23,眠りの淵で 「お着替え、お手伝いしますわ。 レーナさんに促され、私は自分の部屋へと戻る。 ドレスを脱ぐのは着替えるときほど人手が要らないので、付添はレーナさんだけだ。 自分の部屋に戻ると、操り糸が切れたように身体が重く感じられた。疲れていないように思っていたけれど、そうじゃなかったらしい。 ぐったりと長椅子に座りこんだ私に、レーナさんが「ふふふっ」と楽しげな余韻の残る声で笑う。 「お疲れさまでした、蒼天の君。大丈夫ですか?」 手の動きを加えて訊ねてくるレーナさんに、私は「大丈夫」と笑顔を返すも、頬が引きつるのを実感した。 「お休みになりますか? それともお夕食を用意させましょうか」 レーナさんの問いかけに私はぼんやりした頭で考える。お腹は空いていない。ダンスホールに用意されていた軽食を適度に摘まんでいたから、今はまだ大丈夫。 「少し横になられますか、コルセットを脱いだ方が楽になられると思いますが」 重たい身体を無理矢理起こして立ち上がると、レーナさんが背後に回ってドレスを脱がせてくれた。腰当てやコルセットの紐を解いて、床に落とす。身に着けていた宝石が、用意されていた宝石箱に戻されると、肩が軽くなる。 シュミーズ一枚であることを頭の片隅では自覚しているけれど、恥ずかしいという感覚は疲れによって麻痺していた。 「お化粧を落としましょう」 ぬるま湯を張った洗面器で、顔を洗う。本当はお風呂に入りたいけど、今の私じゃ溺れちゃいそう。それを見越したのか、レーナさんが「朝一番で、湯を用意させますわ」と、気を利かせてくれる。 「腕を持ち上げてください」 言われるままに、万歳。私、本当に操り人形みたい。 さわりと肌触りのいい絹の寝巻が身を包んだ。 レーナさんに手を借りて、私は寝室に向かう。もう頭は殆ど何も考えられない。 寝台を前にすると、私は倒れ込むようにベッドに飛び込んだ。 ダンスホールでのことがまざまざと目蓋の裏に蘇ってきたと思ったら、薄闇の向こうでレーナさんが毛布を持って来て、私に被せてくれるのが見えたり。 柔らかい温もりが肩を包んで、まどろむ意識はまたダンスホールの夢を見る。そうしながら、足音を忍ばせて立ち回るレーナさんの気配も感じる。 完全に眠りに就くには、私の意識はまだ興奮から醒めていないらしい。だけど、身体は休息を求めているのだろう。 私は半覚醒のまま、ベッドに横たわっていた。 レーナさんの手が私の髪に触れる。そう言えば、髪をセットしたままだ。優しい手つきが髪を結んでいたリボンを解いて、ピンを抜く。くるりんと巻かれた髪が頬に掛かるのをレーナさんの指が払いのけてくれる。その際に触れた肌がくすぐったくて、私はふふふっと笑う。 今日一日が楽しかったせいかな。夢見心地で何だか気持ちが高揚している。酔っ払いと間違われそう。 「……ありがとうございました」 微かな声が頭上から聞こえた。それは優しい声で、私は意味もわからず嬉しい気持ちになった。 でも、あれ? 私、お礼を言われるようなことをしたかしら? ふわふわと夢現の狭間に漂いながら、無意識に眉間に皺を寄せる私に、レーナさんの声が静かに響く。 「蒼天の君のおかげで、城内も明るくなりました。あのように明るい殿下の笑い声をお聞きしたのも久しぶりです。これも、蒼天の君のおかげですわ」 そうですか? 皇太子さまは最初から明るい人だったように思うのだけど。 私は頭の中で疑問に思う。 ああ、そうか。 あの夜のことを思い出して、納得する。皇太子さまは周りを心配かけないように、努めて明るくふるまっていたんだろう。 でも、レーナさんは気づいていたんだ。皇太子さまが、無理をしていたこと。 「あの方がお亡くなりになられてからというもの、城内は沈んでおりました。殿下はあのとおり、お優しい方なので決してわたくしたちに弱音をお見せになりませんでしたが……皆、気づいておりました」 皇太子さまの寂しさに――? 私は重たい目蓋を持ちあげた。薄靄がかかったような視界に、ベッドの端に腰かけ遠い眼差しをしているレーナさんの寂しげな横顔が見えた。 「ですが、わたくしたちは何もできませんでした。