5,切り取られた空に自由を知る ――何も欲しがらなければ……。 そう呟いていた彼女の声を、ダリアは高窓の格子越しに見える空に思い出した。 * * * ダリアは洗面器に張った冷水に、浸していた布を絞る。 指の間から零れていく透明な雫に、ダリアは今まで自分が殺した人間たちの血を思った。 人間の血は、生温かくて臭くて、水とは違いぬるりとしている。 皮膚にまとわり付く感じが、 それを哀れむべきか、嘲笑うべきか。 迷ったすえに、彼女が選んだ答えは後者だった。 王家の姫君が堕ちたものだ、と。 ダリアは自身の唇に皮肉を刻む。 何しろ、現在の自分は娼館に身を置き、暗殺家業に従事する殺し屋なのだから。 指先を振って、水切りをするダリアの背中に声が掛かる。 『――ダリア?』 くぐもった声に振り返れば、寝台に臥せっていたリリィが肘を付いて、上体を起こすところだった。 いつもは美しく整えられ、結い上げられた栗色の髪は乱れていた。 顔半分を覆う髪の間から覗いた面は腫れ上がり、所々が青くなっている。引っかかれたらしい頬の傷はミミズ腫れ。紅をのせた唇の端には血がにじんでいる。 手のひらに収まりきれない豊かな胸か、それとも何かと面倒見が良く細かいところに気が利く性格の魅力か。 この娼館で人気の娼婦の顔面に、刻み付けられた傷跡は、商売にはかなりの痛手だった。 とても、今夜は客を取れやしないだろう。 もっとも、最悪の客を取ってしまった後では、今宵の売り上げなどどうでもよいことか。 『これで冷やしなさい』 ダリアが濡れた布を渡すと、リリィは腫れあがった 『酷い顔をしてる?』 痛みが惑わせているのか。焦点が曖昧なすみれ色の瞳で、リリィはダリアに問う。 『化け物みたいよ』 泣きそうなリリィに追い討ちをかけるが如く、ダリアは 人を殺す冷酷さは、得物を手にしていないときでも、ダリアの一部だった。 言葉一つで、人を傷つける。殺す。 それが今のダリアだ。 過去、アルデリアと呼ばれていた姫君は、冷たく凍ったダリアの心の奥底に眠っている。 優しい姫君だったなら、リリィの傷に我がことのように悲しみ、涙したことだろう。 『……痛いわ』 リリィは苦笑して、顔を伏せた。 彼女が口にしたその言葉は、ダリアに対して 金で買った以上、何をしても構わないと勘違いした男が、リリィに振るった暴力。その傷跡をダリアは青い瞳で見やった。 男の行為をダリアなどが文句言える立場ではないだろう。 依頼を受け、金で誰とも知らない人間の命を狩っている殺し屋に、男に説教する良識など求めること自体が、お門違いだ。 だが、妹のようにこちらを気遣ってくれる姉貴分を痛めつけられて、黙っていられるほど、ダリアはお人よしではない。 殺しを平然と行う人間に、立場の理解を求めることもまた、お門違いだ。 リリィに振り下ろされた拳の分だけ、ダリアは男に返してやった。 歯を折られ、鼻血を出しながら這って逃げていった男を見送って、ダリアはリリィを自分の部屋へ連れ帰ったのが、事の次第だった。 華やかに飾り付けられたリリィの部屋に比べ、ダリアの殺風景な屋根裏部屋には寝るための寝台が一つあるきり。窓にはカーテンもない。 ダリアはその窓に歩み寄った。 夜の歓楽街は、欲望に 『……何で、こんな目にあっているのかしらね』 ため息をこぼすようなリリィの呟きに、ダリアは首を巡らせた。 『生きていれば、良いことがあると思ったのに……酷いことばっかりだわ』 『生きるために身を売ったの?』 ダリアは問い返した。 別にリリィの半生に興味があるわけでない。 今夜は殺しの仕事は入っていない。眠るための寝台をリリィに貸している以上、ダリアには何もすることがなかった。だから、話し相手になった。それだけだ。 『アタシねぇ、故郷に兄弟たちがいるの。そのために、どうしてもお金が必要だったのよ』 リリィの面倒見の良さは、兄弟たちが多いからか。殺し屋などをしているダリアに対しても、妹分として気を配ってくれる性格は、そうして培われたのだろう。 『自分のためじゃなかったの』 『目的がなければ、こんな仕事になんて就かないわよ』 腫れあがった顔を上げて、 『……そうね』 頷いた瞬間、ダリアの脳裏に一人の青年の姿が過ぎった。 