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 3,紅に染まる意識


 事切れた死体から刃を引き抜く。
 肉を切り裂くナイフの刃から、あぶくを吐くように零れ落ちた赤い雫が、血溜まりに落ちて弾けた。
 滴り落ちるその音はやがて静寂に飲み込まれて、ただ重たい闇だけが辺りを支配する。
 誰かがこの場を目撃したのなら、時が止まったかのような錯覚に襲われるかもしれない。
 呼吸も止めて、身じろぎもせずに佇む女。彼女の前にうずくまるのは、命の灯を消された骸。
(――また、私は人を殺したのね……)
 そんな彼女の内側で、確認するように彼女自身の声が囁く。
 それはアルデリアと呼ばれていた頃の、脆弱(ぜいじゃく)な自分だった。
 凍らせ眠らせたはずなのに、時折、顔を覗かせる過去の幻像を切り捨てるように、彼女は自分自身(アルデリア)に問い返す。
「――だから、何? 罪を感じろとでも? そんな愁傷(しゅうしょう)な心はあの日に捨てたでしょ?」
(邪魔をしないで、眠っていなさい)
 彼女は、内に宿るアルデリアを叱りつけ、心の奥底に閉じ込める。
 そして、今しがた己が手で命を奪った男たちの死体を見下ろして、冷たい瞳を瞬かせた。
 それを合図にしたように、時の呪縛が解けて動き出す。
 初めて人を殺したときの、涙をこぼした記憶は遠く。今、彼女を動かすのは冷徹な殺し屋ダリアとしての意識だ。
 そして、冷酷無慈悲(れいこくむじひ)なダリアは、身につけた殺し屋としての本能で帰路を選ぶ。目に付くものを破壊しながら。
 侵入路を限定させるのは、手掛りを残すのと同じこと。
 どうせ、手掛りを残すのなら、大量に与えてやれ。
 脱出路を別に作ることで、二つの、破壊された扉は捜査する者に混乱をもたらす。
 壊された物品もまた、証拠物件として上げられれば、迷宮入りへの第一歩。
 分厚い靴底で扉を蹴り、短く切った血色の髪をなびかせて、外へ出る。
 路地裏の暗がりに、身に纏った黒衣が溶ければ、もう誰も彼女を見つけ出せやしない。
 この三年の月日に、花よ蝶よと、慈しまれ誰からも愛されていた姫君は、平気で人を殺せる殺し屋になった。
 地べたを這いずり回り、泥臭い匂いをさせることも厭わず、人の背後に忍び寄り、首を掻っ切った。心臓を貫いた。腹を引き裂き、首をねじ切り、命乞いをする声を無視して命を摘んだ。散らした。踏みつけた。
 これまでの月日で、どれだけの命を奪ってきただろう。
 考えるだけでうんざりするほど、だ。
 大量の返り血も浴びた。朝日を溶かしたような曙色(あけぼのいろ)の髪が、いまや血色に変わるほどに。
 彼女の手は、身は、心は、紅に染まっている。
 汚れるのにも構わず、ダリアはただ胸に刻み込んだ誓いの言葉を糧にして、この三年を生きてきた。
(――あの男を殺す……)
 裏路地を抜け、歓楽街へと出る。
 天上を闇に覆われ暗く沈む夜に、店の軒先を飾る明かりや店内から零れる明かりが重なり合って赤く白く燦然(さんぜん)と輝き、一見、街は華やかに見える。
 だが、ここは欲望の掃き溜めだった。
 酒に酔い、薬に浸り、女を買い、欲望のままに生きる人々の夜の楽園。浮かれた人間たちの間をすり抜けて、ダリアは一軒の娼館に入った。
 表向きは男たちに媚を売る女たちの城のように見える。その実、店の主はこの界隈を牛耳っている裏社会の中枢にいる人物だった。
 ダリアは現在、その主の下で暗殺の依頼を受け、殺し屋稼業に従事していた。
 娼館は、裏で依頼人との仲介の場所だ。
