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 36,悲しみの青


「子供たちを……人質にするの?」
 (あえ)ぐ私を議長は冷笑で見下ろす。それが答えだ。
 私を掌握できる参段があったから、さっきみたいな派手なこともできた。
 今の騒動に人が集まってきたとしても、議長は困らない。だって、子供たちを人質にすることで、私を操れることをこの人は知っていた。
 口裏を合わせるのが造作もないことを――。
 議長は、自分以外の人間の価値なんて、大して興味はない。
 きっと、同じ貴族でさえも自分より下なら平然と踏みつけるのよ。
 議長にとって、自分より上の人間なんて要らないんだわ。
 女王も、駒の一つでしかない。その駒を動かすために、別の駒を用意する。
 孤児院の子供たちは私を動かすための人質だ。その人質が駒としての役割を果たさなければ、議長はきっと簡単に私もろとも子供たちを捨てるだろう。
 孤児院襲撃後の顛末(てんまつ)を私は知らない。ただ、ブランシュと副議長が密会の場で子供たちのことを言っていた。

『――子供たちの身柄は、そのままローズに対する人質になります』

 ブランシュの声が耳元に蘇る。
 つまり、何? ブランシュは副議長だけじゃなく、議長とも繋がっていたの?
 ブランシュが副議長と仲が悪そうに見せかけたのは、議長の目をくらます為かと思ったけれど……騙されていたのは、私?

『この餌をつるせば、きっと話に乗って来る。何故なら、もうあちらには手立てがないのだから』

 子供たちのことを出されたら、私は議長の申し出を拒否できない。
 だって、あの子たちはローズにとって家族なのよっ?
 あの子たちを見殺しにはできないし、助けようにも私には誰も味方なんていない。
 ブランシュの言葉通り、私には抵抗する手立ても思いつかない。
 議長とブランシュが敵対していたら、まだ私には逃げ道があった。
 けれど、その一縷(いちる)の望みも絶たれてしまった。
「私を拒みたければ拒めばいい」
 議長の手が伸びて来て、私の制服の胸倉を掴んだ。私を引き起こしながら、靴は倒れたアメティストを踏みつけた。
「どうします? ――女王? お優しい貴女は、ご自身を裏切ったこの者も助けたいと望むのでは?」
「――オレはっ」
 アメティストが議長の靴の下から這い出ようとしたけれど、片足に踏み込まれた圧力が彼を床に()い付ける。
 クッと息苦しさに呻くような声がアメティストの唇から洩れた。
「――や……」
 止めて、と。
 制止しようと口を開けば、声を遮るようにアメティストが叫ぶ。
「ローズっ! オレのことに構うなっ! オレはお前に助けてもらう筋合いはないっ!」
 確かにローズは、アメティストに裏切られたけれどっ!
 でも私は、議長から庇って貰ったわ。
 それにアメティストに何かあったら、グリシーヌが悲しむのよ。
 グリシーヌが私の味方かどうかはわからない。けれど、十六年間、私を育ててくれたのはグリシーヌとディアマンであることは揺るがないの。
 裏切られているとしても、私はもう、その事実からは逃げない。
 ちゃんと真正面から向かい合って、本音を問うから。
 彼女から目を逸らさずにいられるように、私はアメティストを守るわよ。それが今、私にできることでしょ?
「お前の意見など聞いていない。ねぇ、女王。私は貴女のさえずる声が聞きたい」
 アメティストを冷ややかに睥睨(へいげい)して、議長の声が笑う。
 議長の企みについては、今後考える。むざむざ、言いなりにはならない。けれど、今この段階で子供たちやアメティストを危険に晒すことはできない。
「――私は……」
「ローズっ! 本当に、子供たちはこいつの手の中に在るのかっ?」
 再び、私の言葉を遮って、アメティストが叫ぶ。瞬間、議長の靴底がアメティストの背中を蹴った。
 鈍い音が響いて、アメティストがしわがれた声を上げる。苦痛に染みた声の合間に、荒い息が漏れる。骨が折れているのかもしれない。
 折れた骨が内臓を傷つけてなければいいけど……と、私は心の中で祈った。
 議長に歯向かうような無謀に走らないように、彼の動きを制限したのは失敗だった。苦い思いが私の中に満ちてくる。
「黙れと言っているだろうっ! 愚民が、知ったような口を利く。ちゃんと、私の手の中に在るさ。副議長が騎士たちを出し抜いて、保護してくれていますよ」
 ひたりと朱色の目が私を覗く。
 絶望の深淵に覗く――朱。火山の火口を覗くとこんな感じかしら?
 まだ落ちてはいないのに、もう身体が燃えるように熱い。灰になってしまいそうな、錯覚。
 恐怖に震える私に、議長は唇の端を引き上げた。
「大事なお客人ですからね、丁重に扱うよう副議長には事づけてあります。さあ、もう何も憂うことはないでしょう、女王陛下。貴女のその可愛らしい声でさえずってください」
「――私は何をすればいいの?」
 そっと、議長に問う。
 私はまだ議長に屈したつもりはない。これは単なる時間稼ぎでしかない。
 そう自分に言い聞かせるけれど、声に出すと何だか負けてしまったような気がした。
 悔しくて、ジワリと目尻に熱いものがこみ上げて来た。
 私の喉から嗚咽が響いた瞬間――、

