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 4,伸ばした指先に触れる絶望


 忘れるな――そう訴えるように、傷が(うず)く。

 雲ひとつない、抜けるような青空が広がっていた。
 その日もまた平穏無事に過ぎるのだと、信じて疑わない姫君の笑顔の向こうに、不吉な影が忍び寄る。
 それを察して、シエナは声を張り上げた。
『姫様、お下がりくださいっ!』
 銀の冷たい軌跡を描いて、アルデリアに振り下ろされる刃を前に、シエナは身体を割り込ませ、剣は一撃を受け止めた。
 キン――と、金属音がぶつかる音に混じって、肉を打つ音が耳に入ってくる。
 肩に焼けるような痛みを感じて、シエナは奥歯を噛んだ。
 体勢が悪く弾き返せなかった刃が、シエナの肩に噛み付いたらしい。
 黒い服を裂いて食い込んだ刃に、じわりと広がる熱。緊張に強張る身体にフッと一息を吐いて、シエナは半歩後退した。
 それを好機と見取ってか、(ぞく)が力任せに踏み込んでくる。
 押される剣を痺れる腕で受け止めながら、シエナは腰にぶら下げていた鞘を手にして、賊の下顎へと突き出した。
 突然の強打に仰け反る賊の、開いた胸元にシエナは手首を返して、剣を一閃させた。
 ザクリと肉を割いて、銀の剣は鮮血を散らす。
 絶命し倒れる賊の心臓から泉の如く溢れる血に、場は赤く染まった。
 目を刺激する赤い光景に、いつか見た世界の終わりを思い出して、シエナの唇は微かに震えた。
 祖国フレムデテーネが劫火(ごうか)に焼かれ、滅びた日。シエナがアッコールトの王を殺すと誓ったときのことを。
(――父さん……)
 喉の奥で呟いた声は、別の声に重なって響くことはなかった。
『――シエナっ!』
 短く叫ぶように彼の名を口にして、アッコールトの姫君、アルデリアが駆け寄ってくる。
 白い、汚れをなど知らないような手がシエナの肩に伸びてきた。
 既に麻痺(まひ)した傷口に、彼女の冷やりとした指先が触れても、痛みはなかった。
 ただ、シエナは黄金色の瞳を落として、赤く染まるアルデリアの指を見やった。
『どうしよう、血がっ、血が止まらないわっ』
 アルデリアは傷口を押さえて、半分泣きながら声を荒げた。
 姫君の青空のような瞳から真珠粒の涙がホロホロと零れるのを、シエナはどこか他人事のように見つめる。
 その涙が――誰のために流されているのか。
 十分に承知しながら、シエナは認めたくなかった。
 ――自分のために、彼女が泣くなど……。
『痛いっ? どうしよう、シエナっ?』
 涙に曇った瞳がこちらを見上げてくれば、シエナの唇は笑みを刻んだ。
 肩の傷からアルデリアの指を引き剥がしながら、心の内側とは裏腹に、穏やかな微笑を秀麗な面に飾る。
『大丈夫ですよ、姫。この程度の傷、たいしたことはありません。それより、アルデリア様。お怪我はございませんでしたか?』
 賊の死体から距離を取りながら、シエナはアルデリアの頬を優しく包み、顔を覗く。姫君からは甘い花の匂いがした。
 麗しき姫君は、突然、賊に襲われたショックなど既に意識にないらしい。
 青い瞳を真っ直ぐにシエナへと返してきた。
『私は大丈夫。シエナが守ってくれたから……』
『それは良うございました。姫の御身に何かございましたら、このシエナ、死んでも死に切れません』
『死ぬなんて、不吉なことは言わないでっ!』
 怒ったように頬を紅潮させて、アルデリアは眉を跳ね上げた。
 普段は大人しい姫君だが、性格は一本気であったから、自分が正しいと思うことには結構、強気になる。
 無垢で負けず嫌いのところは、子供のようだ。
『死んでは嫌よ、シエナっ』
 駄々こねるように、アルデリアは言った。
『姫様をお守りし、死ぬことができましたら、騎士としてこれ以上の(ほま)れはございません』
『そんなこと、言わないでっ』
 シエナの胸に縋りつき、頭を振るうアルデリアの動きに合わせて、曙色の髪が踊る。その髪を飾る蒼い輝石の残光に、シエナの心は冷えた。
(俺が――死ぬものか……)
 冷ややかな声がシエナの脳裏で吐き捨てる。
 アルデリアを飾る宝石。その石のために、犠牲になった人々を思い出せば、シエナは己の目的を思い出す。
 ――祖国フレムデテーネが滅ぼされ、家族を殺されたことに対して、胸に刻んだ復讐の誓い。
 アッコールトの王に忠誠を誓うふりをし、その剣の腕で王宮に入り込むまでに費やした長い月日を前にすれば、今すぐにでもあの男の首を掻っ切ってやりたい。
 しかし、まだだ。内側に飼っている狂気を解放するのはまだ早い。
 もっと、近くに寄って信頼させるのだ。
 ただ殺すのでは、シエナの心は飽き足らない。
 絶望の淵まで追い詰めて、最大限の恐怖と屈辱(くつじょく)を与えて。
(――そうして、殺してやる)
 戦火に焼かれて散っていた人々を思えば、それぐらいの制裁は当然だろう、と。歪んだ狂気が訴える。
