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連れ去られようとしていた男の子を駆けつけたお巡りさんに預けて、日向さんは事情聴取に付き合いました。
しかし、男の子は具体的なことを何も言わないまま、泣き出してしまいました。
大の大人に取り囲まれての緊張からでしょうか。それとも、安心してのことでしょうか。
親御さんが迎えに来られても、男の子はずっと泣いていました。
「また後日、お話を伺いにいきますよ」と、お巡りさんは男の子を帰すことに決めたようです。
泣いていて、このままでは、事情を訊くに聞けないと判断したのでしょう。
頭を下げながら帰っていく親子を見送り、わたくしたちもまた、家に戻ってきました。
「なあ、連れ去りの被害にあった子たちの名前、知ってる?」
そして、日向さんは台所で夕食の準備をしている陽子お母様に尋ねました。
カレーの匂いを充満させた台所で、野菜サラダにかけるマヨネーズを準備していたお母様は、ボール片手に振り返ります。
陽子お母様のお料理の腕は本格的で、マヨネーズから手作りされます。ご家族一同、絶賛される陽子お母様のお料理を、わたくしも一度、ご相伴に預かりたいのですが、人間の食べ物は犬には刺激が強すぎるとのことで、まだ味わったことがありません。
しかし、陽子お母様が作られたお菓子を日向さんがこっそりと分けてくださり、味見したクッキーは大変美味しゅうございました。
「帰りが遅かったから心配していたというのに、帰って来て開口一番、ただいまじゃないの?」
少し怒ったような口調で睨まれますと、日向さんは「タダイマ」と棒読みで応えて、唇を尖らせました。
「心配なんかしてないくせに」
「何、言ってんの、心配していたわよ。アンタのことだもの、変質者に間違われているんじゃないってね」
泡だて器をカシャカシャとボールの淵で鳴らしながら、お母様は反論します。
「そっちの心配かよ?」
「アンタの場合、間違われる要素があるでしょうが」
陽子お母様は日向さんとサチコさんの関係について、揶揄されているようです。
サチコさんの事件の後、この家にも事情を聞きに警察の方が訪ねてきたのです。
幸いに――そう言って良いのか、わかりませんが――サチコさんがお亡くなりになった日、わたくしたちは陽子お母様の御用で商店街のお茶屋さんに、お茶の葉を買いに出掛けました。
そこで日向さんは、顔見知りの店主さんたちに例の如く「残念だったね」という同情の言葉を賜っていたのです。それで、アリバイを立証された日向さんのもとに、警察の方が再び来るようなことはなかったわけですが。
初対面の小学生相手にも気安く話しかけてしまう日向さんは、ニュースなどで幼女などへのイタズラ目的とした事件が報道されるたびに、陽子お母様から「変質者に間違われないよう、気をつけなさいよ」と言われるのです。
本来なら咎められるはずのないことなのですが、昨今の事情においては、人の好さもあだになりかねません。
日向さんは「嫌な世の中になったよな、ネコちゃん」と、頭の上に乗せたわたくしに同意を求めては、ため息を吐きました。
……まったくです。
わたくしのご主人様を不埒な輩と同じにして欲しくはありません、と訴えます。
「ワン」
ああ、どうしたら、人間の言葉が話せるようになるのでしょうか。
「で、被害にあった子のこと、知ってる?」
日向さんは話を戻して、最初の質問を繰り返します。
お母様は眉間に皺を寄せて、首を振りました。
「そういうのは、聞いてないわ。プライバシーの問題があるんでしょ」
「プライバシーね。それは、わからなくもないけどさ。もしかして、個人で狙われている場合は情報公開したほうが、警戒しやすいと思うんだけどな」
「しょうがねぇな」と、肩を竦めますと日向さんは踵を返します。
「どこ行くのよ? もう直ぐ、ご飯よ」
台所から追いかけてきた陽子お母様が、玄関で靴を履きかえる日向さんに問いかけます。
「交番に行って、聞いてくる」
「何よ、アンタ、探偵の真似事でもしているの?」
「探偵ね。そう見える?」