「いつまでも汚い手で、俺たちのローズに触ってんじゃねぇっ!」

 鼓膜を突き破らんばかりの大音声(だいおんじょう)が響いて、私の身体がふわりと浮きあがる。
 何事かと身を竦めれば、魔王と化したヴェールが憤怒(ふんぬ)の形相で、私の胸倉を掴んでいる議長の腕を蹴りあげていた。
 蹴りあげられるままに議長の腕は私を吊り上げ、そして骨が砕ける鈍い音に悲鳴が混じる。解けた指先が私を突き放す。
 床へ転ぶ寸前で、ヴェールの黒い腕が私を抱きとめた。
「大丈夫かっ!」
 翡翠の瞳が切羽詰った様子で私を覗きこみ、指が私の赤く腫れた頬に触れようとする。
 その手を条件反射で寸止めした。だって、触られたら痛いじゃないっ!
 っていうか、ちょっと、ヴェールっ? ――アンタ、どこからっ!
 突然の出来事に、私の目から涙は消え失せた。声にならない声で、口を動かし問いかけて――今し方のヴェールの発言を反芻する。
 ……いつまでもって、言った?
 ――いつまでもって、言ったわよね。
 つまり、それって……。
「アンタ、ずっと傍にいたのねっ!」
 突然の登場はおかしすぎると気づいたとき、私の鉄拳はヴェールへと向かっていた。しかして、寸前で避けられた。
 やっぱり、騎士ねっ!
 私は悔し紛れに、ヴェールを睨みつけた。
 剣の腕だけではなく、魔法の才能も認められたから「月」の騎士に選ばれた、そんなヴェールにとって、魔法で姿を隠すことなんて造作もない。
 だって、魔法の使い方をつい先日思い出したばかりの私も、ブランシュの目から隠れられたんだもの。
 ヴェールが議長に気づかれず隠れていることなんて、さぞかし簡単だったでしょうねっ!
「何で助けに来たのに殴られるんだっ?」
 納得いかないと顔をしかめるヴェールを前にして、私は冷静さを取り戻す。
 た、確かに……助けて貰って殴るのはよくないわよね?
 でもでもでもっ!
「傍にいたんでしょっ?」
 再度、問い詰めれば、翡翠の瞳は横に逸れた。言い訳ぐらいしなさいよっ!
「何でっ! 傍にいて黙ってたのよっ!」
 引っ込んだはずの涙がジワリと滲みでて来る。自分が酷く、混乱しているのがわかる。逆ギレもいいところだって、思う。
 ――けれど。
 議長に殴られて、アメティストも酷い目にあって、子供たちのことも議長に握られていて。
 ブランシュが敵かも知れなくて、ヴェールも味方かどうかわからなくて。
 一人ぼっちで、……私はどうしていいのかわからなくて、怖かった。
 怖かったの。辛かったの。
 だって私は、いきなり旦那だって言われた事実に反発していたにも関わらず、いつの間にか二人の騎士を好きになってしまったんだもの。
 その二人に裏切られているかも知れないなんて、怖くて、信じたくなくて、辛くて。
 本音をもらすのは、負ける気がして嫌だったけれど、気がつけば喉を突いていた。
「私……怖かったんだからねっ!」
 半ば八つ当たりの怒声を吐いて、瞳から涙が溢れそうになったとき、目尻に触れる温度があった。
 ハッと顔を上げると、青い瞳が悲しげに私を見下ろしていた。
 絹越しの指先が涙を拭って、そっと下へと滑る。議長から殴られた頬を一ミリの空気を挟んで包み込む優しい温度が撫でる。
 触れられていないのに、ふわりと感じる手のひらの温もりがわかる。
「守ってあげられなくて……ごめんね、ローズ……」
 こちらを静かに見下ろして、そう謝って来るブランシュに、私は堪え切れずに涙を流した。
 違った。間違えていた。ブランシュは敵じゃなかった。
 この人は、私の知らないところですべてを片付けようとしていた。副議長と手を組み、議長を騙す汚れ役を買って出て、私を守ることに腐心(ふしん)した。
 ブランシュは副議長に対して私が怒ると言っていた……余裕があったら、確かに怒っていただろう。
 ――私を部外者にしないで、と。
 二人が私を守ろうとするように、私だって二人を守りたいんだから。それだけの力を私は目覚めさせたんだから。
 だけど、ヴェールに逆ギレしてしまった怒りは長く続かない。
 裏切られていなかった事実に心の底からホッと安堵する。
それと同時に、この人を信じられなかった自分が情けなくって、しょうがなかった。
 議長に感じた悔しさとは違う、別の悔しさが胸の内側に満ちて来る。
 自分自身に対する――いいえ、これはローズに対する悔しさだ。だって、彼女はブランシュとヴェールを信じていたからこそ、巻き戻しの魔法を実行できたのよ?
 そこにあったのは、絶対の信頼。
 ローズは心の底から二人の騎士を信用していたのに、どうして私は、優しく見守ってくれた青い瞳を信じられなかったんだろう? 私の隣に並んでくれた黒い肩を信じなかったんだろう?
 自分の弱さが情けなくて、悔しい。
「私の方こそ……信じてあげられなくて……ごめんなさい」
 それが涙という形になって瞳からこぼれると、ブランシュの温かな指先がそっと拭ってくれた。




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