目次へ  トップへ  本棚へ


 3,目覚めの時


 無意識の向こうから差し込んでくる光にまぶたの奥が刺激されて、私は眠い目をこすりながら起き上った。
 身体を支えるために突っ張った腕が、柔らかなベッドに沈む。
 自宅のベッドではありえない感覚に手を引きつつ、目を見開けば、私は肌触りのいい白い布地のネグリジェを着て――私はパジャマ派なんだけれど、用意されたものはこれだったの――天蓋(てんがい)付きのベッドのなかにいた。四方を花模様が散らされたレースのカーテンが天井から降り、囲っている。
 気分はかごの鳥?
 ――夢じゃなかった。
 目が覚めて思ったことは、それ。
 金髪王子に「薔薇姫」と、手の甲にキスされたことや、「ローズ」と呼ばれたこと。昨日のそれは、夢だと思い込もうとしていた。
 だって、常識的に考えてありえないでしょ?
 こちらの世界とか、あちらの世界とか。
 私も年頃だから、少女向けのファンタジー小説を読むわよ?
 それでお気に入りの小説とか、好みのキャラとかいたりするわよ。ちょっとはファンタジーに対して知識はある。
 だからこの状況はいわゆる異世界召喚ものじゃないかって――頭は推測する。
 でもね、そんな簡単に「はい、ここは異世界ですか」って、普通の子は受け入れない。
 第一に、別世界に来て言葉が通じているなんて、おかしいじゃない。
 初歩的なところからご都合主義を発揮されても、困るわよ。
 私自身は、気が強い喧嘩っ早い性格で――そんな女が普通を語るのはおこがましいと思うけど。
 それでもやっぱり、この展開は現実的にはあり得ない。だから、これは夢だと思ったの。
 夢だったら、ご都合主義もありでしょ?
 きっと、転んだ拍子に頭を打って、気を失ったとね。結論付けたわけ。
 そもそも、このおかしな展開の始まりは、昨日の朝の通学途中に起こった事故がきっかけだった。
 台風接近の影響で降り続いていた雨の中、私はいつもの如く学校へと通っていた。その途中で雨にスリップしたらしい車が突っ込んできたのよ。
 何かが割れるような音がして、意識があったのはそこまで。
 多分、車に跳ねられたか、驚いて転倒したかで、私は頭を打っちゃったのよ。
 そうして目が覚めたら、目の前に金髪王子と魔王男がいて、わけがわからないことを言っていた。
 これは夢――意識を失った私の頭が、少し前に読んだファンタジー小説に影響されて、それでこんな洋風な夢を見ているのだと、思った。
 だから、金髪王子にキスされた――手の甲にねっ! ――現実から立ち返ると、
「――頭が混乱しているわ、一晩眠らせて!」
 私はそう要求した。
 魔王男は仏頂面で何も言わなかったけれど、金髪王子はにこやかに微笑んでこの部屋を用意してくれた。
 そうして、眠りについて――目が覚めたわけだけど。
 ……夢じゃなかった。
 いえ、まだ結論付けるのは早いわね。夢がまだ終わっていないだけなのかもしれないわ。
 もしかしたら、現実の私は酷い重傷なのかも。
 事故で死んでしまって、ここが天国だとしたら――もしかしたら、地獄かしら? 魔王みたいな雰囲気の男がいたから、否定できない気になってくる――さすがの私も泣いちゃいそうだけど。
 今はあまり、悲観的なことは考えず、夢だということにしよう。
 何だか、現実逃避もはなはだしい気がするけどね!
 とりあえず、シーツを跳ね上げ、レースのカーテンをめくって、ベッドから降りた。
 床は毛足の長い絨毯。掃除が大変そうだと思うのだけれど、床には塵一つ落ちていない。家具も整然と並んでいて、その調度品たるや一目見て高級品とわかる。
 召使いとか沢山いて、掃除もこまめにされているのでしょうね。
 全体像は見ていないからわからないけれど、この部屋までの廊下の長さといい、かなり広いお屋敷みたい。
 大きめの窓には――フランス窓って言うんだっけ? 窓の向こうにはバルコニーがある――ドレープたっぷりのカーテン。それは開け放たれて朝の光を部屋いっぱいに取り込んでいた。その光が天蓋のレースを透かして、私を目覚めさせたのだろう。
 誰がカーテンを開けたのかしら?
