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 18,壁の外


 一時間ぐらい走っていただろうか。
 カタンと大きな音を立てて、不意に馬車が止まった。揺れに押されるように私の身体が座席から離れる。前のめりに転びそうになったところを、後ろから腰を抱えられた。
 気がつけば、ヴェールの膝の上に乗るようにして、私は彼の腕に抱かれていた。
 顔を上げると、間近にはナイフのような鋭さを感じさせる――それでいて、端正な美貌。顔立ちだけなら、金髪王子と負けず劣らずの綺麗さだ。
 漆黒の前髪の間から翡翠の瞳で、私を覗く。
「――大丈夫か?」
 そっと問う声に、私は無言で頷く。
 魔王っぽい雰囲気を宿していないヴェールには、私の心臓も乙女のようにときめいてしまう。
 翡翠の瞳が心配そうに見つめるから、自分が一人の女の子になったような気がしたの。さっきまでは、ヴェールのことを魔王だとか言って、男として意識していなかったけれど。
 ……この人も、騎士だ。女王の夫となる「月」の騎士。
 もしかしたら、結婚するかもしれない相手。
 そのことを思い出すと、私の腰に回されたヴェールの手が……急に恥ずかしくなった。鍛え上げられた彼の胸板に、自分の手が触れていることも。
「……あ、ありがとう」
 礼を口にすれば、ヴェールの頬に赤みがさした。
「別に――大したことじゃない」
 早口にまくしたて、ヴェールは唇を結んだ。何だか、笑うのを堪えるかのように、唇の端に力を込めて、真一文字に。
 照れているのかしら?
 そういえば、ヴェールもローズが好きだったのよね。
 今の私をローズだと認めてくれたけれど。まだ、前と同じ感情を抱いていいのかと迷うような距離をヴェールには感じていた。
 でも、鼓動が聞こえるような距離に実際に近づいてみると、……やだ、どうしよう。私の方が意識してしまっているわ。
 無理矢理、翡翠の瞳から視線を引き剥がす。この場の雰囲気から逃れるように、ブランシュに目を向ければ、青色の瞳は春空のような穏やかな視線で、私を見つめていた。
 ……あ。
 一瞬、喉から声が出そうになった。けれど、それを言葉にする前に、何を言おうとしていたのか、自分でもわからなくなった。
 何か、とても大事なことに気がついて、それを口にしようとした気がするんだけど。
 ――何だったのかしら?
 目を瞬かせて、それが何だったのか思い出そうとする私に向かって、ブランシュが言った。
「ローズ、これから暫くは外を見ていて」
「外?」
 小首を傾げると、ブランシュは私を促すように窓の外へ目を向けた。
 私はヴェールの腕から抜け出して、さっきまでの定位置に戻る。窓の外へと目を向けると、馬車は城下町を取り囲む塀の前に止まっていた。恐らくこの先に、門のようなものがあって通行する馬車をチェックしているのかもしれない。
 女王が住まう城、城下町と、区別するように高い塀が築かれ、出入り口が限定されていた。これって、防衛のためとか?