 借金の形に売られる女。春を買う男。春を売る女と――わけありの男と女が集うのに不自然ではない。
 そういう場所だからか、ダリアに持ち込まれる殺しの標的は男が多かった。
 また、女であることを武器にできる彼女を依頼人たちは好んだ。もっとも、ダリアは相手が誰であろうと、どんな手を使っても殺すだけだ。
 裏社会に拾われ、めきめきと殺し屋としての頭角を現すダリアに、娼婦たちは笑った。

 ――アンタは天性の男殺しだ、と。

「お帰り、ダリア。成果はどうだった?」
 顔馴染みの娼婦リリィが、ダリアを見つけて尋ねてきた。
 栗色の髪をまとめ結い上げ、ほんのりと紅を滲ませた血色のいい豊かな胸を、大胆に露出させたデザインのドレスで着飾った娼婦は、この娼館でも一、二の売れっ子だった。
 それなのに気取らない彼女は、周りに馴染まないダリアを気にかけるうちに、妹のように思うようになったらしい。
 危ない仕事に携わっている彼女を本気で心配してくれるのは、面倒見がいいリリィだけだろう。
 もっとも、ダリアとしては殺し屋家業から足を洗うつもりはないので、リリィの心配は余計なお世話だった。
 最近は、その辺の空気を読んでか、リリィも直接的に「大丈夫だった?」と問わなくなった。
 ただ「どうだった?」と、遠まわしに尋ねてくる。
「聞くまでもないこと、聞かないでよ」
 そう答えて、懐から金貨がたっぷり入った財布を引っ張り出して、リリィに投げる。
 標的が所持していたものだ。金を盗めば、捜査する人間は物取りの線も考慮(こうりょ)しなければならなくなる。
 怨恨目的か、強盗か。迷わし、時間を稼げば、ダリアに対する追求の手は届かなくなる。
 何故なら、この世にはうんざりするほど犯罪が溢れているのだから。
「あげるわ。但し、財布は足が着かないように燃やしなさいよ」
 リリィは男を喜ばせてやまない、はちきれんばかりの豊かな胸元で、財布を両手に受け止めた。
「いつも、ありがとう。だけど、ダリア、アンタが自分で使ったら?」
「金に興味なんてないのよ」
「お金じゃなくったって、着るものとか。女の子でしょ、ドレスには興味ないの?」
 そう問いかけてくるリリィはダリアがその昔、白亜の城で優雅に暮らしていたアッコールト王国の姫君だったとは知るまい。
 宝石を散りばめた首飾りや髪飾り。金糸銀糸の刺繍(ししゅう)が入ったドレス。レースやフリルがふんだんに使われた絹のドレスなど、娼婦たちが身につけているものとは比べ物にならない代物を毎日身に纏っていたことなど。
 今のダリアを知る者は、きっと想像もできないだろう。
 過去、アルデリア姫と呼ばれていた頃の彼女が、ちょっとの怪我で泣いては、周りの者たちをあたふたさせていたことも。また、誰かが傷つけば、我が身が傷ついたように泣き喚いていたことも。
 箱入りだった故に、あまりにも弱すぎたアルデリア。
 彼女の脆弱な精神は、己の身に起こった事象から逃避してダリアという別人格を作るほどに――弱かった。
「ドレスにも興味はないわ」
 そうしてアルデリアに代わって、表層(からだ)を支配するダリアは素っ気なく返す。
 ――もう、美しく見せることへの執着はない。
 アルデリアが美しくあることを喜んでくれた人たちは、もういない。
「じゃあ、何になら興味があるの?」
「――殺しよ」
 すみれ色の瞳を丸くするリリィに背を向け、ダリアは屋根裏にあてがわれた自分の部屋へ向う。
 板敷きの床はそのまま。家具など、数える程度しかなく、唯一ある窓はカーテンすら掛かっていない。
