9,断罪の十字は煉獄への導 「だが、貴方に私が殺せるか? 愛しているのでしょう、私を」 愛しげにこちらを見つめて微笑むシエナの問いかけに、彼女はすべてを悟った。 胸に抱いた復讐の火種。絶対に、目の前の男を殺さなければならないと思ったのは……。 (……ああ、そういうことなのね) 冷たい石床に横たわって、動けない彼女に飽きたのか、シエナは立ち上がった。微かな衣擦れの音がすると、彼は羽織っていた黒いマントをこちらに放り投げてきた。 「貴方の決意の程を見せて頂きましょう、姫。くれぐれも、このようなところで朽ちませんように」 靴音が遠ざかり、静寂が訪れる。嵐の後のような静けさは、寒々しい。 彼らが持ってきた熱と光りの名残も徐々に失われ、冷ややかな空気が彼女を包む。だけど、シエナが残していった衣の温もりが指先に残っていた。 胸元にそれを抱いて、彼女は顔を上げた。 頬にこぼれた涙が熱い。その熱は、果たして自分のものか。失った故国に泣いたシエナのものか。 彼女は答えを求めず、石の壁に 熱い涙に、心の奥底に凍らされていた意識は溶け、アルデリアの自我は目覚めていた。 * * * 涙が枯れて夜を迎える頃、ユージンが再び、牢の前に現れた。 片手に明かりを掲げ、片手に食事を手にしている。 その姿を見て得られる答えは一つ。 シエナは、アルデリアを生かすことに決めたらしい。 こちらに彼の命を狩ることはできないと達観しているから、寛大なのか。それとも、堕ちた姫君が面白いのか。 シエナの真意は、やはりアルデリアにはわかりかねた。 彼は甘い言葉でアルデリアに愛を囁き、優しい笑顔で平然と人を裏切った。 だから、シエナの言葉がすべて真実であるという確証はない。こちらを混乱させたいために、フレムデテーネの話を口にしただけかもしれない。 彼がどこの国に生まれて、どうやって生きてきたのか。詳しくは聞いていない。 アッコールト辺境の田舎出身です、と――苦笑して話すシエナの話を、アルデリアは聞いただけ。 それ以上の追求は、アルデリアには興味がなかった。 それなりに身元が保証されなければ、王宮へ入り込むなどできないものだと思っていたから。実際に、そういうものであっただろう。 だけど、彼の嘘で騙された自分を知っていれば、シエナが偽りを重ねて身元を偽証しても誰にも見抜けなかったのかもしれない。 それほどに、シエナの嘘は深く。彼の真実は容易に見抜けない。 (……でも) アルデリアは、牢を開けてこちらへ入って来るユージンの腰に携えられた長剣を見た。それとは別にもう一本、彼は短剣を持っていた。 王家の紋章が入った短剣は、その者が国王の信頼を受けた証として、護衛官に任命されたときに与えられる。 お飾りのようなものではあるが、その刃は人を傷つけることもできるはずだ。 アルデリアの前で片膝をついたユージンは、床に食事を置いた。 「食べなさい――これは、シエナ様のご命令です」 威圧的な命令口調は反感を誘うに十分だった。 断食をしろとでも、遠まわしに言っているのだろうか。 手を汚すより、こちらが自暴自棄になって自ら死んでくれた方が助かると? 『くれぐれも、このようなところで朽ちませんように』 立ち去り際に残したシエナの言葉を思い出す。 怒りに我を見失い、この程度で朽ちる者には興味はないと? アルデリアは緊張から水分を失い、かさかさに乾いた唇を開いた。 「腕が繋がれていたら、食べたくても食べられないわ。それとも、犬のように這いつくばって口で食えと?」 声を響かせれば、ユージンは微かに眉をひそめた。 こちらの口調が気に入らなかったのか、鎖を念頭に置いていなかった自分の失念に対してか。 ユージンはアルデリアの両手を拘束する手枷を解除する鍵を、懐から取り出す。 解けた拘束にホッと息を吐きつつ、アルデリアは床に手を付いた。頭を下げて、蹲る。 冷たい石床に額をこすりつける彼女に、ユージンの戸惑いが冷えた空気を通して伝わってきた。 