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「小学生をね、連れ去ろうとする事件が、起こっているらしいのよ」
陽子お母様の声に、わたくしの意識は過去から今へと引き戻されました。
「連れ去り?」
訝しげな声で、日向さんは陽子お母様に問い返します。
「サチコちゃんの事件と関係あるの?」
心持ちソファから身を乗り出す形で、日向さんは立ったままの陽子お母様を見上げました。
「わからないわ。でも、物騒でしょ?」
「物騒も何もないでしょうが。サチコちゃんの事件が片付いていないっていうのに」
怒ったような日向さんの声。
ひと月が経ったのに、サチコさんの死が事故だったのか、事件だったのか、まだハッキリしていません。
目撃情報も不審者情報もない。このままでは、事故として処理されてしまうかもしれません。
真実、事故だったのならば、ともかくも。
ここに来て、小学生を相手に連れ去り未遂とは。
サチコさんのこととは無関係にしても、これは問題です。
警察は何をやっているのかと、日向さんが苛立ちをあらわにしても不思議ではありません。
「だから、アンタ。ネコちゃんのお散歩ついでにパトロールしなさい」
「……は?」
日向さんは目を丸くして、パチパチと大きな瞳を瞬かせます。いまひとつ、お母様から言われたことがわからないようです。
「町内会でね、そういう話が出たのよ。小学生の帰宅時に、暇がある人間は通学路に立って欲しいって」
「それで、俺が?」
「散歩道を少し変えればいいでしょ? 別に不審者を見つけろ、っていうわけじゃないわ。ただ、周りの人間が目を光らせていれば、誰も変な真似しにくいでしょ?」
「そりゃ、まあ……」
「ただ、歩くだけよ。アンタだって、出来るでしょ?」
「俺だって出来るって……ガキの使いじゃねぇんだから。どうせなら、不審者を捕まえろ、って言ってくれた方がやる気出るっていうのに」
拗ねたように唇を尖らせて、日向さんは言いました。陽子お母様は少し驚いたような顔を見せます。
「何よ、アンタ。結構、乗り気ね?」
「別に」
日向さんはわたくしを肩に担ぐようにして、ソファから立ち上がりました。
「……ただ、サチコちゃんみたいなこと、繰り返されるのが嫌なだけだよ」
日向さんは一度、自分の部屋へ戻ると薄手のパーカーを羽織って、玄関でスニーカーを履きました。そうして、わたくしの首輪に――革の首輪は男の子っぽくって可愛くないわ、と。陽子お母様が首輪の上に、薄紫色のリボンで飾ってくださいました――リードを繋ぎます。
そして、わたくしたちはいつもの川原を散歩した後、公園通りへと向かうのでした。
* * *
事件は、わたくしのお散歩コースが延長して、七日目に起きました。
結城家から南に少し下りますと、楓町を東から西へと横断する川があります。笹川と呼ばれるその川原を西へと向かいますと、笹橋と呼ばれる橋があります。
この笹橋を五百メートルほど南下しますと、楓小学校があります。楓町のお子さんは皆、こちらの小学校に通われています。サチコさんもそうでしたし、幼い頃は日向さんも通われていたのでしょう。
その橋と交差する場所から北上すること七百メートル地点で、東側に折れる道があります。この折れ曲がった道を、ご近所では公園通りと言っています。公園は折れ曲がって少し入り込んだ位置に入り口を設けて、存在しています。
そして、公園通りを一キロほど東に向かって歩きますと、一本の道に出ます。この道を南下すれば、結城家へと戻ることができます。
四角い図形を思い浮かべてください。その四角を二分するように中心を東からへと横切る一本の線が公園通りです。そうして、四角の南東の位置に、庭付き一戸建ての結城家が居を構えています。
四角のこの場合、底辺となる線が笹川です。
上辺の線が楓町商店通りで、下の左角に笹橋が位置します。
橋から道を真っ直ぐ北に向かったところに楓駅があり、そこから東へと延びる通りが――先ほど言いました、上辺です――商店街です。商店街の東の端に南へと南下する一本道は、やがて結城家の前に出るという形になります。
大体の位置はおわかりになったでしょうか?
日向さんはわたくしを連れて、笹橋から駅へと向かう道を北上し、サチコさんが亡くなったとされる公園近くへ差しかかろうとしたとき、
「ダメぇぇ!」
と、叫ぶ男の子の悲鳴が聞こえました。
わたくしは思わず、日向さんを振り返ります。日向さんもわたくしを見ては、走り出しました。
「ワンワンワン」
わたくしは走りながら、声を上げます。
人間の言葉に変えるなら、「どこですか? 大丈夫ですか? 今行きますからね!」と、叫んでいるのですが――どうしたところで、喉を通れば声は鳴き声にしかなりません。
それでも、効果は多少あったのでしょう。
曲がり角を折れれば、その先で黒いランドセルを背負った男の子が尻餅をついていました。辺りに目を走らせれば、サクラ児童公園の中へと黒い人影が消えるところでした。
わたくしは追いかけようとしましたが、リードの端を握る日向さんが小学生の前で足を止めたので、わたくしも止まらざるをえませんでした。
「大丈夫か?」
日向さんはアスファルトにジーンズの膝をつけて、小学生の顔を覗きます。
男の子は青い顔をしながら、頷きました。余程、怖かったのでしょうか。カチカチと歯が鳴るのが聞こえます。
「立てるか? 何があった?」
声をかけながら、日向さんは男の子を立ち上がらせます。
「もう大丈夫だから。な?」
安心させるように、日向さんは男の子に向かって笑いかけました。
お日様のような日向さんの笑顔は、こういったとき、とても柔らかで穏やかで心が落ち着きます。
それは男の子にも効果があったのでしょう。
彼は小さく頷きました。カチカチと鳴っていた歯も、今は鳴っていません。
「怪我はない?」
日向さんは男の子に視線を走らせます。わたくしは彼の後ろに回りこんで、どこか怪我がないと見上げますが、ズボンのお尻のところに砂が付いている以外、どこも怪我はないようです。
日向さんの足元に戻って、意味ありげの視線を投げますと、さすがご主人様。言葉が通じなくとも伝わるものがあるようです。
「怪我はないみたいだね」
わたくしに視線を返して、ニッコリと笑うのです。そうして、男の子へと目を戻しながら、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出します。
「連れ去り未遂事件が頻繁しているの、知ってる?」
二つ折りの携帯電話を開きながら、日向さんは男の子に問いかけます。
男の子はギクシャクとした動きで、頷きました。
「……はい。……でも」
反論するように口を開いた男の子は、直ぐに言葉を見失ったかのように唇を塞ぎました。
「何? さっきの奴は違うってこと?」
首を傾げて質す日向さんに、男の子は俯いて顔を伏せます。
「今の、知り合いだったとか? 喧嘩でもした?」
男の子は一瞬、顔を上げましたが、また直ぐに顔を伏せました。何と答えてよいのか、迷っているようです。
これは一体、どういうことなのでしょうか?
当然、男の子は犯人を見ているはずです。
知り合いならば、そう言うでしょうし、連れ去り事件と関係ないのなら、それもまたキッパリと断言できるはずです。
なのに、男の子は口を塞いだまま。
わたくしが男の子の不審な言動に日向さんを見上げれば、日向さんも何か思うところがあったのでしょう。考えるような間を置いて、男の子に告げました。
「俺も、連れ去り事件については、詳しくは知らないから。今のは一連のものと違うのかもしれない。でもね、もしかしたら関係があるのかもしれないんで一応、警察に報告するよ」
そうして、日向さんはお母様から教えてもらっていた最寄りの交番へと連絡しました。
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