 箱のような室内に足を踏み入れるたび、リリィは悲しげな顔を見せ問う。
『ねぇ、ダリア。寂しくないの?』
 寂しいなんてことを思う感情は、アルデリアの意識と共に、とうに凍らせ眠らせた。
 ただ一つの感情だけが、ダリアを突き動かしているだけ。
 木枠の粗末な寝台を見つけるや否や、ダリアはそこへ飛び込んだ。
 張り詰めた神経が、洗いざらしのシーツに溶けて、眠りに誘う。
 目を瞑って意識を手放せば――穏やかだった日が瞬く。それは、闇に微かに息づく星たちのように。
 美しく着飾ったアルデリアを、自慢げに見つめていた父と母――そして……。
 何もかもが、今の現実から見ると、滑稽(こっけい)で冗談のような日々。
 平和だった日常は思い出したくもないのに、夢となって繰り返し、アルデリアは目覚め、ダリアの心は血に染められたあの日に舞い戻る。
 三年前、王宮に侵入した賊たちに父王が殺され、母も殺された。
 賊を指揮したのは、王の忠臣だった青年シエナ。漆黒の髪に黄金色の瞳が印象的な、秀麗な顔立ちの青年だった。
 そんなシエナの、闇に煌々(こうこう)と輝く月のような瞳に見つめられ、頬をばら色に染めていた愚かな娘アルデリアに、ダリアは唾を吐きたくなる。
『俺の目的は復讐だ。……玉座を手に入れることが目的だったわけじゃない』
 惨劇(さんげき)の現場で血塗られた剣を片手に、シエナは言っていた。
 黄金色の瞳を鈍く曇らせた生気のない瞳で……。
 彼の姿を、彼の名前を思い出せば、ダリアの内側で怒りの炎がたぎる。
(――玉座が目的ではないと語りながら、王を殺した後、その玉座に座ったのは誰だ?)
 白亜の城で、あの男が新たなアッコールトの王になったと聞いた。
 簒奪(さんだつ)者が受け入れられるはずがないと思っていた。
 父王を殺したあの男を、城内の者が許すはずがない。そう思っていたのに、ダリアの故国アッコールトはあっさりと彼を新王として受け入れた。
 ――何故?
 しかし、よくよく考えればあの惨劇の現場を目撃した者は皆無に等しい。
 現場にいた者は誰もが殺されたか、あの男の息の掛かった者たちであったのなら。男の裏切りなんてものは誰にも知られずに、彼は(さら)われた姫君の婚約者として、周りの者たちからさぞかし同情を買ったことだろう。
 王の懐刀として信頼され、ただ一人の後継者の婿(むこ)にと選ばれた肩書きに、舵を取るものを失った国家は予定されていたかのように、かの男の手に落ちた。
 復讐を果たして、それでいて一国を手に入れたのか。
(――許さないっ。殺してやるわ、絶対にっ!)
 ギリッと唇を噛んで、ダリアは再び誓いを胸に刻み込んだ。
 あの男の復讐が、何であったかは知らない。
 だけど、あの男の復讐を神が許したのなら、私の復讐も許されるはずだ、と。ダリアは思う。
 そのためなら、幾人もの命を狩ろう。
 幸いに、ダリアは瞬きのうちにナイフを上手く捌くことを覚えた。
 少しでも傍にいたくて、アルデリアが護身術としてシエナに剣の手ほどきを受けていたのは、何たる皮肉。
 だからこそ、ダリアはもっと強くならなければならないと、心に刻む。
 あの男は、剣一本で王宮へと入り込んだ手練(てだれ)だ。正面から当たったところで、きっと返り討ちにあうだろう。
(――私は死なないわ。あの男を殺すの。そして、帰るのよ)
 だから、この手であの男の命を奪うために。
 どれだけ血に染まろうとも、ダリアは前へ進まなければならないのだ。


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