『姫様、ご無事ですか』
 バラバラと駆け寄ってくる足音に、シエナは顔を上げた。護衛隊の者たちが数名、青い顔をして近づいてくる。
 護衛隊という名ではあるけれど、実質は国王直轄のエリート集団。剣の腕、その人格などを見込まれて、出自に問わず重用された者たち。
 シエナは現在、護衛隊の筆頭護衛官という地位まで上り詰めていた。
 既に国王の一粒種のアルデリアも、手の中に落ちつつある。
『何があったのですかっ』
『――賊が、姫様を襲ってきた。アルデリア様はご無事だ』
 シエナが冷静な声で告げれば、その冷ややかさが伝播したように周りの者たちの困惑を沈めた。
 一人の青年が前に出て、指揮を取る。とび色の髪に緑色の瞳の、穏やかそうな顔立ちの青年は、現場がもたらす緊張に強張った顔で指示を飛ばす。
『姫様は馬車にお戻りください――私がこの場を処理します。皆は、姫に従い城に戻れ。シエナ様は、傷の手当を。止血をなさいませんと』
 青年の言葉に、アルデリアはシエナを振り返った。
『シエナっ』
『私は大丈夫です。傷の処置をしてから、城へ戻ります。ここは危険ですから、姫はひと足先にお帰りください』
『だけど……』
 この場に残ろうとするアルデリアに、シエナは護衛官たちに目配せをした。
『姫様をお連れしろ』
 シエナの強い声の調子に、アルデリアはしぶしぶながら、帰還を促す護衛官たちに従う。
 後ろ髪をひかれるように、何度もこちらを振り返る青い瞳。
 離れた位置に止めた豪奢(ごうしゃ)な箱馬車に、アルデリアの姿が消えるのを確認して、隣に立った青年がシエナに問いかけてきた。
『――殺したのですか?』
 青年の視線は賊の死体へと向いていた。緑色の瞳に宿る感情は賊に対して同情的だった。
『墓にあの男の首を供えてやれば、本望だろう』
 シエナは無感動に声を響かせ、答えた。
 アッコールトに恨みを持つ者は、シエナ一人ではない。傍らに立つユージンという名の青年もまた、アッコールトによって祖国を奪われ、家族を亡くしていた。
 穏やかな王宮で過ごしている者たちは知らないだろうが、城の外では不穏分子があちらこちらで密談を交わしていた。
 この賊もその一人で、アッコールトに恨みを持ち、一矢を報いたいと考えていたのだろう。
 そうして彼は、城外に出てきたアッコールト王の愛娘アルデリアを殺害しようと企てた。
『殺さなくても良かったのでは……』
 声を潜めるユージンのその様には、同胞の死を悼みながら、シエナを遠まわしに非難していた。
 アルデリアに近づきすぎているシエナを、ユージンは警戒しているようだ。
『殺してやった方が奴のためだ。……このような、特攻で本気でアルデリアを殺せたと思うのか? 俺がお前たちと離れて、彼女をこちらに連れ出さなければ、奴は手出しすらできなかったんだ』
 シエナが瞳を返せば、ユージンは俯いた。
 アルデリアの周りは常にシエナを筆頭に、護衛隊に固められている。
 彼女の父であるアッコールトの王は、愛娘を目の中に入れても痛くないほど、溺愛していた。本来なら、賊はアルデリアの視界にすら入ることは許されなかった。
 それが叶ったのは、アルデリアがシエナに従順であったから。
 あちらに綺麗な花が咲いているとシエナが誘えば、警戒することなく無邪気についてくる。
 今やアルデリアはシエナの手のひらで踊る人形だ。
 だからこそ、今回の襲撃は形を成した。
『それでも、突っ込んできたその心意気を俺は買った。今回のことをあの男が聞けば、奴はまた俺に対する警戒を一つ解くだろう』
 それはシエナの狙い通りに。
『その代償に、貴方は傷を負ったのですか』
 ユージンの瞳がシエナの肩に刻まれた傷を見る。
 傷から滲み出た血は、既にシエナが(まと)う黒衣をじっとりと濡らしていた。
 流血の量から見て、直ぐに完治するような傷ではないことは、目に見えてわかるだろう。
『信頼を買うには、これくらいの対価も必要さ』
 薄く笑うシエナに、青年は真面目な顔をして頷いた。
 シエナが、王やアルデリアの信頼を買うごとに、一人一人とアッコールトへの復讐を企む人間が王宮へと入り込む。包囲網は確実に完成しつつある。
 もう少し、あと少し。
『貴方が自らの血を流すのなら、私は貴方に従います』
 ユージンが告げる言葉の言外には、疑って済まなかった、という謝罪が含まれていた。
 シエナは軽く頭を振りながら、肩の傷に触れた。
 忘れるな――そう訴えるように、傷が疼く。
 ――願うことはただ一つ。
(ただ、一つ――あの男の首を……)
 だから、それ以上は望まない。
 曙色の髪も、青い瞳も――自分のために流された涙も。
 求めてはならない、望んではならない。
 ――決して、この指先を伸ばしてはならない。

 シエナは自分自身に言い聞かせ、脳裏に浮かぶアルデリアの姿を黙殺した。


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