女顔なんだ」
 この人は、もしかしたら国王陛下のお名前すら覚えていないのではないか? そんな疑問をアレフは頭の隅に過ぎらせた。
 ……まさか、そんなことはあるまいが。
「そういえばエバンスの若殿様は王立学院に行ったっけ?」
「ご当主様はソフィア様と共に入学を決めていたのです。でも、先代がお亡くなりになり、そのまま、エルマに。私の父もそこでお役御免になるはずだったのですが、引き続き家庭教師を勤めさせて頂きました」
「管理人さんは、行ったの?」
「……私は三次試験で落ちました」
「三次まで行ったんだ。頭がいいんだね」
 感心する風ではあるが、どこか馬鹿にされている気がするのは、管理官としての能力値がそのわりに低いからか。
 被害妄想にも近いものを覚えたアレフは、話の軌道修正をはかる。
「ですが、入学基準が厳しい分、一般階級であっても、入学を認められたら奨学金をいただけるはずではありませんでしたか?」
「はい。ですが、ある程度の学力を維持するのは、それなりにお金が掛かるのだと弟は言っていました。図書室で本を借りるにも、限度があると。それでクラスターのお家が援助を申し出てくださいました」
「何で……?」
 クレインはきょとんとした顔で首を傾げた。
「ああ、王立学院を出た者は、後々王家や七家の方々の手足として、働かれるのが常なのですよ。国王陛下の同期生が王立医院の最高責任者に抜擢されたのはご存じでしょう? その方は貴族階級に属していらっしゃらない方でしたし、私の父も王立学院で教鞭をとっていたところを引き抜かれ、今はエバンス家の、ご当主様の相談役を勤めさせていただいています。貴族階級だと、まあ、いざ、役職に就けようとする場合、権力関係で……その。一般階級だと、その手の問題が全くないとは言いませんけど……。つまり、ドリィさんが王立学院を卒業された後、王家や七家に雇用されれば、クラスター家としても王家や七家に繋がりができます。貴族といっても中流階級では上流階級と違い、王家や七家とはなかなかに面識を持つこともできませんから」
「……ふーん」
 王宮にいて王族と毎日、顔を付き合わせることが日常だったクレインには大して共感を受けなかったようで軽く流された。
「つまり、クラスターの家と仲が悪くなるということは、王立学院で勉学を続けるには支障がでてくるということね。そのせいで弟さんは一号に恨みを抱いた」
「ハッキリとはわかりませんが」
 マリーは、傍らにある本物のドリィ少年を振り返った。
「……ご本人は何も語られないのですか?」
 少年はうつろな視線をさまよわせている。
「記憶障害だね」
 クレインが横目に本物のドリィ少年を見やって言った。