漆黒の髪に黄金色の瞳の青年、シエナ。剣の腕を買われてアッコールト王国の王宮に入り込んだ彼は、王の後継者であるアルデリアを守る筆頭護衛官となった。 そんな彼の目的は――復讐。 彼が甘い言葉をアルデリアに囁いたのも、優しく微笑んだのも、すべては目的があってのこと。 三年前の満月の夜。彼は婚約者の前で、平然と父と母を殺してみせた。 目的のためなら、どんな苦労も偽りも厭わない。 今、ダリアを突き動かすシエナへの復讐に、良心への罪悪も捨てられる様に。 リリィが男に身を売るのも、それと一緒だ。 人は目的のためなら、どこまでだって 『フレムデテーネって、知ってる?』 リリィが口にした耳慣れない音に、ダリアは『いいえ』と首を振った。 朝焼けのような色をしたアルデリアの長かった髪は切り捨てた。そうして、短く切り揃えたことにより赤が目立つようになった髪が、ダリアの頬で踊る。 『この国の隣に在った小さな国よ。十年以上前に、戦争で負けてアッコールトの属国になったの。アタシね、そこで生まれたの』 『……そう』 初めて聞く話だった。 アッコールトの王国軍は大陸でも強軍を誇っていたから、戦争と言っても大した規模のものではなかったのだろう。 恐らく、幼かったアルデリアの耳に入る前に片がついてしまうようなもの。 小さな国は瞬く間に、アッコールトの前に屈したのだろう。そして、何もかもを失った。 そう考えれば、敗戦国の人間の惨めな末路は予測できた。身を売らなければならないほどに、フレムデテーネの国民は生活に リリィのそれが物語っている。 『兄弟たちを食べさせるために、アッコールトに来たの。でも、属国の人間なんて、この国では家畜も同然。屑以下なの。まともな職になんてありつけなくて、今の様よ』 微かに滲む怨嗟の声に、ダリアは視線を逸らした。 背中にリリィの泣き声を聞く。 心の奥底で、眠っているはずのアルデリアが泣いているような気がした。 『生きるために、生きていくために……身を売ったわ。生きていれば、良いことがあると思ったから』 ――ねぇ、聞いてよ、と。泣き声の中に笑いが混じる。 『ここの店主、アタシの胸を見て、とにかく食べろって言ったわ』 リリィの豊かな胸元は、男にとってさぞかし魅力的だろう。 『フレムデテーネでは食べることさえままならないのに、アタシは食うに困らない食生活だけは保証された。……ねぇ、それがアタシにとっての良いことだったら、笑うわよね』 引きつった笑い声を響かせるリリィを、ダリアは振り返らなかった。 『何も求めなければ……こんな思いはしなくて済んだのよね』 『後悔しているの?』 リリィに背を向けたまま、ダリアは問う。 『さあ、それもよくわからないわ。ただ、何も欲しがらなければ……自由だったのよ』 『……今は自由ではないの?』 『だって、考えても見てよ。今さら、死ぬなんて滑稽だわ』 好きでもない男に身を預け、薄汚れた日々を思い返せば、その 死を選べば、そんな屈辱に耐え忍んだ日々を無にする。 リリィはそう言っているようだ。 その言い分には、ダリアも理解できた。 今さら、退くに退けない。シエナへの復讐を果たすために、ダリアは殺しを重ねてきた。 いつか、あの青年の命を狩るための修練として、重ねた罪をなかったことにはできない。 (――私たちは) ダリアはそっと、アルデリアの意識に語りかける。悪夢の中で繰り返すように、告げる。 (帰らなければならないの……シエナを殺して。それまでは、終れない) 『――きっと、生きるってことは……自由を犠牲にすることなんだわ。何も求めなければ、いつだって死ねたのに』 夜空を映した窓ガラスに、涙を流すリリィの姿が四角く切り取られていた。 * * * ――何も欲しがらなければ……。 何も求めなければ……。 「……自由」 ポツリと呟いたダリアの声は、冷たい石牢に響いた。両手を拘束する鎖が重い。 暗殺に失敗し、捕らえられた今の彼女には縁遠い「自由」という言葉に、ダリアは笑う。 リリィに言い訳するように、彼女は呟いた。 「だって、しょうがないのよ。……どうしても、欲しいものがあるの」 アルデリアが、黄金色の瞳に心囚われてしまったときから、ダリアには自由なんてなかったのだ。 |