12,滴る雫の真実 目が覚めたとき、アルデリアは今までのこと、すべては夢だったのかと疑った。 もしくは、ここは天国か? 『……私、死んだの?』 明るい室内、身を横たえている寝台は天蓋付きで、シーツの柔らかさは屋根裏部屋のそれではない。ゆっくりと息を吸う。微かに花の匂いが鼻先をかすめて漂い、清浄なる空気が肺に満たされると胸元に、激痛を覚えた。 顔をしかめて、痛みの場所に目を落とせば、そこには死の刻印が記されていた。 白い肌に刻まれた十字の傷は、アルデリアの中にダリアという冷酷な殺し屋が存在していたことの証だった。 指先で触れると、炎に焼かれたかのような痛みが襲う。 『――痛……っ!』 微かに呻いて胸を抱えてうずくまるアルデリアに、抑揚のない声が語りかけてきた。 『痛みがあるということは、生きているということですよ。アルデリア姫』 声に導かれ目を向けると、その先にユージンがいた。 『……何故?』 助けたの? という、アルデリアの掠れた問いかけは、ユージンの言葉に遮られた。 『姫様をお助けしたのは、シエナ様のためです。私は姫を――アッコールトを許したわけではありません』 『……シエナ?』 アルデリアは視線を彷徨わせ、シエナの姿を探す。 助けてくれたということは、私を許してくれたの? と、淡い期待を抱くアルデリアに、ユージンは言った。 『シエナ様は――貴方の後を追われ、自殺を図られました』 言葉の意味が頭に染みると同時に、アルデリアは声を叩きつけた。 『――嘘よっ!』 胸の痛みに構わず起き上がり、アルデリアはユージンに詰め寄った。 『また、私を騙すのね。そうでしょうっ? ――シエナが、そんなことするはずないわっ! だって、シエナは私を憎んでいるのよっ?』 頭を振って、ユージンの言葉を否定する。 愛されていないということを認めるのは、辛い。けれど、シエナが死ぬくらいなら、愛されていない方がいい。 彼の憎しみに囚われた心を、少しでも解放できたらと、アルデリアは命を絶つ決心をした。 その願いは神に届かなかったの? 私の手は汚れすぎて、神は願いを聞き入れてはくださらなかったの? いやだ――と。首を振るアルデリアに、青年は淡々と告げた。 『――自害されようとなさいましたが、未遂に終りました。ただ、姫様より傷が重く、いまだに眠っておられます』 『シエナは……どこ?』 ユージンは顎をしゃくった。そこに隣室に繋がる扉があった。アルデリアはよろめく足取りでドアへと近づく。 昨日のことのように思えるが、随分と長く眠っていたらしい。足元が それでも、唇を噛んで扉を開けた。 開かれたドアの向こうに、こちらと同じような天蓋付きの寝台があり、その中央に埋もれるように眠るシエナの姿があった。 刀傷が無数に刻まれた上半身は裸で、腹部に巻かれた白い包帯がアルデリアの瞳をくぎ付けにする。 血の気が失せ、やつれて細くなった面に、アルデリアは息を呑む。 足をもつれさせながら、アルデリアはシエナへと駆け寄った。 『姫様も重傷でしたが、貴方の場合は血が足りないことによるもの。ですが、シエナ様は内臓を傷つけておられるので、回復が遅れています』 追いかけてきたユージンの説明によれば、アルデリアも瀕死であったらしい。だが、止血が間に合い、そしてこの三年に鍛え上げた身体が、驚異的な回復力を見せたということ。 殺し屋ダリアになったから、生かされたというのは皮肉が過ぎた。 『シエナは……』 アルデリアはユージンを仰いだ。今、シエナの生死を握っているのは、復讐に燃えていたダリアではなく、彼だ。 第一に、アルデリアの中には、もうダリアはいない。 シエナに対する憎しみを育てることでダリアがアルデリアを生かしていたのなら、どうあっても彼を憎めない自分を知ってしまったアルデリアの心にはダリアを受け入れる場所はない。憎しみが消えたと同時に、ダリアも消えてしまった。 同時に、シエナを憎むことでアルデリアの命を繋ぎとめようとした枷も外れて、彼女は贖罪に自らの命を捧げようとした。 その結果、シエナまでもが命を絶とうとするなんて、アルデリアには想像がつかなかった。 こんな結末なんて、望んではいなかった――。 『死なせません。ただ無理を成され、また同じことを繰り返されては困りますので、薬を調合して眠って頂いています。ご心配なく、命に別状はありません。暫くお時間を頂いているだけです。事後処理もありますからね』 命に別状がないと知って、アルデリアはホッと息をつくと同時に、その場に膝を付くようにして崩れた。 立っているだけのことですら、体力が続かない。きっと、シエナと同じように薬を飲まされて眠らされていたのだろうと、アルデリアは気づく。一体、どれだけの時間、眠らされていたのか。 『事後処理……?』 