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 3,蒼い瞳の記憶


 ――白い羽みたい……。

 空から舞い落ちる白い雪。
 はらはらと風に巻かれる白い欠片は、小さな羽毛のように、柔らかく地面に降り積もる。この光景を見るときだけ、窓枠に嵌めこまれた鉄格子の存在は不思議と気にならなかった。
 思いついたことをそのまま口にしたフィオレンティーナに、ユリウスの声が被さる。
『僕にも翼があればいいのにね』
 微かに笑みを含んだその声に振り返れば、今まで奏でていたリュートを置いて、こちらに歩み寄ってくる優しい笑顔があった。
 窓辺に佇む彼女を後ろから包み込むようにして、ユリウスは外へ蒼い瞳を向ける。
 背中に感じるユリウスの広い胸に、フィオレンティーナは心臓の鼓動を高鳴らせた。
 フィオレンティーナが十一歳のときに出会い、それから四年。十五歳になった彼女と五つ違いのユリウスは、二十歳の青年へと成長していた。
 少年の頃からすでに完成されていた美貌は、より鋭角に研ぎ澄まされ、洗練された。
 城の最上階に幽閉されていたが、身体を(きた)えることは禁じられていなかったために、ユリウスの広くなった肩幅、厚くなった胸板が、少年期にはなかった逞しさを感じさせるようになっていた。
 弦をはじき、楽を奏でるときには繊細な動きを見せる彼の指は、思ったよりも武骨で力強く、少年期よりも大きくなった手のひらがフィオレンティーナの肩を包む。
 手のひらから浸透してくる体温が、彼女の熱を上昇させる。
 火照る頬に手を当てて、フィオレンティーナは問いかけた。
『空を飛びたいからですか?』
 その昔、彼が呟いた言葉を思い出していた。
 幼い思考は空への憧れととったが、十五になったフィオレンティーナには、ユリウスの心の深淵(しんえん)を察知する程度の思慮(しりょ)も備わっていた。
 ――自由になりたいのですか、私という(くさり)をほどいて……。
 声に出せない想いを瞳に宿して、ユリウスの横顔を見つめると、蒼い瞳がフィオレンティーナを見つめ返す。
『――そう、僕に翼があって、空を飛べれば、いつでも君の元へ飛んで行けるからね』
 口元を解いて微笑む彼に、フィオレンティーナも微笑んだ。
 ユリウスの真意はまた別のところにあったのかもしれない。壁の向こうの監視者の耳を気にしてのことだったのかもしれない。
 だが、彼に恋をしていたフィオレンティーナの思考は彼の言葉に踊らされ、盲目になった。その言葉だけが彼女にはすべてで、心は幸福に満たされる。
 薔薇色に染まった唇に別の熱が重なれば、彼女は崩れそうになる自身の身体を支えようと、ユリウスにしがみ付いた。
『――ティナ……』
 フィオレンティーナを胸に抱いて、口づけの余韻(よいん)が残るしとりと濡れた唇で、ユリウスが問う。
『君は僕を愛してくれる?』
『はい』
『多分、僕は……この心以外に、君に与えられるものはない……』
 いずれ帝国の傀儡(かいらい)となる運命を察して悲しんでいたのか、声は弱々しく切なさに途切れそうだった。
『……それでも、君は僕を慕ってくれるだろうか?』
『はい』
 言葉では表現しきれない決意を伝えるように、ユリウスの背中に回した手に力を込め、彼を抱きしめる。
『私が愛するのは、ユリウス様だけです』
『ああ、僕も君だけだよ、ティナ。早く、君をシュヴァーンの銀世界に連れて行きたいな』

 ――あの銀世界は、とても綺麗だよ、ティナ。

 甘く囁いて、ユリウスが(まぶた)に落としてくれた唇の熱をフィオレンティーナは思いだした。
 北から南へと幅広く大陸地図の上を支配していたカナーリオ帝国にも、北方に寄れば雪は降るが、シュヴァーン王国のように冬は深くなく、世界はどこか灰色だった。
 シュヴァーン王国を一色に染めた銀世界に埋もれてみると、その違いが如実に解る。
 ユリウスが自分をこの世界に連れてこようとしたのが、純粋な好意によるものだったように思うのは、フィオレンティーナの感傷だろうか。
 上も下も左右もわからない白銀世界に、フィオレンティーナはその身を預け、思想に走る。指先や身体は既に凍えて、動かす気力がない。
 ――このまま、雪に埋もれてしまえばいい……。
 そうすれば、魂はユリウスの元へ辿り着けるような気がした。
 シュヴァーン王国の首都へとあと数日という道程、山越えの途中、彼女が乗った馬車は横転した。凍りついた雪道に馬が足を滑らせたらしい。
 激しい揺れに横倒しになった馬車の中で、強かに身体を打ちつけたフィオレンティーナを同行していた赤い髪の将校が助け出し、外に引き出された。
 凍てつく寒風がむき出しの頬を叩き、フィオレンティーナの蜂蜜色の長い髪を絡め引っ張る。強い風によろめく彼女はうず高く積った雪に埋もれた。
 吹雪に白く煙る視界から、すべての色彩が奪われた一瞬、フィオレンティーナは意識するよりも先に身体を動かしていた。
 防寒用に着せられた毛皮を脱いで、雪を掻いて、走った。
『――皇女を捕えろっ! 死なせるなっ!』
 赤毛の将校の怒号を背中に聞いた瞬間、無数の悲鳴が上がると同時に轟音(ごうおん)にのみ込まれた。
 逃避の足を止め振り返ったフィオレンティーナの目に、雪崩に襲われた一行が映った。山肌を滑り落ちた雪の波が一行を巻き込んで、地表を撫でる。
 雪の波はフィオレンティーナの元へも流れて来て、彼女の足をすくった。
 視界を覆うは闇ではなく白。真白に染め上げられた視界は、闇に閉じ込められるよりも恐怖を誘った。
 身体の熱すら奪う白の檻。
 胸を圧迫する重量に息苦しさを覚えて、理性が死を理解するより先に本能的に空気を求め、フィオレンティーナは雪を掻いた。
 ようやく顔を出すと、雪は止んでいた。
 雲の隙間から空に顔を出した陽光が風によって巻き上げられた雪に光を反射させて、きらきらと輝く。
 指は凍え、四肢は重く、雪に濡れた服は重たく身体にまとわりつき薄く張り付いては凍って、徐々にフィオレンティーナの肉体から熱を奪っていく。
 ユリウスの存在を失ってできた心の(うろ)
 虚無感は身体を(むしば)み、穴を開ける。そこから魂がこぼれて行きそうな感覚。
 朦朧(もうろう)とする意識は睡魔に誘われるように、現実をぼかし始める。
 ユリウスとの思い出を繰り返す記憶は、既にあの世の岸に足を踏み入れた証だろうか。
 ――ユリウス様……。
 白銀に瞬く世界を翡翠の瞳を映し、フィオレンティーナは愛しい彼の名を呼ぶ。
 薄れ白濁してゆく意識の向こうで、彼女は懐かしい蒼い瞳を見たような気がした。


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