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 ― 5 ―


「こんにちはー」
 日向さんは、いつものように凍えた冬の雪を溶かすような、人の警戒心を解くような、暖かい笑顔で、交番のお巡りさんに声をかけました。
「あれ、君は」
 お巡りさんは顔を上げると、目を瞬かせました。
 一時間前に「それじゃあ」と言って、お別れしたばかりですのに再び戻ってきたのですから、驚かれても当然でしょうか。
「どうしたの、何か忘れ物?」
 まだ若いお巡りさんは、日向さんと似たような雰囲気をもっていらっしゃいます。陽だまりのような、暖かさと安心できる穏やかさ。耳に心地のよい柔らかな声音で尋ねられると、帽子を脱ぎながら首を傾げられました。
「忘れ物っていうか、聞きたいことがあるんですけど。いいですか?」
 交番内に入る際、日向さんはわたくしを抱きかかえました。
 世の中には、犬が怖いという方もいらっしゃいます。
 日向さんは、外ではわたくしのリードを決して放したりなさいませんし、人に近づく際は、わたくしをしっかりと両腕に抱いて、相手の方との距離を十分に確保します。そうすることで、犬が怖い方に安心してもらうのです。
 お巡りさんは、犬が怖いという方ではないようで、「何なに?」と、身を乗り出してきました。
「最近起こっている、連れ去り事件の被害者と現場の状況を教えてください」
 日向さんは、スッと声を低くして言いました。
「……それは」
 お巡りさんが一瞬、息を飲み込みました。
「どうして、そんなことを?」
「もしかしたら、事件解決の手掛りになるかもしれない」
「手掛りって……君、本当に?」
「詳しいことは、情報を得ないことには。でも、俺が考えていることが合っているなら、被害者のことを教えてもらえれば、多分、今回の連れ去り未遂の犯人は判ると思う」
 日向さんはキッパリと言い切りました。
 その強い口調に、お巡りさんは「うーん」と唸り、腕を組んでは、どうしたものかと思案されたようですが。
 二分後、ここだけの話だよ、と内緒話をするように声を潜めて語ってくださいました。
「君は、あの男の子を助けてくれたしね。えーと、現場状況を聞きたいっていうと」
「児童が連れ去られそうなったというのが発覚したのは、俺みたいな第三者がいたんですよね?」
「うん。でも、争うような声を聞いて、駆けつけたときには児童が一人取り残されたような状態で、誰も連れ去ろうとした犯人の姿を見ていないんだ。君も、そうだったよね?」
「はい」
 逃げた犯人を追うより、連れ去られそうになった児童の保護を現場に駆けつけた人たちは優先させたのでしょう。その場合、身体が二つに分かれでもしない限り、犯人を追いかけることなんてできません。
「……で、これは確認なんですけど。連れ去られそうになった児童は犯人については、何も証言していないんですよね?」
「うん。よっぽど、怖かったんだろうね」
 こちらのお巡りさんは、わたくしほど深く考えていらっしゃらないようです。
 ただ純粋にお子さんたちの心配をしているのでしょう。
 心に傷が残らなければいいのだけれど、と悲しげに呟いて眉を下げます。
「じゃあ、連れ去られそうになった児童の名前を教えてもらえますか?」
 五人の被害者の名前を聞いて、日向さんはお巡りさんに町内の地図を求めました。
「出来れば、各住宅の名前が載っているような奴の……書き込んでもいいような」
 お巡りさんは、交番内にあったコピー機で地図を用意してくださいました。それを受け取って、日向さんは赤いペンを借りると五つの印を地図に書き込みます。
「それは?」
 お巡りさんが興味深げに覗きこんできて、日向さんは説明しました。
「被害者の子の家です。わかります? 公園通り付近に集中してます」
「ああ、そうだね。でも、それが?」
「ここにもう一つ、印を」
 同じように、公園通りの近くに赤い丸印が書き込まれました。
「……これは、サチコちゃんの家です」
「公園で変死した?」
 目を見開くお巡りさんに、日向さんは頷きました。
「この六人に共通すること、わかりますか?」
「同じ小学校?」
「で、――同じ通学路です。しかも、公園通りを通る、ね」
 日向さんはそう告げた後、悲しそうに目を伏せました。
「多分、犯人が……わかったよ、ネコちゃん」