「――何を……」 「フレムデテーネのこと、アッコールトの代表として謝罪します」 土下座をすることが屈辱だとは思わなかった。 ダリアという殺し屋の人格を宿してからは、地べたを這い回ることなど厭わない日々を送っていた。 目的のためなら、ダリアは幾らだって感情を殺せた。 だけど、そんなダリアでも、ただ一人――シエナを前にすると、怒りを覚えた。心が逸る。頭で考えるより先に、身体が動く。 その意味を自覚すれば、アルデリアは涙をこぼしていた。 どんなに、言い聞かせても変えられない気持ちがあったのだ。 裏切られても、騙されても。 (……それでも、 「――許しを請うたところで、貴方が……貴方たちが、失ったものを取り戻せないことを知っている」 アルデリアはユージンへと語りかけながら、顔を上げた。突然のことに身動きがとれず立ち尽くす彼の腰へと手を伸ばして、叫んだ。 手に取った短剣を鞘から引き抜いて、白刃を喉元へと突きつける。 「だから、シエナを連れてきてっ!」 「――なっ?」 ユージンは大きく目を見開いて、アルデリアを見つめ返してきた。 彼の目に映る今の自分の滑稽さに、アルデリアはこの方便がどこまで通用するだろう、と考える。 だけど、今の自分には自分を楯にする方法しか、見つけられなかった。 自らの喉元に短剣の切っ先を突きつけて、アルデリアはユージンに交渉する。 「シエナは私を殺すつもりはないのでしょう? ならば、私に死なれたくなければ、ここにシエナを連れてきて」 「ご自身のお言葉を理解しているのですか? 矛盾が過ぎます」 人質自ら、自分を楯にして要求している。そんなものが、交渉に通用しないことは百も承知だ。 第一に、憎い仇であるアルデリアの生死など、ユージンにはどうでもいいはずだ。ここで、彼女が自害しようと、彼には瑣末なこと。それは恐らく、シエナにも言える。 シエナやユージンにとって、アッコールトの姫君であるアルデリアは、憎しみの感情を差し向ける対象でしかない。 花よ蝶よと誉めそやされ、下層の汚れた世界を知らず、温室の中で大事にされていた姫君が殺し屋にまで堕ちた姿が面白くて、彼女を捕らえ生かしているだけに過ぎないのだと思う。 しかし、そうまでして生かすことを決めたのなら、みすみす死なせるはずがない――という逆転の発想は、所詮、彼らの心根一つで決まる。 ユージンがアルデリアの要求を呑まなければ、彼女にはどうしようもない。 それでも、アルデリアは矛盾を承知でユージンに縋る。 「シエナを連れてきて、お願いよっ!」 瞳から涙が溢れるから、アルデリアは声を張り上げた。そうしないと、嗚咽に言葉が掻き消されそうになる。 「貴方に、シエナ様は殺せない――だから、よろしいでしょう。シエナ様をお呼びして参ります」 ユージンは冷たく言い放った。そうして、彼はアルデリアに背を向ける。無防備な背中はアルデリアに動く意志がないことを見越してのことか。 牢を出ると鉄格子に鍵を掛けて、彼はそのまま地下から消えた。 アルデリアの手には王家の紋章が入った短剣だけが残された。 ユージンが残した言葉がすべてだった。 彼女にシエナは――殺せない。 技量云々の問題ではなく、心が彼を殺せないことを、彼を殺すために作られたダリア自身が確信してしまったのだ。 ダリアがシエナをどうしても許せなかったのは、アルデリアが彼に裏切られたことを認めたくなかったからだ。 愛されていなかったということを、信じたくなかったからだ。 通じ合っていると思っていた心が、一方通行だったこと事実にアルデリアは打ちのめされた。 だから、アルデリアが彼を愛していたという事実を否定するために、ダリアはシエナを殺そうとした。 アルデリアから生まれたダリアが彼を殺せば、真実、アルデリアはシエナを愛していなかったということになる。 それを証明すれば、アルデリアの裏切られた心の傷も癒えるような気がした。 矛盾していても、ダリアは復讐を糧に生きることで、アルデリアを生かした。 (……だって、泣くことしかできないくらいに、私は――シエナを愛していたから……) ダリアが代わりにシエナを憎まなければ、アルデリアは泣き伏せるばかりで、生きてはいけなかった。 元々、ダリアの存在は、アルデリアが人を殺してしまった現実から逃避するための、殺しを正当化させた別人格。 アルデリアの崩壊寸前の精神を守るために、生まれたダリアはアルデリアを守るためにシエナを憎んだ。 この三年、「シエナ」と、名を口に出すことを許さず、ダリアはひたすらシエナを憎んだ。 そんなダリアだから矛盾を内服していても、迷わずにシエナを殺せるはずだった。 でも、今は……。 裏に企みがあったとしても、シエナは自身が傷つくのを厭わず、アルデリアを守ってくれた。 泣いているアルデリアを慰めてくれたのも、いつだって彼だった。 見守っていてくれた黄金色の瞳。その瞳に見つめられるだけで、アルデリアの心が浮き立った。 愛している――と、彼が口にした言葉が偽りだったとしても。 あの日のアルデリアは嬉しくて、幸せだった。 そして今も、ダリアが抱いた憎しみよりもずっと強く、アルデリアはシエナを愛している。 「……シエナ」 どんなにダリアが彼を憎んでも、アルデリアが求めるのはただ一つ。 願いを込めて、アルデリアはその名を唇にのせた。 * * * どれほどの時間が経過したのか、よくわからない。石壁に響く靴音に顔を上げれば、鉄格子の向こうにシエナがいた。 明かりに見える彼の顔を目に焼き付けて、アルデリアは微笑んだ。 (……貴方も私と同じだった) アルデリアがシエナを愛して、許せなかったように。 シエナもアッコールトを許せなかったのだと気づけば、彼に対する憎しみはダリアの中で霧消した。 失った祖国を、家族を、シエナは愛していたのだ。 悲しみに沈んだ心は、倫理観を見失い。復讐に心を燃やさなければ、耐え切れないほどに、深い闇に囚われた。 シエナの言葉に真実を見抜くことは結局、アルデリアにも、ダリアにも、できなかった。 だが、彼が祖国のために流した涙までが嘘だったとは思えない。 (……あの男を許すの? アルデリア――) 心の奥底から、問いかけてくる自らの声に、アルデリアは返す。 (許しを請うべきなのは……私なのよ、ダリア) 彼が失ったものの上に立って、自分が生きてきたことを知れば、アルデリアは自分自身が許せなくなった。 彼の傷に気付くことが、きっとできたはずなのに、愚かな姫君は華やかな世界だけを見つめ、暗い歴史を知ろうとしなかった。 その愚かさが、どうしても許せない。 きっと、シエナも同様にアルデリアの愚かしさを憎んだに違いない。 だから……。 「ごめんなさい、シエナ。貴方がどんなに私を憎んでも。……私はそれでも、貴方を愛しているわ」 シエナに対する憎しみの糧を失えば、ダリアは消える。 今、言葉を告げるのは、アルデリアのただ一つの真実だ。 しかし、シエナを殺そうとしたダリアもまた、アルデリアの心の一部だったのなら。 言葉はどれだけ真実を語れるだろう? 本当の心を信じてもらえる方法をアルデリアは一つしか、思いつかなかった。 「――何のつもり……」 シエナの言葉を遮るように、アルデリアは手にした短剣を自らの胸に突き立てた。 肉に食い込む冷たい刃の感触に、怯みそうになる腕に力を込めて、刃を滑らせる。 引き裂かれた衣服の下で、アルデリアの肌もまた切り裂かれて、赤い雫を飛ばした。溢れる血が熱い。 その熱は、シエナがこぼした涙の熱と似ていた。 彼が流した涙もまた、心が流した血だったのだろう。 「――アルデリアっ!」 シエナの声がアルデリアの名前を呼ぶ。 遠くなる意識の果てでその声を耳にして、アルデリアは再び自らの胸に刃を立てる。 (最後に名前を呼んでくれたから――もう、私は何も要らない。ダリア、貴女は自由よ……) 十字を死の刻印として――地獄へ堕ちよう。 (アッコールトが侵した罪も、シエナが犯した罪もすべて、私が引き受けるから) アルデリアはゆっくりと瞼を閉じながら、祈る。 神よ、どうかシエナを救って――。 |