わたくしたちが気遣えば気遣うほど、殿下は何でもないようなふりをなさいます。わたくしたちは何も気づかないふりをするしかできませんでした」 そして、皇太子さまは普段通りにしていたわけだ。エスクードも傷口に踏み込まないよう、いつも通りに皇太子さまと軽口を叩き合いながら……悲しみに気づかないふりをして、笑っていた。 「けれど、蒼天の君。あなた様がお見えになられて、殿下もエスクード様も明るくなられました」 そうかな? そうだとしたら、私が来る前は軽口を叩き合うよりもまだ沈んでいたの? もしそうなら、レーナさんたちも辛かったよね。 私は唐突に、両親を亡くした後に引き取られた親類の言葉を脳裏に思い浮かべた。 ――辛気な顔をするな。 落ち込んでいる人を見ているのは気持ちがいいもんじゃない。それが自分には手に負えないなら、なおさらだろう。 何もできないことの苛立ちを感じていたのだろうか、あの人たちは。それを私にぶつけたのは、自分で立ち直れという意味合いだったのだろうか。 確かめる術はないけれど、私が抱えた痛みが決して一人だけのものではなかったのだとしたら、私は……どうすれば良かったのかな? ぼんやりとした頭で考えるけれど、その答えは簡単には見つからない。 簡単に答えが見つかるなら、皇太子さまの傷を癒すために、エスクードやレーナさんがそれを実践していただろう。 亡くした人の存在の穴を埋めるのは難しい。難しいから……上手くいかなくて、どうしようもなくて。 苦しくて、何も言えなくなって、当事者もその人を見守る人たちも何でもないふりをするしか、出来なくなるのかな。 「あの方によく似た蒼天の君、あなた様をエスクード様にお連れになられたとき、わたくしたちは心配していたのです」 私が目を瞬かせるのにも気づかず、レーナさんは続ける。私に話しかけているわけではないのだろう。大体、私はジェスチャーがないと、コミュニケーションがとれないという建前があるのだ。 レーナさんの横顔の眼差しはどこか遠い。 誰を見つめているのだろう? 誰を想っているのだろう? もしかして……レーナさんは皇太子さまが好きなのかな? ダンスホールでの興奮した顔を思い浮かべながら、私は静かにレーナさんの横顔を見つめた。 「殿下が目を瞑ってこられたそれにお気づきになられるのではないかと……」 それは、皇太子さまがアリスエールを求める気持ち? 「……ですが、蒼天の君は何もご存じなかったから」 皇太子さまの悲しみも、皆が抱えた傷も、アリスエールの存在も、私は何も知らずにいた。 知らなくて当然のことだったけれど、彼女のことを知ったとき、私は自分が役立たずだと思った。身代わりにすらなれない自分が悔しかった。 けれど、こんな私でも役に立てていた? 不意にレーナさんの視線が私に向く。私は慌てて目を瞑って、寝たふりをした。 今までの会話は私に聞かせるつもりはなかったみたいだから、何も聞いていないふりをするのが一番だろう。 それに私の推測が正しければ、レーナさんの想いが叶うのは難しい。そこのところをきちんと弁えているような発言が、推測が当たっているような気がしてならない。 「あなた様は何もわからないこの城内で、それでも自らに出来ることを務め、学ぼうとなされた。その前向きさがどれほど、お二方の心を動かされたか」 私は……。 「他の誰かでは、きっと殿下もエスクード様も……わたくしたちも、何も変えられなかったと思います」 ……そうかな? 私で、良かったのかな? 「ありがとうございます、蒼天の君。天から参られたのが、あなた様で良かったとわたくしは心から思います」 レーナさんの声が優しく染みてきて、私は目頭が熱くなるのを実感した。寝返りをうつふりをして、枕に顔を伏せる。 ずれた毛布の位置をレーナさんが直してくれ、私の震える肩を温めるように撫でてくれた。 優しい温度が私を再び眠りの淵へ誘う。今度は誘惑に抵抗できずに、意識が落ちていく。 あのね、レーナさん。私もね、ここに来て良かったと思うんだよ。 皆に会えて、良かったと思うの。 いつかちゃんと、自分の声で、言葉で皆に伝えられたらいいな……。 そう思いながら、私は眠りに就いた。 |