 私は疑問に思いつつ、明るくなった室内を改めて冷静に観察してみる。
 昨日はもう、とにかく寝ようと思って、灯りはすぐに消したから。
 ベッドは窓辺から少し離れた所に置かれていた。他の三方向には、別の部屋に通じるドアがある。
 壁には小さな花模様を散らした明るい色の壁紙が貼ってある。
 室内を飾っている小物も、淡いピンク系で統一されているところから見れば、ここは最初から女の子用に整えられた部屋だと推測できた。
 客室ってわけじゃないのかしら?
 首を捻る私の鼻先をかすめる匂いがあった。何かしらと思えば、花瓶に飾られた赤い薔薇の香りが室内を満たしていた。
 その優雅な香りは朝の少し冴えた空気と共に、私の肺に入ってくる。
 眠気が残っていた頭が呼吸と共に巡る血液で、明瞭になっていけば、少しずつ、夢だと自分に言い聞かせるのが困難になってきた。
 感覚がリアルなの。
 匂いを嗅いでいる。空気の冷たさ、身体の熱、そういったものがハッキリと肌に感じる。
 夢って、ここまで感覚があるものかしら?
 私が今までに見た夢は、何だか目が覚めたら笑っちゃうような設定ばかりで――その点、私がお姫さまだっていう今の設定も笑えるけれど――だけど、感覚というものがなかった気がする。
 裸足の裏に感じる絨毯の感触とか――。
 私はベッドの足元に添えられた室内履きの靴を見つけて、履いた。
 キョロキョロと視線を動かせば、ベッドの脇にあるサイドテーブルに洗面器が置かれていた。
 これで顔を洗えってことよね?
 うーん、召使いのような人が用意してくれたのかしら? カーテンを開けたのも、その人?
 考えられそうなことだけれど、ちょっと人が眠っている間に部屋に入られたかと思うと、嫌な感じ。
 それとも、妖精や小人さんとか?
 まさかね、夢なら何でもありだと思うけど。
 それにしても私、こんなにメルヘン趣味だった?
 少女向けのファンタジー小説を読む方だけれど、割と現実主義で、お話はお話と割り切って読んでいた方よ。
 妖精や小人なんて単語を持ち出すこと自体、かなり混乱しているかも。
 私は自分自身を客観的に分析して、ため息をついた。
 とりあえず、洗面器に張られた水で顔を洗う。
 夢なら覚めてと思うけど、めない。
 冷たい水の感触、用意されていたタオルの柔らかさといった感覚の一つ一つが、やっぱり夢だと思いたい私の意識に違和感を積み重ねていく。
 思わず、自分の頬を摘んで捻ってみた。
「――痛いっ!」
 力を入れ過ぎちゃって、声を上げた。
「何をやっているんだよ、お前は」
 後ろから呆れたような声が響いて振り返れば、右隣の部屋に通じるらしいドアが開いていた。そこには、鍛え上げた腹筋をこれ見よがしに見せつけんと上半身裸の魔王男が立っていた。
「アンタこそ、何やってんのよっ!」
 思わず悲鳴を上げた。
 幾ら大人っぽい顔立ちをしていると言っても、私はまだ十六歳よ。
 男の裸なんて、見慣れてはいない――男兄弟がいる女の子は、割とそういうのは平気らしいけど、私には免疫めんえきがないから驚かされる。
 テレビで見るのとはわけが違うから、心臓に悪い。
「――何だ?」
 魔王男は漆黒の髪をかき上げながら、不機嫌そうな顔で私を睨む。
「朝から元気だね、ローズ」
 殺気立った空間にのんびりとした声が割り込んできた。そちらを肩越しに振り返れば、左隣の部屋に通じるらしいドアを開けて、金髪王子が顔を覗かせている。
 少し長めの金髪の、毛先の跳ね具合といい、寝巻の上に纏ったガウンといい、起き抜けなのは見え見えだ。
 私はハッとなって、金髪王子の元に駆け寄った。
「どうしたの?」と、不思議そうに睫毛を瞬かせる金髪王子の脇から、左隣の部屋を覗き込む。
 そこには白で揃えた家具が並んだ寝室があった。中央に置かれた大きなベッドには、人が寝ていた形跡がある。昨晩、この部屋で金髪王子は眠ったのだろう。
 ――ってことは、もしや!
