目次へ  トップへ  本棚へ


 6,焦がれる想い


 ブランシュとヴェール。
「星」となったローズ・エトワール・ルージュの騎士として選ばれた二人にとって、「ローズ」がどんな存在なのか、さっきまではわからなかった。
「星」と「太陽」と「月」という、その関係によって結婚させられた形だけの夫婦――というには、ブランシュの青い瞳の奥に見え隠れする静かな怒りが説明つかない。
 多分、ブランシュはローズに呪いをかけた人間に怒っている。
 怒りという感情を表だって見せないけれど――朝食時に、ヴェールに対しても眩しいくらいの笑顔で怒っていたことを思い出せば――他人に覚らせるくらいには、この人の中にはちゃんと生きた感情がある。
 そして、そこにあるのは「ローズ」に対する――想い。
 こちらの世界で目覚めた昨日、ヴェールが私を見つめて翡翠色の瞳を一瞬、哀しげに瞬かせ、「ローズ」を求めていたように。
 ブランシュも「ローズ」を想っている。
 同じ怒りは、壁に叩きつけた拳が語るようにヴェールにもある。
 二人にとって、「ローズ」は簡単に切り捨てられない相手なのだと、認識させられた。
 ヒリッと胸の奥が、焼ける。
 それは強く想われているローズに対しての嫉妬か、それとも私がローズではないことへの罪悪感か。
 よくわからないけれど、ジリジリと焦げ付くような熱を感じるの。
 私は焼けつくような痛みを感じた左胸に手をあてた。その下には丁度、薔薇の花の形をした痣がある。
 もしかしたら、この痣は「ローズ」と関係あるのかしら?
 確認すべきかどうか迷って、私は唇を結んだ。
 もう戻れないことを予感しながら、私はまだ、この世界を夢だと思いたいらしい。
 第一に、あちらの世界では「薔薇」をローズと訳すけれど、こちらでも同じというのはどういうことだろう?
 あちらの世界すべてが、誰かによって作られた虚構?
 人を子供へと戻してしまう魔法があるのなら、記憶を書き換える魔法も実在するのかもしれない。
 制服を作ってまで、私にあちらの世界を印象付ける必要があるのかと問われれば、疑問だけれど。
 今の私は、夢だと思いたいのに、こちらの世界を夢だと否定する気概きがいも失くしつつある。
 確かだと思っていた十六年の方が夢だと、嘘だとしたら――私……どうしたらいい?
 心が不安に揺れて、泣きそうになる。もう少し強い女かと思っていたけれど、今の私はちょっと情緒不安定だ。
 いきなり、女王だって言われても、困るのよ。
 途方に暮れて俯く私に、ブランシュの「ごめんね」という声が降って来た。
 柔らかく、私を労わるような声音に顔を上げると、彼は椅子から立ち上がって私の傍に寄っていた。白い手袋に包んだ手のひらで、慰めるように私の頭を撫でる。
 この人は、あっさりと私が敷いた境界線を越えて来る。
 そうして、私は何故かこの人が触れてくることを許してしまう。
 どうして?
 真っ直ぐに青い目を見上げると、彼は床に片膝をついて、私と視線を合わせて来た。
 さっきまでの静かな怒りは消え失せ、その澄んだ青は波紋一つない湖のように、私の姿を反射させていた。
「まだ、君をこちらに連れ帰る予定ではなかったんだ。君が帰って来るまでには、全てに片をつけておきたかったのだけれど、それが出来ていなかったから。……でも、君を僕たちの手の届かないところに置いておくのも、限界だった。どうやら、奴らに君の場所がわかってしまったみたいでね」
「――え?」
「君がこちらに帰ってくることになったのは、誰かが君を再び、あやめようとしたからなんだよ」
 ブランシュの言葉に、私はこちらに突っ込んで来た車の残像を、脳裏にフラッシュバックさせた。
 道路に溜まった雨水をまき散らして、蛇行する車。ハンドルを必死に切る運転手の驚く顔が雨にぬれたフロントガラス越しにハッキリと見えた。
 あれは私が目の前にいることに驚いたんじゃなく、ハンドルがコントロール利かなくて、驚いたのだろうか?
「事故じゃなかったの……?」
 私は自分の肩を抱いた。身体が無意識に震えそうになっていた。
 まだ自分がローズだとは思わない。
 けれど、万が一にローズだったとしたら、私は過去に殺されかけたことになる。
 その事実が、ブランシュの瞳を凍らせ、ヴェールが壁に拳を叩きつけた。
 彼らにとって大事な「ローズ」を殺そうとした――その相手は誰?
「片をつけておきたかった」とブランシュが言うからには、その犯人はまだ捕まっていない。「誰かが」というのも、その犯人が判明していないことを暗に告げていた。
 正体不明の犯人は、今度は、私を「ローズ」として、殺そうとしてきた。
「君の危機的状況に対して、魔力を関知した場合、こちらの世界へ連れ戻す魔法が発動するように、僕とヴェールが君の持ち物に細工していた」
「持ち物?」
「君が手にするもの――財布、手鏡、時計、鞄などにね」
 それ、どこから入手したの?
 目を見開く私に、くすりとブランシュは笑った。
 微かな笑い声がちょっとだけ、部屋の空気を和ませた。何となくだけど、計算してわざと声を出したんじゃないかしら?