 やがて馬車が動き出す。
 塀を越えるとき、馬車が走っている地面が石畳から木の橋のようなものに変わったのが、車輪の音でわかった。石ではなく砂地を転がっていく。
 馬の蹄鉄ていてつが砂を蹴る音が暫く続くと、塀がかなり後方に見えて、その全容が私の視界に入って来る。
 まるで、全てを拒絶するように立ち上がった絶壁。
 ――冷たい。
 何を根拠にそんなことを思うのか、自分でもわからない。さっきから、こんなことばっかり。でも、そう感じた。
 ――酷く冷たい。哀しい。
 私は冷たく聳え立った市街を区切る壁を見やる。それから、辺りに目をやった。
 壁に区切られた外――今は私たちがいるこちら側は――舗装もなされていない荒れた道が続いている。馬車の揺れが激しくなる。酔いそう。
 周りは田畑であるからか、家々がまばらで、城下町に見た光景とは一転してのどかな田舎風景。
 白い画用紙に青色の水彩絵の具を溶かしたような、淡く透明な空。煙のように薄い白雲。遥か彼方に見える深緑の稜線りょうせん。手前に広がるは黄金絨毯。
 季節は収穫期なのかしら? 金色の稲穂が風に揺れている。そんな金色の波間を稲刈りに精を出しているらしい人々が、あちらでぽつり、こちらでぽつりと見える。
 くたびれた感じのシャツに、ズボン。日に焼けて黒くなった麦わら帽子を被って、身体を九十度に折り曲げ、稲を刈る人が私たちを乗せた馬車に気づいて、顔を上げる。
 通り過ぎる瞬間、私はその人の顔を見て、胸がざわめいた。
 視力は結構良い方だ。だから、見間違いだとは思わない。
 ――何、今の……。
 私は動揺する胸に手を当てて、いましがた見た人の表情を反芻した。
 麦わら帽子のつばの影に隠れていたのは、痩せた顔。感情という感情を削ぎ落とし、疲弊ひへい感を漂わせ、暗く沈んだ瞳。
 たわわに実った収穫に喜んでいる感じは全くなく、ただ自分の仕事を黙々とこなしていると言った感じの、無感動な眼だった。
 その目は、私たちの馬車を見る際も、ただ暗く――どうでもよいと言いたげだった。
 まるでガラス越しに、違う世界を見ているかのよう。
 私たちが乗っている豪奢な箱馬車は、城下町ですれ違ったどんな馬車よりも豪華だった。二人の護衛を付き従えている時点で、街角にいた人たちの好奇の目をいた。
 黒塗りの高級車が車道を走っていれば、普通は何事かと思うじゃない? 救急車が走ってくれば、目を向けるでしょ?
 注目させるだけの存在であるのに、あの農家の人の目にあったのは、興味という感情すら失くした――虚無。
「……ブランシュ」
 私は呻くように、「太陽」の騎士の名を口にした。
 ブランシュが私に見せたかったのは、今の瞳なのかと、視線で問いかけた。
 ちらりとこちらを振り返った静かな青は、私を無言で映して、再び窓の外へ向かう。
 黙って、外を見ていろということ?
 私はブランシュに従って、窓の外を眺める。
 車輪が小石を踏んで、ガタゴトと左右に揺れる。数頭の馬が地を駆ける音以外は、音らしい音がしない。
 ヴェールもグリシーヌも、呼吸をすることすら遠慮するかのように、息をひそめている。
 でも、私の耳には自分の血流がどくどくと鳴り響いていた。胸の奥では心臓が、いきなり大舞台に引っ張り出されたかのように、緊張でバクバク言っていた。
 目に映る光景の違和感が、じっとりと胃に染みてくる。それは冷たい氷の塊のようにも感じる。キュッと、胃が縮む。
 ……寂しい。
 私の目に映る景色に感じたものは、荒涼とした寂しさだった。
 どれだけ馬車に揺られていたのか、わからない。
 長く続いた田園風景が――そこで見かけた人たちは皆、最初に見た人と同じように疲れ病んだような虚無感を漂わせていた――やがて途切れ、家々が目立ち始めたけれど、そのどれもが寂れた印象を拭えなかった。
 薄い木板を張り合わせたかのような、家。小屋のようにも見えなくない。柱が傾いているのが、微妙に家が歪んでいる。
 荒れた庭先、路上に放置された荷車は壊れていた。ぼうぼうと生え、枯れた草木がより一層、切なさを募らせた。
 ――寂しい。切ない。
 何で、こんなことを思うのかと気づけば、城下町で見た華やかさがここには欠片にも存在していないからだ。
 セピアの光景。彩りというものが、失われている。
 空は青いのに、雲は白いのに――頭上を見上げる意識が働かず空は遠い。
 視線は地面を這いまわり、道の脇に生えている木々が落葉樹のせいか、見渡す視界は秋色に枯れていた。
 乾いた色彩は寂寥せきりょう感で胸を一杯にして、私の感情を冷たく痺れさせる。
 ――何?
 城下町とは一転した目の前の光景に、私は息を呑んだ。
 ――ここは本当に、同じ国の中?




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