                       * * *


「女の子に贈る花束って、これで良かったかな、ネコちゃん」
 日向さんはフラワーショップから出てきますと、ピンクを中心にした小さなブーケを見せてくださいました。
 小さな花がとても可愛らしくて、とても素敵です。
 きっと喜んでくださいますよ、とわたくしは告げます。
「ワンっ!」
 人間の言葉にはならない声ですが、日向さんには伝わったらしく、小さく頷かれました。
「……じゃあ、行こうか」
 わたくしたちはそうして、歩き出します。
 向かった先は、サチコさんがお亡くなりになった公園です。
 先日、連れ去り犯が逃げていった公園でもあります。
 車避けの柵の間をすり抜けてその敷地に入りますと、わたくしはグルリと周囲を見回しました。
 公園は中央に噴水を備え、奥には滑り台。その滑り台も鉄筋ではなく、動物のゾウの形をあしらったコンクリート製の大きなもので、おなかの下に空いたスペースは子供が潜り込んで遊べる造りになっています。
 サチコさんがお亡くなりになったとき、この場所に隠されるようにランドセルが置かれてあった場所です。
 ジャングルジムに、ブランコ。シーソーに、鉄棒。砂場。そして、大型トラックのタイヤを半分埋め込んだもの――跳び箱のようにして、遊ぶようです――と、遊具がかなり充実しています。
 そして、公園の名称となっているサクラの木々は、青々とした葉を茂らせ、通りから公園を隔離しています。
 現実世界から、切り離された空間を強く意識させる緑の壁。ひと月前は鮮やかなピンク色をしていました。
 並んだ木々の手前にレンガで敷居を造り、公園を一周するのは腰丈のつつじの植木。それはこれでもかと言わんばかりに、赤や白、ピンクといった色とりどりの花を咲かせています。
 入り口から反対側のつつじの前に置かれたベンチに、わたくしは二人の人影を見つけました。
 ベンチに腰掛けた女性とその女性の傍らに立って、心配そうに見つめる男性。
 年のころは、二十代後半といったところでしょうか。
 しかし、どちらも精彩のない顔色で、酷く疲れているように見受けられます。
 日向さんは真っ直ぐに、二人の元へと近づきます。そして、ベンチの手前で足を止めて、女性に次のような言葉をかけました。
「……赤ちゃんの卵は、大丈夫ですか?」
 女性は顔を上げて、一瞬、何を言われたのかわからないような顔をしました。
 赤ちゃんの卵なんて言い方は、普通はしませんから、この反応は当然でしょう。しかし、女性は次の瞬間、クシャリと顔を歪めました。
 今にも泣き出しそうな顔の女性に、日向さんは名乗ります。
「初めまして、結城日向と言います。こっちは、犬のネコです」
 日向さんはわたくしを抱き上げて、紹介してくださいました。
「今日は突然、お呼び立てしてすみません。あの、――俺たちは、サチコちゃんの友達でした」
 そう告げた瞬間、ホロリと女性の目から涙がこぼれました。傍にいた男性は慌てたように、日向さんの前に割り込みます。
「済まない、結城君だったか? 家内はちょっと情緒不安定で」
 言い訳をする男性に目を向けて、日向さんは頷きました。
「知ってます。赤ちゃんの卵を温めているんですよね? サチコちゃんが言っていました。夏に生まれるから、気をつけなきゃ駄目だって」
「……サチコが」
 男性の声が微かに震えます。
「だから、俺はサチコちゃんに代わってお母さんに忠告しに来ました。これ以上、無茶をしていたら、赤ちゃんの卵が割れてしまいます」
「……君は……」
 何を知っているのだ? と、かすれた声が問います。
 それを前にして、日向さんは男性の肩越しに女性を見つめて、言いました。
「現在、町内を騒がせている連れ去り未遂事件の犯人は……サチコちゃんのお母さんなんでしょ?」


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