「アンタにそれだけの頭があったら、受験前にカラオケボックスなんて、ウイルスが充満していると解りきっているところに行ったりしないでしょうよ」
「…………ひでぇ。それで、試験が受けられなかった息子に言う言葉か」
「試験を受けるくらいの根性を見せてから、反論するのね。たかが、四十度の熱でへたばってんじゃないわ、情けない」
……お母様、人体に四十度の熱は、かなり危険だと思われますが。
わたくしはハラハラと、陽子お母様と日向さんを交互に見やります。
「…………」
日向さんは唇を捻じ曲げると、複雑な表情を見せました。
お母様に口で勝てないことを直感的に悟られたのでしょう。
「とにかく、ちょっと答えが見つかりそうなんだ――だから、晩飯は後」
トントンと、靴の爪先で床を蹴って、日向さんはわたくしを頭から降ろしました。リードを再び繋げようとして、少し迷ったように首を傾げます。
「ネコちゃんは、お留守番するか?」
わたくしの体力を気遣ってくださっているのでしょうが、わたくしはどこまでも日向さんにお付き合いする所存です。
そう目で訴えますと、日向さんはリードを繋いでくだりました。
そして、玄関のドアを開けますと、陽子お母様の声が追いかけてきました。
「答えって、何よ?」
肩越しに振り返って、日向さんは唇の端に白い歯を覗かせます。
「答えって言ったら、謎の――だろ?」
* * *
「少し整理しようか、ネコちゃん」
駆け足で、わたくしたちは公園通りの端にある交番へと向かいます。その道程で、日向さんは口を開きました。
「まず、あの子は何で犯人について語らなかったのか」
男の子が連れ去り犯について、沈黙を通したこと。
日向さんが謎だと考えるその一つ。
「あの男の子だけじゃない。今まで、連れ去り未遂の被害にあった子たちもだ」
わたくしが首を巡らせて振り返りますと、日向さんは栗色の髪を額の上で躍らせながら、続けます。
「プライバシーの問題だからって、お袋は被害者の子たちの名前を聞かされなかった。それはまあ、筋が通っている。でもさ、お袋は不審者についても何も言わなかったよな?」
それって変だよね、と小さく呟きます。
――確かに、変です。
実際に連れ去られて行方不明になってしまったのなら、連れ去り未遂事件ではなく、それは誘拐事件です。
犯人の姿がこちらに伝わることはまずないでしょう。
しかし、誘拐は未遂に終っています。
そして、第三者であるわたくしたちの耳に届くまでの大騒ぎになっていることを考えれば、被害者の存在は明確。
「連れ去られようとした子は、間違いなく犯人を見ているわけさ」
――なのに、あの男の子を初めとして、皆がみな、沈黙していることになります。
「だったら、不審者の情報は町内会の通達でも回るはず。それを聞いていれば、お袋もこういう人物に注意しろ、って言うはずだ」
――はい。
「でも、言わなかった。何でだ? それは聞かされなかったから。犯人像にプライバシーの問題なんかない。聞かされなかった理由は、犯人像が絞られていないからだ」
男か、女か? 背が高いのか、低いのか? 太っていたか、痩せていたか? 髪は長かったか、短かったか? 服はどんな服を着ていたか? その他、もろもろ。
恐らく、被害にあったお子さんたちに警察の方たちは問い質したでしょう。
そこから、本来ならおぼろげに描き出されるはずの犯人の影。
それすらも、陽子お母様のもとに伝わることはなかった。
被害にあったお子さんたち全員が恐怖に口を閉ざしたと考えるのも、少し無理があるように思います。
何故なら、犯人が捕まった方が、安心できるはずなのですから。
「次の謎は――連れ去りがサチコちゃんの事件と関係があるのか、どうか」
――連れ去り事件は、小学生を対象としています。
サチコさんもまた、小学生でした。
無関係と割り切ってしまうには、サチコさんの事件から――事故なのかもしれませんが――ひと月という日の浅さです。
「……多分ね、無関係じゃないと思うよ」
唇を噛んで、日向さんは呟きました。
わたくしも同意見です。
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