 私は踵を返して反対側へと走った。
 ドア口に立ちふさがる魔王男を押しのけて部屋を覗けば、こちらは黒を基調とした家具で整えられた寝室があった。
 こっちのベッドにも、あちらの部屋と同じく、寝ていた形跡が残っている。考えるまでもなく、この部屋で魔王男は眠ったのだろう。
「――ちょっ! ちょっと、これ、どういうこと?」
 私は金髪王子に問いかける。魔王男は無視。だって、どう考えても魔王男とは会話にならなさそうだもの。
「おはよう、ローズ。今日も可愛いね」
 この人、頭は弱い方かしら? ――もとい、朝は弱い方?
 訝しげに見つめる私の前で、金髪王子は小首を傾げるように笑う。
「でもきっと。笑った顔の方が可愛いよ」
「余計なお世話よ。それより、この部屋の造りはどうなっているの? 何で、アンタ達の寝室と繋がっているのよ」
 ドアにかぎが掛かるのかもしれないけれど、私の部屋の方から鍵を掛けなければ、金髪王子や魔王男はこの部屋に出入り自由だってことになる。
 金髪王子たちにその気はないと言われても。
 自意識過剰だって言われても。
 気になるわっ! だって、寝顔を覗かれたかもしれないのよ? これって、女の子にしてみれば由々しき事態でしょ?
 もしかして、カーテンを開けたのも洗面器を用意したのも、この二人のうちのどちらかだったりするの?
 思わず自分の肩を抱く。白いネグリジェが途端に頼りなく感じた。
 そんな私の不安をどこまで察しているのかわからないけれど、金髪王子は柔らかな声でとんでもないことを言ってくれた。
「だって僕たちは、君の夫だから」
「――はい?」
 今、おかしな単語を耳にした気がするのだけど。
 …………えーと、今。何と仰いまして?
 我が耳を疑い硬直する私に近づいてきた金髪王子が、ゆっくりと囁いた。
「いつでもねやで夜伽の相手ができるように、近くにいた方が、都合がいいでしょう?」
「何のっ?」
 私はまたしても、悲鳴を上げていた。
 何なの? 一体、何の話?
 いえ、意味はわかりそうな気もするけれど、理解するのを私の頭は拒否する。
 あのね、顔は派手系で遊んでいそうに見えるかもしれないけれど、私はいたって普通の女子高生なのっ!
 大体、「僕たち」って、何よ?
 それって、金髪王子一人じゃなく、魔王男も含まれるわけ?
 夫って、一人で十分でしょ?
 目を剥く私の頬を金髪王子の手のひらが包む。
 あ、昨日感じたように、手のひらは硬い。
 これはあれかしら、剣を握るから?
 優雅に見える人だけれど、割と剣の稽古とか真面目にやっている方なのかもしれない。
 ぼんやりと思う頭は既に、金髪王子が腰にしていた剣を本物だと感じ始めている。
 作りものじゃないとすれば――剣を持って外を出歩けるはずがない。そんなことをすれば、銃刀法違反で捕まる。なのに、平然と腰に携えていた……。
 じんわりと染みてくる、これは夢じゃないという嫌な予感。
 嘘よ、認めたくない。
 それなのに、金髪王子は私に決定的な事実を突きつけようとしていた。




前へ  目次へ  次へ