 
,失われた記憶


「……はい。頭を打ったせいなのでしょう。自分の名前も思い出せません。それでも、時々、混乱するように暴れます」
「記憶喪失というものですか?」
「恐らくね。記憶を改ざんしてしまった一号と、記憶を失ってしまった弟さん。この二人が入れ替わった経緯は……成り行き?」
 クレインが首を傾げると、マリーはそっと頷いた。
「弟の容態が落ち着いたのを見計らって、私はユーシスを捜しました。もし、クラスターの家の追っ手から逃げる最中で、はぐれてしまったら西へ向かおうと決めていました。だから……」
 エトランゼから西の位置にあたるエイーナにやって来たところ、クレインの店で働くドリィを見つけた。
「直ぐに見つかったのですね」
 アレフの言葉に、そりゃ見つかるよ、とクレインは言った。
「エイーナの町を歩き回ろうとしたら、どうしても俺の店の前を通るでしょ」
「ああ、そうでした」
 うっかりと失念していた事実にアレフは肩を竦めた。
「エトランゼのほうからやって来たとすると、北の入り口から入ることになるからね」
 中央広場に出るには、どうしてもクレインの店の前を通らなくてはならない。
「そこで、奥さんは一号を見つけた、と」
 こくり、とマリーは頷いて、目を伏せた。
「わたしが駆け寄りましたところ、彼は一瞬、誰かわかりかねたようでした。しかし、すぐに笑顔を見せて……姉さん、と」
「どうして、ユーシスさんはドリィさんと自分を思い込むようになったのでしょう」
「俺が名前を聞いたからだね」
「え? それはどういう……」
「逃げろ、と奥さんに家を追い出された一号はとりあえず町を出た。そして、奥さんと打ち合わせ通り、西に向かって逃げたわけだ。後でまた、合流できるように」
「それがエイーナだったわけですね?」
「そう。逃げて、フラフラと歩いているところを、俺が声を掛けた。町では見覚えのない顔だったし、荷物を持っていたから、宿を探している旅行者かと思ってね。あの荷物を用意したのは奥さんでしょ?」
「はい……、わたしたちはクラスターの家から追われる身でしたから、最小限の荷物を別個に用意していました」
「ああ、赤ん坊のもだね?」
 クレインは尋ねる。ドリィが赤ん坊と一緒に赤ん坊用の荷物もあった、と言っていた。
「はい……ユーシスが今のような状況で、逃げるというのも、おかしなことではあると思います。ですが、わたしが捕まることで彼の居場所が知れるのは得策ではないと。彼は家から逃れることを切に望んでいましたから」
「それ、違うんじゃない?」
「え?」
「家から逃げることじゃなくて、奥さんと別れさせられるのが嫌だったんだよ。だって、一号は言ってたよ。早く、坊ちゃんと姉さんが夫婦として認めてもらえたらいいのにって。それは一号の本音じゃないの? 坊ちゃんとしての記憶は変えられていても、無意識で思うことは変わらないと思うけどね」
「……ですが」
「本当に、家から逃げるために一号が奥さんを選んだと、そう信じていたんなら、それじゃあ、一号が報われないでしょ」
 クレインは半眼でマリーを見やり、それから視線を逸らして肩を竦める。
「まあ、夫婦間の問題に、他人が口を差し出すのも野暮ってもんだね」
 アレフも場の雰囲気を逸らすように、クレインに話を持ちかける。
「クレインさんが名前を聞いて、ドリィさんは……いえ、ユーシスさんはドリィと名乗った。この時点で、記憶の改ざんはなされていたのでしょうか?」
「自分が仕出かしたことに対して、混乱はしていたと思うけど。最初にその名前を名乗ったのは追われる身の上で、本名を名乗ってはいけない、と言う判断があったからだと思うよ。でも……それは記憶を改ざんするきっかけになった」
「その名前を名乗ったことで、ユーシスさんは自分がドリィさんだと思い込んだわけですね?」
「うん。本人としては忘れたい、なかったことにしたい事実なわけでしょ。行く当てがないってんで、俺は一号を雇うことにしたわけ。そこで、町の住人登録が必要になってくるわけだろ? そうして、俺が手続きに必要な書類に名前を書かせ、素性を聞く」
「本当のことを答えられないユーシスさんは、ドリィさんの名前を騙り、ドリィさんの立場を自分のものとして話すうちに……自分をドリィさんだと思い込んでしまった?」
 そんなことありえるのか、という疑念は付きまとう。
 しかし、実際に一号ことドリィがユーシスであるのならば、それは間違いのない事実なのだろう。







