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 11,私を包むは偽りの優しさ


 瑠璃るり色の夜を黒く塗りつぶすように、厚い雲が空に広がっていた。
 痛みも怒りも飲み込んだかのような、絶望色に染めあげられた暗闇の中を走る。間に合えと、息を切らしながら走った。
 夜が明ければ、断たれてしまう命がその先にあったから――。

                 * * *

 静寂に満たされた部屋の窓辺に寄り、星の一欠けらの光すらも許さない暗く淀んだ空を見上げて、リリィは誰にともなし問いかける。
「……何があったの? ダリア」
 ここのところ、同じ問いを繰り返しているが、答えは返って来ない。
 妹のように思っていた少女が、一ヵ月ほど前に殺しの依頼を受けて飛び出したきり、帰って来ない。
 殺し屋という稼業をしている以上、彼女の身を案じる心配の行き着く先は決まっていた。
 失敗して……捕まったのか。それとも……。
 殺し屋を雇うような人間は常識的に考えて、ろくな人間じゃない。
 そうして、そんな奴らに命を狙われるような標的も大概にして、ろくな人間じゃない。その手の輩が、捕まえた殺し屋を手放しで解放してくれるとも思えない。
 ダリアが酷い目にあっていなければ、良いけれど……。
 リリィはため息をついて、裸体の上に纏ったシーツの胸元をかき合わせた。背後の寝台では客が気持ち良さそうに寝息を立てて、眠っている。
 一般的な人間からすれば、娼婦も殺し屋もろくな人間ではないだろう。金で買える以上、幾らでも代わりが利く。
 ダリアを重宝し飼っていた主も、帰って来ない彼女を心配したのも三日ほど。その心配もダリアから足が着いて、自分にまで捜査の手が回って気やしないかという――結局は、我が身可愛さの心配。
 省みられない者の惨めさがわかるつもりだったから、だからせめて、自分だけは――と。
 リリィはダリアの帰りを待っていた。
 出会ったときから、どこか目を離せないものがダリアにはあった。
 娼館の主が拾ってきたというダリアは、リリィが知っているどの娼婦よりも美しかった。
 目を()いてやまない赤い髪に対照的な青い瞳。
 その青い目に宿るのは凍えた、だけど一途な殺意。
 冷酷であるのに、どこががむしゃらに殺しを重ねるダリアを見て、何か複雑な事情があるのだろうと悟った。
 そんな風に相反するものを抱えているのは、リリィも同じだった。
 娼婦などやりたくはない。けれど、娼婦でもしなければ、兄弟たちを食べさせてはいけない。
 アッコールト王国によるフレムデテーネの属国支配は、食料供給という、生きていくに必要な根本的なところから始まっていた。
 戦争で田畑が焼かれたので、フレムデテーネは食糧難に陥ったのだ。意図的に、アッコールトはフレムデテーネの大地を焼いていた。そうして、すべてを失った者たちに食料を供給することで、フレムデテーネの人間を飼った。
 家畜も同然だった。わずかな食料のために使役され、苦役を強いるアッコールトに抵抗しようにも、そんな力も出ず、飼い殺し。
 リリィは僅かな伝を辿って、フレムデテーネを出た。アッコールトで身を売って、そこで得た金を兄弟たちに送る。
 フレムデテーネでは、金で食料は買えない。けれど、袖の下を渡すことで、アッコールトの人間から便宜を払って貰える。僅かだが、配給を増やして貰える。そうすればほんの少しだけ、苦役に耐えられる。ひもじい思いで眠れない夜を過ごさずに済む。明日へと命が延びる。
 パン一つで、救われる命があるというのは、どんな地獄だ。
 それでも、リリィは兄弟たちを守ろうと決めた。
 戦中、女はアッコールトの兵に犯され殺される運命にあった。当時、ようやく女の兆しを見せ始めたリリィだったが、血に興奮した兵士たちにはそれでも獲物(えもの)に見えたらしい。狙われたリリィを幼い兄弟たちは身を挺して守ってくれた。
 殴られ蹴られながらも、彼らはリリィを隠し守った。殺されるかも知れなかったのに、守ってくれた。
 実際のところ、生き残ったことが幸いだったのか、迷う時もある。
 だが、顔を打たれて赤く腫らし、鼻血まみれの泣き顔で、『お姉ちゃん、良かった』と、喜ぶ兄弟たちを思い出せば、生き残ったことが間違いだったなどとは、思いたくはなかった。
 だからリリィは、今度は自分が彼らを守ろうと心に決めた。そのために、身が汚れても構わない。あの子たちが生きていてくれるのなら。
 己の身の危険を知っていても、何かを成そうとしているダリアを見ると、リリィにとっての宝物である兄弟たちを、思い出した。
 懐かしさに心ひかれ、そうして構っていると、ダリアもリリィに心を許してくれたらしい。
 殺しで得た報酬や奪った金をリリィに分けてくれた。
 汚い金だと思う。
 それでも、その金でパンがもう一つ貰えるなら、リリィは汚れた金で買われた命が誰のものであっても構わない。
 ――結局、ダリアの心配をするのは、あの金のため?
 リリィは自らの思考に眉を顰めた。
 ――違うはずだと、取り付かれた考えを振り払うように首を振った。

