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 ― 6 ―


 日向さんに「犯人だ」と、指摘を受けてビクリと、立ち上がったサチコさんのお母様の腹部は、夏に出産を予定している妊婦にしてはあまり目立ちません。
 しかし、それでも激しい運動は差し控えた方が良いかと、思われました。
 蒼白な顔色は、事実を指摘されただけのものとは思えないくらい、白く。
 お二人の顔色が悪かったのは、サチコさんのことで、かなり心労を重ねているのだと、人間ではないわたくしにもわかりました。
 これ以上無理を通せば、お腹の胎児にも影響が出るでしょう。
「お母さんがしようとしていることが、悪意ではないことを知っています。大体、あれは連れ去りではないんですよね? ただ、子供たちに聞こうとしたんだ。この公園で、サチコちゃんに何があったのか」
「……誰か、話したの?」
 サチコさんのお母様の問いかけに、日向さんは首を横に振りました。
「誰も話していません。子供たちは誰も、お母さんのことを言っていない」
「じゃあ、どうして?」
「事実を繋ぎ合わせて、推理したんです。どうして、子供たちは自分たちを連れ去ろうとした犯人のことを揃って、口にしなかったのか? ――そうして、俺が見つけた答えは、事件は連れ去りではなかったからだと」
『――君を誘拐しようとした犯人は、どんな人物だった?』
 お巡りさんは、男の子にそう問いました。
 でも、事件は誘拐ではなかったのです。ただ、サチコさんのお母様は、男の子に公園でのサチコさんの様子を聞こうとし、公園内に導こうとした――それだけでした。
 事件ではありませんでした。
 だから、犯人は存在しない。
「子供たちは、そこでお母さんのことを言ってしまうと、あなたが犯人になってしまうことがわかっていた。だから、誰も、何も言わなかった」
 淡々と、日向さんは答えを引き出します。
 昨夜、日向さんはご自分の考えをわたくしに語ってくださいました。わたくしに話しかけることで、ご自身の推理を確認していたのでしょう。
 そんな答えを前に、サチコさんのお母様は小さく呟きました。
「まるで……探偵さん、みたいね」
 スッと顔を上げれば、悲しみに曇った瞳。
「……あなたなら、わかるかしら? あの日、サチコの身に何があったのか」
 詰め寄ってきたサチコさんのお母様は、日向さんの腕を掴みます。
「……もし、何か考えがあるのなら、聞かせて。あの子は、どうして死んだのっ?」
 悲鳴のような声が心を打ちます。
 どうして、どうして、どうしてっ!
 サチコさんがお亡くなりになってからこちら、お母様はずっとその疑問を抱えていらっしゃったのでしょう。
『そして、じっとしていられなくなっちゃったんだよ』――と。
 わたくしは昨夜、お母様の行動心理について語ってくださった日向さんの言葉を思い出しました。
 それは、他でもない――赤ちゃんの卵、です。
 サチコさんという、目の中に入れても痛くない大切な我が子を突然失ってしまった悲しみ。悲嘆に暮れて、無気力になりそうなそんな中で、お母様はお腹に宿された卵を守ることで、心を支えていたのだと。
 だけど、日々を重ねていくうちに、お母様の心に一つの不安が巣食います。
 赤ちゃんが生まれたとして、また再び、サチコさんと同じように失ってしまったら?
 事故だったのなら、ともかく。
 サチコさんの死は、もしかしたら誰かの手によって運命を捻じ曲げられた結果なのかもしれない。
 だとしたら、その誰かを捕まえない限り、また大事な赤ちゃんの命が奪われてしまうかもしれない。
 何よりも、サチコさんの命を奪った人間がのうのうと暮らしているなんて、許せない。
 警察からは、サチコさんの事件について、音沙汰がない。
 それならば――と。
 お母様ご自身が、サチコさんの件を調べようと動き出された。そして、情報を集めようとした結果、第三者の介入によって、連れ去り未遂事件に発展してしまったのです。
「これは、俺の推理です」
 日向さんは、ご自分の腕に掛かったサチコさんのお母様の手を解かれると、ゆっくりとベンチへ導かれます。
 そして、サチコさんのお父様共々、座るように指示しました。
 お二人はベンチに腰掛けると、揃って日向さんを見上げます。
 二人の視線を受けて、日向さんは軽く肩を竦めますと、小さく笑いました。
「学校帰り、寄り道したことありますか?」
 前置きもなく問いかけたそれに、サチコさんのご両親は目を瞬かせました。
「えっ?」
 ご両親の戸惑いを余所に、日向さんは軽く舌を出します。
「俺はあります。毎度毎度、学校帰りに友達の家に寄り道しては、暗くなるまで遊んでて。お袋に怒られてました」
「……それが何か?」
 訝しげなお父様の声に、日向さんは続けます。
「サチコちゃんは、先生に寄り道をしたら駄目だと言われたから、もうネコとは遊べないと言いました」
 そこで、日向さんはわたくしを軽く持ち上げました。お二人の視線を前に、わたくしは何となく、尻尾を振ります。
「俺たちがサチコちゃんと知り合ったのは、ネコの散歩途中です。時々顔を合わせては、サチコちゃんはネコと遊んでくれました」
「……そうか」
「だから、遊べないと言ったときのサチコちゃんは、本当に悲しそうでした。悲しいけど、言いつけは守らなければいけない――サチコちゃんは真面目な子だったんですね」
「あの子は……親の僕が言うのもなんだが、よく出来た子で」
 お父様は今にも泣き出しそうな感じに、顔を歪められました。そのお隣で、お母様は静かに涙を流しています。
 サチコさんが亡くなられて、どれだけの涙が流れたのか。
 想像するだけで、胸が締め付けられます。
「そんなサチコちゃんは、誰かが声を掛けてきたところで、付いて行くことはなかったと思います。多分、先生は知らない人にも付いていっちゃ駄目だと言ったでしょうから」
「……そうなのか?」
 半信半疑のお父様に日向さんは頷いて見せてから、
「サチコちゃん、進級して先生が変わったでしょ?」
 頬を傾けて、お母様に尋ねました。
「どうして、それを」
 涙をハンカチで拭い、サチコさんのお母様は驚きの表情を見せました。
「それまでの先生は、当たり前のことだとして、一々、注意することはなかったんでしょうね。だから、サチコちゃんも、俺やネコと遊んでいた」
 でも、と。
「新しい先生の注意に、サチコちゃんは寄り道がいけないことだと、考えたんでしょうね。そうして、サチコちゃんはお姉ちゃんになるのだから、しっかりしなければいけない――と」
 そう自分に言い聞かせたサチコさんは、もうわたくしたちとは遊べないと、あの春の日に言われたのです。
 とても、悲しそうな顔をして。
「そう決心したサチコちゃんが、公園に寄った理由は何だと思いますか?」


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