 
,すれ違った心


 ドリィは……いや、ユーシスは呆然と茶色の瞳を見開いた。
「僕が……」
 クレインから、自分がユーシス・クラスターであることを突きつけられ、そうなった過程について、説明されても信じられない。
「だって……、だったら、姉さんは……」
 クレインの言うところの、自分の妻であるマリーは何で、自分を弟としてこの一年、扱ってきたのか。
「奥さんは誤解していたんだよ。一号が、アンタが、家から逃げるために自分を選んだんだとね」
「…………何、それ」
 思わずマリーを振り仰いで、少年は叫んだ。
「私が家を出たのはっ!」
 声が自分の意志とは別に喉の奥から飛び出して、彼は愕然とする。
 今のは……?
 ズキリと頭が痛んで、少年は顔を顰めた。
「僕は……違う、私は」
「ドリィさんっ?」
 床に跪く少年に、アレフは駆け寄った。「大丈夫ですか?」と問いかけるアレフの声など聞こえない様子で、少年は頭を抱え、首を振る。
「僕は……。ううん、違う。……僕は……僕じゃない」
 自分がユーシスであるということが、信じられなかった。
 でも……今なら、わかる。
 ……あの夢の人影は……自分……だ。
 赤ん坊を抱いて、神に懺悔していたのは……偽りの記憶の下で、罪悪感にさいなまれていた本当の自分だ。無意識に自分の罪を自覚していた……まぎれもない、本当の自分。
 こじ開けられる記憶の蓋。目の前に広がるのは、あの日の光景。
「────っ!」
 視界が赤く染まる。それは大量の血。ドクドクと鼓動を打つたびに、傷口から血は溢れ床を染めていく。血溜まりに倒れているのは茶色の髪の少年……でも、それは自分じゃない。
『坊ちゃまのせいだっ! アンタが全部、滅茶苦茶にしたんだっ! 姉さんだけじゃないっ! 僕の人生も滅茶苦茶にして、アンタだけ嫌なことから逃げやがってっ!』
 声が耳元に蘇って、少年はビクリと肩を震わせた。
「違う──私はマリーを……」
 幸せにしたいと願った。
 自分を受け入れてくれた彼女を幸せにしたいと、心から願ったのは本当だ。
 彼女の手を取って、家から逃げ出すことで……彼女の人生を滅茶苦茶にしようなど考えたこともない。
 だけど、本物のドリィが言うように、マリーが幸せになれたのか、自信はない。
 自分はこんなに弱くて……家から逃げて……あの日の出来事に蓋をして……。
 あの日、義弟のドリィに詰め寄られたのをユーシスは反射的に突き返した。
 少年の身体は簡単に揺らいで、テーブルの角に頭をぶつけた。鈍い音が響いて、転倒する彼の下に広がる血溜まりに、ユーシスの頭の中は真っ白になった。
 我に返ったのは、帰ってきたマリーが悲鳴を上げたからだ。
 目が覚めたように現実が迫ってきた。それはさらに混乱を呼んで、何も考えられないまま、マリーに急かされて、逃げ出した。
 人を殺してしまった……人を。それも最愛の人の弟を。
 全てをなかったことにできたなら、どれだけ良いだろう。思ったことはそれだけ。
 ひたすら、願った。これが夢であったのなら。
 家を出て、とりあえず西へと向かった。そうして、クレインに出会った。
 彼に、声を掛けられて、……ドリィの名前を騙った。
 …………ああ、あの瞬間に、私は僕になった。ユーシスは全てを思い出した。
 死んだ彼を演じることによって、彼の穴を埋められれば……何もなかったことにできるのではないか?
 馬鹿げた夢想が、悪夢のような記憶に蓋をした。
「…………僕は、……私は、なんてことを」
 少年は己の手を見つめ、呻いた。
 何もないその手が、血に染まって見える。
「ドリィを……君の弟を、殺して……」
 顔を上げたユーシスの目にマリーの姿が映る。あの日と同じに自分を見下ろしてくる。
「……殺すつもりなんて、なかったんだ。私はただ……」
 言い訳しようとするユーシスの傍らを、クレインが通り過ぎた。
 何をするのだろうと、アレフは目で追いかける。すると、クレインはカウンターに置かれていた生花を生けた花瓶に手を伸ばすと、花を捨て、花瓶をユーシスの頭上で逆さに掲げた。
 ザバッと水が少年に降り注ぐ。側にいたアレフも水を被って唖然と口を開いた。
「なっ……」
「…………えっ?」
 空になった花瓶を床に転がして、クレインはユーシスの襟首を掴むと少年を強制的に立たせる。
「あのね、アンタ、忘れてるよ。一号が弟になったそのときに、アンタの存在の穴埋めをしたのは誰さ? 穴が開いたままだったなら、幾らアンタが都合よく記憶をすり替えても、矛盾は付きまとうだろ?」
「……えっ?」
「一号がアンタと……ややこしい。管理人さん、説明して」
「へっ?」
 いきなり話を振られて、アレフは焦った。説明って、何を? この展開に戸惑っているのはユーシスだけじゃない。アレフも同じだ。
「…………ユーシス」
 戸惑って、声が出ないアレフの代わりに、口を開いたのはマリーだった。彼女はユーシスの前に立って、告げる。
「あなたはドリィを殺してなんていなかったの。ただ、わたしが間違えてしまったの。あの子が死んだと言われて、わたしも動転してしまったの」
「死んでいない?」
「ええ、そう。あなたがユーシスと思ったのは誰? あなたが義兄と思ったのは?」
「ドリィ……」
 死んだドリィの穴をユーシスが埋めたとき、いなくなった彼の穴を埋めたのは……。
「彼は……生きている?」
 問い返しながら、確信していた。生きている、それは間違いない。この一年、自分は義兄だと信じていた少年と何度も接していたではないか。
「あっ……でも、それならば、何故?」
 このおかしな関係を正そうとしなかったのか? 答えを求めるように、ユーシスは三人を見回した。
 目が合ったクレインがつまらなそうに、言ってきた。
「言ったでしょ、奥さんは誤解してたんだって。アンタが家を出るために自分を選んだんだってね」
「違うっ! 私はただ、君と一緒にいたかったから。僕は……私は弱くて、両親には逆らえなかった。あのまま、家にいれば、きっと君との仲を引き裂かれてしまうから……」
 マリーを振り返り、ユーシスは手を伸ばす。それに答えて彼女も手を伸ばしてきた。
「ごめんなさい。あなたが愛してくれていると言った言葉を信じていないわけではなかったの。……でも、わたしは身分も何ももたないから……」
 俯く彼女を抱き寄せて、ユーシスは囁いた。
「身分なんて関係ない。私は君がいいんだ……」
 ひしっと抱き合う夫婦を見やって、クレインは呟いた。
「ま、これで一件落着?」
 アレフは濡れて額に張り付いた髪をかき上げながら、そんなに簡単に終わるものではないでしょう、と言いたかった。問題はまだ山積みしているのだから。
 でも……せめて、この夜ぐらいは……。



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