『シエナ様には生きて貰わねばなりません』 ユージンは決定事項のように言い放ち、アルデリアを見下ろしてくる。 『そのためには、貴方にも生きて貰わねばならない。貴方が死ねば、シエナ様はきっと後を追う』 『そんな……シエナは』 『愛されていると錯覚したのは、愛されていたからでしょう』 ユージンが予告もなく、アルデリアの心に切り込んで来た。 瞠目したアルデリアは、やがて儚げに首を振って彼の言葉を否定した。 そうであればいい。そう願いたい。だけど……裏切られた。裏切られたのだ。 『故国への愛情と、貴方への愛情。その片方を選んだとて、もう片方が偽りだったとは限らないでしょう。シエナ様は毎夜、姫様の名を呼び泣いておられました』 『……嘘……』 『私やシエナ様のお言葉が信じられぬのでありましたら、他の人間にお聞きになってください』 そう言い放つユージンに、――信じていいのか? と、アルデリアは戸惑う。 愛されているのだと信じられれば、どれほど良いだろう。 『姫様がお戻りになられるのならば、貴方を攫った事件の首謀者が必要です』 『……何を言っているの?』 事件の首謀者は既にアルデリアは知っている。シエナがあの晩、アルデリアを裏切ったのだ。そのことをユージン自身の口が言っているのに。 『姫様の婚約者は裏切りなど働いてはおりません。すべては、一人の男の復讐によるもの。アッコールト王への意趣返しに、大事な姫君を攫ったのは――この私です』 『……ユージン?』 一瞬、そうなのかと思いかけた。 しかし、牢獄で聞かされたシエナの告白が誰よりも彼の罪を告げていた。 罪はあるのかと問いながら、彼は罪を認めていた。責める権利がダリアにはないことを突きつけながら。 事の発端は、間違いなくアッコールトにあったのだ。平和だった国を侵略したことは、戦争に勝利したからといって、許される行為ではない。 何より、フレムデテーネの人間たちが許しはしない。 (……リリィ……) アルデリアの脳裏に浮かぶ面影。優しかったあの娼婦も、アッコールトに傷つけられた人間だった。彼女の口から出た恨み言が、フレムデテーネの人間が抱くアッコールトへの負の感情を代弁していた。 アッコールトが、フレムデテーネに憎まれるべき相手であることが揺るがなければ、シエナの告白は真実。間違いなく、彼が事件の首謀者であることを告げていた。 でも、ユージンはそれを否定する。自分こそが罪人だと言う。 『私はシエナ様のお傍に仕え、アッコールトへの復讐の機会を伺っていました。姫様を攫ったのは、シエナ様を影から操るためです。姫様を人質にして、私はシエナ様を――果ては、アッコールトを滅ぼそうと企みました』 穏やかな口元から、語られる言葉にアルデリアは目を見張った。 『しかし、幽閉していたはずのアルデリア姫に逃れられた。それだけならまだしも、シエナ様を私の企みから解放せんがため、姫様が自ら命を絶たれようとなさったことをシエナ様に知られてしまいました。シエナ様は自責の念に駆られ後追い自殺を図られた――』 それは、彼がこれから口にしようとする虚偽の自白だと、わかった。 『……貴方はシエナの罪を被るつもりなの?』 アルデリアの問いかけに、ユージンはそっと微笑んだ。 『姫様が城にお戻りになられる以上、何事もなかったことにはできないでしょう。裁かれる人間が必要です。しかし、それはシエナ様であってはならない』 『……どうして?』 真実を知った今となっては、シエナやユージンを責めるつもりはない。もっとも、責められる立場でもないだろうが……。 ユージンが望めば、幾らだって口裏を合わせると、アルデリアが告げれば、彼はゆっくりと首を横に振った。 『いいえ、それはなりません』 『――でも、それでは ユージンの虚偽の自白には穴がある。 彼はその穴をどう埋めるつもりなのか? 問いただすように見上げたアルデリアに、ユージンは首を横に振った。 『私の考えはシエナ様がお目覚めになられたら、お話します』 頑なな拒否を前にして、アルデリアは唇を結んだ。そんな彼女を満足そうに眺めて、ユージンは告げた。 『姫様は、シエナ様のお傍に』 『――私はシエナの傍にいていいの?』 アルデリアは、肩を震わせた。 傍にいたい。けれど、そんな資格が自分にはないように思える。 復讐のために、随分と手を汚してしまった。それが生きていく支えであったとしても、罪は罪だ。 それどころか、すべてを知った今、自分がシエナの仇であることを強く自覚する。愛されているとしても、傍にいれば傷つけてしまう。 『貴方を失えば、シエナ様は今度こそ命を断たれる。シエナ様を死なせるわけにはいかない。姫様、どうか私の代わりに、シエナ様をお願いします』 そう告げるユージンの瞳を前に、アルデリアは彼の覚悟を見た気がした。 こくりと頷けば、彼は憂いが晴れたように笑った。 |