                 * * *

 内側に抱え込んだ傷がじくじくと疼いた。
 だけど、痛みなど構っていられない。
 まだ安静にしていろと、止める者たちの制止を振り切って、シエナは寝台を這い出た。
 王城敷地内の端にある囚人たちを閉じ込める獄塔へと、闇の中をただ一人を連れて、走った。一歩地を蹴るたびに、火を飲み込んだような激痛が腹部を貫く。その度に、彼を支える者の顔が曇るが、シエナは足を止めなかった。
 そうして、看守たちを王命の一言で退けると、 囚人が捕らえられている鉄格子の前に立ち、シエナは声を荒げた。
「――これはどういうことだっ、ユージンっ!」
 彼は鉄格子の鍵を開けると、瞬きのうちにユージンの前に駆け寄った。
 一月前と同じように、シエナはユージンの胸倉を掴んで引き寄せる。
 両手を鎖で拘束されたユージンは引きずられるままだった。
 それでも、傷に衰えたシエナは肩で息を切らせた。
 傾ぎがちになる身体を根気で支え、怒りに燃える黄金色の瞳で、三年前の王宮襲撃犯として、処刑が決まった囚人であるユージンに問う。
「――どういうつもりだっ! 何故、俺を助けたっ? それに、どうして俺の罪を謀ったっ?」
 シエナが眠っている間に、ユージンは自らの罪を告白していた。
 王宮虐殺事件の首謀者として、彼はシエナの罪を代わりに背負い、己の罪としていた。
 あの晩、自害を図ったシエナの命を取り留めようとするならば、誰かに助けを請わなければならなかっただろう。そうすれば、状況を説明するために語らなければならない事柄が出てくる。
 だが、幾らでも偽りが吐けた状況で、何故、ユージンはシエナの罪を謀ったのか?
 その真意を問い質すシエナに、ユージンは静かに答えた。
「貴方に死なれては困るからです、シエナ様」
「――何っ?」
「貴方は、アッコールトの王です。貴方でなければ、フレムデテーネは解放されない」
「……そのために……お前は」
 シエナは微かに唇を震わせた。
 アルデリアの後を追って自害しようとしたシエナを、ユージンが助けたのは――すべては、フレムデテーネへのためだと言うのか。
 そうして、シエナの代わりにユージンが背負った罪も……。
「王である貴方が、先代国王殺害――王宮襲撃、果てはアルデリア姫誘拐に関与しているはずがない。――そうでしょう?」
 穏やかな笑みを浮かべるユージンの視線の先には、

「――アルデリア姫」

 シエナを支えるアルデリアの姿があった。


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