30,黒い影 ぼんやりとした意識の向こうで、人影が見える。心配そうにこちらを覗きこむ面差しに、私は呟く。 「……お母さん」 菫色の瞳は少しだけ困ったように、細められた。 次第に明確になっていく意識が、彼女をもうお母さんと呼んではいけないことを思い出させた。 私は、ローズ。ヴィエルジュ国の女王だ。 半信半疑だった事実も、薔薇の魔法を発動させたことで納得した。私が間違いなく、ローズ・エトワール・ルージュなのだということを。 「……グリシーヌ」 私は目の前にいる人の本来の名前を口にする。 すると緊張に結ばれていた桜色の唇が、ホッとしたように綻ぶ。 「――ローズ様、お加減は如何ですか?」 頬に掛った髪を指先で避けながら、菫色の瞳が近づいた。 優しい声音がまどろむ私の 心配して貰っているけれど、単に魔力を使い過ぎて眠くなっただけ。それだけだから、申し訳なくて。でも、嬉しい。 ゆっくりと身体を越せば、私が眠っているのは王宮の寝室だった。 部屋の左右の壁には二人の騎士の寝室へと繋がるドアがある――あの寝室だ。 天蓋付きのベッドの端からグリシーヌが心配そうにこちらを見つめている。 「大丈夫よ。私、どれぐらい眠っていたの?」 問いかけると、グリシーヌは二日と答えた。 ええっ? そんなに眠っていたの? それじゃあ、心配されてもしょうがないわね。それにしても、魔法に使い慣れていないってだけで、こんなに睡魔に襲われるだなんて。 早く、魔法に慣れなくっちゃ。 そうじゃなきゃ国を守るなんて、夢のまた夢。議会にどんな難癖をつけられるか、わかったものじゃないわ。 私はグリシーヌの方に身を乗り出しながら尋ねる。 「グリシーヌは無事だった?」 孤児院での襲撃に、私は結局、グリシーヌの安否を確認できていなかった。どこか、怪我をしていないかと目を凝らせば、 「はい、アメティストが庇ってくれましたから」 グリシーヌの瞳が揺れて、背後を振り返った。 レースのカーテンを僅かに持ち上げると、グリシーヌの肩越しに人影が見える。 黒い騎士服を着たその人影は、最初ヴェールかと思ったけれど、アメティストだった。 紫色の瞳が無感動に私を見つめる。 その瞳の冷たさに、私の背筋はゾクリと震えた。 「お寒いのですか? もう少しお眠りになりますか? 私とアメティストがお傍についていますから、安心してお休み下さい」 グリシーヌが肩を震わせた私を目に止めて言った。 私は反射的に首を振った。 「ううん……起きるわ。着替えは……ブランシュたちはどこ?」 不安に声が震えそうになる。 まさかと思うけれど……そんなこと、信じたくないのだけれど。 冷たい紫色の瞳を見て、ある可能性に私は気づいてしまった。そのことについて、二人に相談したいと私の首は巡り、この部屋にいないブランシュとヴェールの姿を探す。 「ブランシュ様とヴェール様は、議事堂にお出でになっています。定例議会に参加されているのです」 議事堂は王城の一角にある。同じ敷地内に二人がいることにホッとしながら、ローズを敵視する議員たちが集まっている事実に、再び背筋が震えた。 ……昨日――正確には、一昨日か――みたいなことはないはずだけれど。 一昨日の襲撃は、孤児院の老朽化を逆手にとって事故に見せかけようとしたんじゃないかと思う。 孤児院が郊外にあったから、邪魔は入らない。警察と裏で契約をしていたら、それこそ事故と処理することは簡単だろう。私を含めた皆を 幾らなんでも、議会が堂々とローズを殺せるはずがない。だから、呪いを仕掛けたわけだし、地球で事故を装って私を殺そうとした。一昨日のそれも、同じ。 衆人環視の王宮で直接的な実力行使はできない……少なくとも、人の目があるところでは。 呪いにさえ気をつけていれば、大丈夫。 それに私は、もう魔法の使い方を知っている。自分の身は自分で守れる武器をちゃんと持っているから、恐れることなんて何もない。 そう自分に言い聞かせて、グリシーヌに問う。 「制服は……」 「はい、お持ちしますね」 グリシーヌが傍らに用意していた制服を取ると、踵を返して持ってきた。それを受け取る私の耳にアメティストの抑揚のない声が響いた。 「陛下がお目覚めになられたことを、団長にご報告して参ります」 事務的な言葉に感情が挟まれる隙はない。だから、冷ややかに響いたところで、違和感を覚える必要なんてないはずなのに、私の心はビクリと震える。 部屋を出るアメティストを目で追って、私はグリシーヌの手から制服を奪った。 身につけていた白いネグリジェを脱ぎ棄て、ブラウスを着て、スカートを穿いた。 スカートの下には短いスパッツは忘れずに! ネクタイを留めて――ネクタイと言っても、ボタンで着脱できるタイプなの――ジャケットと、速攻で着替える。 黒のハイソックスを履いて、ベッドから飛び降り、革靴に足を突っ込む。 サイドテーブルの上に用意された洗面器で手早く顔を洗い、タオルを放り投げて廊下へと通じるドアに飛びつく。 「ローズ様っ?」 慌てたようなグリシーヌの声を背中に聞いて、 「私は大丈夫。それより朝ごはんの用意をしていて!」 グリシーヌが後を追ってこないように用事を言いつけて、部屋を飛び出しながら、手ぐしで髪を整えた。 廊下に出ると、アメティストの姿はまだ遠くないところにいた。床を蹴って走る。 「待って」 数メートルに近づいたところで声を掛ければ、アメティストは立ち止って私を振り返った。駆け足から歩きに変えて、慎重に距離を縮めながら、紫色の瞳を見た。 グリシーヌより色が濃い紫色の瞳は私の姿をガラスに映しているかのようだった。 鏡ではない――ガラスだ。透けて見える虚像。 アメティストは、口では「陛下」と敬いながら、私を女王として見ていない。 この人の目は私を映していない。 「――貴方がローズを殺そうとしたの?」 それでも、私の言葉はアメティストに驚愕を与えたらしい。瞳の焦点が絞られ、虹彩が私の姿を生身として映した。 「何をいきなり……」 「アメティストは私が嫌いでしょ?」 問い質した言葉に、精悍な顔立ちが歪むのを、私は黙って見上げた。 長い沈黙を置いて、私とアメティストは見つめ合う。そこにあるのは無言の攻防。 「…………嫌いです」 やがて根負けしたように、アメティストが言った。すると、枷が外れたようにローズへの恨み言葉が口を割って出てきた。 「嫌いですよ、大っ嫌いだ。アンタが姉をこんなところに呼ぶから、姉さんがどんな苦労をしたか知っていますか?」 「――えっ?」 激情に駆られる言葉は、やがて丁寧な物言いをかなぐり捨てた。 「アンタは――お前は、曲がりなりにも貴族の血を継いでいた。女王候補として選ばれた人間だから、受け入れられたかもしれない。でも、姉さんは孤児だ。後ろ盾も何もないまま、こんな王宮に迎えられて、平々凡々と過ごせると思っていたのか?」 目を見開く私に、アメティストが言葉の牙を剥く。 瞳に宿るは怒りの炎。それは私を焼き尽くさんとしていた。 |