 肩を抱いた手をおろして、膝に置いた。
「財布も時計も――父から貰ったの。誕生日プレゼントだって。鞄や手鏡は母から。ねぇ、それって……」
 ローズが巻き戻しの魔法とやらで、赤ん坊に返ったのなら、私の両親は……つまり。
「――ヴェール、彼らをここへ連れておいで」
 ブランシュが顔を上げて、壁際に佇むヴェールに視線を投げた。
 ヴェールは一瞬私を見、表現しがたい表情を浮かべると、マントの裾を翻して部屋を出て行った。
 何だか、目を離せずにドアの向こうに消える背中を見送った。
「……あの人、私が嫌いなの?」
 去り際に私を見つめた翡翠の瞳は、ただそこにいる私を確認しているようにも見えたし、哀しげにも見えた。
 そして、「どうして、ここにいるのがお前なんだ」って、怒っているようにも感じた。
 ブランシュは私を「ローズ」だと確信している風だけど、ヴェールは疑っているみたいだ。
 今の私としては、ヴェールの直感を応援したいけれど、人違いで放り出された後を考えると、途端に声が出なくなる。
「ヴェールは、ローズが大好きだよ」
 声に振り返れば、ブランシュは穏やかに笑って付け加えた。
「勿論、僕もローズを愛しているよ」
 甘く囁く声に、情緒不安定な私は揺さぶられる。熱を持つ頬を自覚して、私は我に返り声を鋭く響かせた。
「それはローズであって、私ではないでしょ?」
 放り出されるのも困るけど、女王や二人の騎士の妻になるっていうのも、困るわ。
 慌てて自分を取り戻す。
 心持ち強気になると、今のもブランシュの計算のように思えた。
 たった一言で、私の中にあった不安は強気にとってかわった。金髪王子は抜け目がない。
 冷静になって、考える。ローズとしての記憶を持っていない私は、本当にローズと呼べる存在なのかしら?
 例え、肉体や他のものすべてが私を「ローズ」だと証明しても、ヴェールは私を疑う。
 確実に失われたものがあるのだ。
「ローズ」の中から、ブランシュやヴェールに対する記憶、想いが消えてしまっている事実は揺るがせない。
 二人が知っていた「ローズ」は二人の騎士のことをどう思っていたのだろう?
「君はローズさ」
 私の思考を見透かすように、ブランシュは口を開いて、かたくなに譲らなかった。
「ローズ」に忘れ去られても平気なのかしら? ――そう、首を傾げるにいたって、ヴェールの哀しげな瞳の理由がわかった気がした。
「ヴェールは、「ローズ」に忘れられたことが哀しいのね?」
 確認するように問えば、ブランシュは静かに微笑む。
 この人は、何だかヴェールのお兄さんみたい。
 魔王男という外見の雰囲気とは別に、ヴェールの子供っぽい性格は末っ子気質。
 ブランシュの方が、年齢が上だって言うのもあるかしら? どことなく、二人からは兄弟のような雰囲気を感じる。
 兄に頭が上がらない弟と、面倒見いいお兄さん。仲は悪くないんだろう。
 でなければ、「ローズ」を同じくらい想って、夫という立場を分かち合っていられないでしょ。
 でも、女の立場から言わせてもらえば、逆ハーレムもいいけれど、誰にも譲らないってくらいに一途に愛してほしいような……。
「そうだね。ヴェールはローズが呪いを受けてしまったのは、自分のせいだと思っているから……」
「そうなの?」
「どうかな。確かに、ヴェールは呪いが掛けられた品を不用意に、ローズに渡してしまった。でも、多分、僕だってあの場面では同じことをしていたと思う」
 ブランシュのいうあの場面というのは、わからないけれど。
 彼が言うように、誰でもするような行動だったのだろう。それを難なく行わせてしまう品物に呪いが掛けられていた。
 私の身に付ける物に魔法が施されていたという事実が本当なら、呪いの品も同様だったのかもしれない。
「第一に、ローズを守れなかった時点で、僕もヴェールと同罪だ」
「そんな、仕方がなかったことでしょう?」
 記憶のない私が言ったところで、慰めにもならないだろう。でも、ブランシュの強く握った拳を見れば、自分を責めないで欲しいと強く思うのよ。
「仕方がなかったと割り切るより、役立たずと責めて欲しいよ、ローズ」
 ブランシュは青い瞳に長い睫毛の影を落とし、苦々しくこぼす。多分、ヴェールもそう思っているのね。
 私に――いいえ、「ローズ」に責めて貰いたかったんだわ。だけど、「ローズ」は記憶を失くしていた。
 自分の罪を清算できないまま、やり場のない「ローズ」への想いを抱えて、どうしようもなくて、翡翠の瞳は哀しげに揺れていた。
 同じ想いはブランシュの声にもあらわれていた。
「そうすれば、僕は今度こそ、命を掛けて誓う。君をすべての災厄から守る――と」
 真摯しんしな声で誓いを口にすると、ブランシュの手が私の手を取って、甲に口づけを落とした。
 肌に触れる柔らかな熱に、また、ジリッと胸の奥が焼ける。
 その誓いは「ローズ」にあてられたもので、私に対するものじゃない。
 どうして、ここに二人が求める「ローズ」はいないのだろう?
 私は胸の奥の痛みに、静かに唇を噛んだ。




前へ  目次へ  次へ