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 16,幼い恋


 ――君が好きだよ。

 甘い日々を繰り返し思い返すのは、そこにしか逃げ場がないことを知っているからだろうか。
 現実には救いがなく、憎しみと願いがフィオレンティーナの今生を支えている。
 愛した人の面影は眼前にあるのに、彼女を穏やかに包んでくれた温もりはない。
 ただ、虹彩の蒼と瞳孔の黒が、深い湖のように見せる瞳が氷を張ったように冷たく、フィオレンティーナを見つめ、思い出したくない事実を突きつけ、彼女の中の憎しみをあおるばかり。
 そのままでは毒に侵されるように胸が焼かれ、心が黒く染まりそうだから、自分は過去の甘い記憶を反芻して、自身を癒すのだろうと――フィオレンティーナは己を客観的に分析した。
 そうしなければ、精神(こころ)が壊れてしまうと、無意識の自我が働きかけるのかもしれない。
『――君が好きだよ、ティナ。でも、我が儘を言ってはいけないな』
 遠い過去から、ユリウスの声が聞こえれば、彼女は小さき皇女となる。
 いつの頃から恋が生まれたのか、フィオレンティーナは覚えていない。
 隣国との戦争終結の声を聞いて、十六歳の少年が帝国の宮殿に訪れたときから、始まったのか。それとも、彼と言葉を交わしてからか。
 十一歳のフィオレンティーナが初めて、ユリウスと対面したとき、蒼い瞳がとても綺麗だと思った。懐かしいようなそんな気がした。
 彼女が四つのときに亡くなった母の肖像画が青色の瞳をしていたから、そう思ったのかもしれない。
『ティナ、聞いているかい?』
 耳に触れた声にフィオレンティーナが金色の睫毛を瞬かせると、
『話を聞いていなかったんだね』
 と、十八歳の凛々しい青年へと成長したユリウスが苦笑した。
『ミルクは、嫌いかい?』
 問う声に、翡翠の瞳で上目遣いに彼を見れば、優しい笑顔が、小首を傾げる。
『…………』
『ティナ?』
 少年から青年へと変わっても目を惹いてやまない彼の美貌に、お母様を思わせる蒼い瞳に、見惚れていたなどとは言えなくて、フィオレンティーナは頬を赤くし、俯いた。
 恥ずかしさで、テーブルの端に置いた指をもじもじと、毛虫のように動かす。
『……き、嫌いじゃないです。でも、冷たいと……お腹を壊してしまうから……』
 彼女はぽつぽつと答えた。
 言い訳を口にしていて、自分が酷く幼い気がした。
 五つ年上の彼と対等になれるとは思っていないが、いずれ結婚する相手なのだから、あまり子供っぽく扱われるのは抵抗がある――そう考える彼女はその年、十三歳になり、初潮を迎えていた。
 女になり子供が産めるようになったのだと、教育係に教えて貰ったが、実際のところ、ユリウスとの間にある年齢差は五つ以上に感じられた。
『それを早く教えて欲しかったよ、ティナ。てっきり、君がジュリアを困らせようとしているのかと思ってしまった』
 冷えたミルクを差し出してきたのは、侍女のジュリアだった。
 子犬のような印象を与える栗色の瞳の侍女は、ユリウスが居を置いた――実際は幽閉されていたわけだが、このときのフィオレンティーナはまだ人質であることを知らなかった――エスターテ城で、日頃はユリウスに仕えているらしい。
 そんな彼女はフィオレンティーナとはまだ数回の面識しかない。
 元々、エスターテ城は皇族の避暑用に造られた城で、皇族が立ち寄らない間は少人数で切り盛りされていた。ユリウスがこの城の主となることによって、王宮から使用人が選別され、こちらに身を寄せることとなった。その中にジュリアがいたらしい。
 もしかしたら帝都の方で、フィオレンティーナは子犬のような愛くるしさを持つ、年上の侍女と顔を合わせているのかもしれなかったが彼女には記憶はなく、顔を覚えて貰うほどの距離で接したことのないジュリアは、当然ながら皇女の食事の好き嫌いなど、把握していなかった。
 だから、良く晴れた暑い日の午後、冷やしたミルクを出してきたのは、彼女なりの配慮だったのだろう。
 なのに、できれば果実を(しぼ)った飲み物の方がいいと、差し出されたミルクを即座に突っ返したフィオレンティーナの態度は、ユリウスやジュリアの目には刺々しく映ったらしい。
 ジュリアは困惑顔をユリウスに向けた。言葉を交わすのではなく、瞳で意思を交わし合う二人のそれに少し嫉妬したところもあったのかも知れない。
 ――要らないから、出て行って。
 フィオレンティーナは声を張り上げ、そう叫んでしまったのだ。
『僕の可愛いティナは、とても優しい子だもの。ジュリアに意地悪をしたわけじゃないよね?』
 ユリウスの問いかけに顔を上げれば、主君の不興を買ってしまったと、泣き出しそうになっているジュリアがいた。
 自分の過ちを察知し、フィオレンティーナは叫ぶように謝っていた。
『――ごめんなさい、ジュリア』
 皇女の口から滑り出た謝罪に、ホッとしたようにジュリアが笑う。
『今すぐ、別の物を用意します』
『ああ、待って。ティナ、他に嫌いものは?』
 踵を返して部屋を出て行きかけたジュリアをユリウスが呼び止めた。
『えっ?』
『またジュリアが、君の苦手なものを持ってきてしまっては困るだろう?』
 ユリウスの意図に、フィオレンティーナは『ニンジン』と答えていた。言ってしまってから、己の子供っぽさに自己嫌悪に陥る。
 好き嫌いはいけません、と。宮殿で教育係に怒られることもしばしばだ。
 そんなとき、兄のリカルドが『フィーは、まだまだお子様なのだから、許してあげなよ』と、横からニンジンを掠め取って、甘やかしてくれた。
『ニンジンが嫌いなのか。では、ジュリア。ティナに、ニンジンのジュースではない、別のものを用意してね』
 くすくすと笑いながら、ユリウスはジュリアに注文する。
『かしこまりました』
 ジュリアが一礼のもとに部屋を出て行って、二人きりになると、フィオレンティーナはいまだ室内に響く忍び笑いに頬を桃のように膨らませた。
『何だか、今の言い方は意地悪です、ユリウス様』
『怒った顔も可愛いよ、ティナ』
『か、からかっても駄目です』
『からかってなどいないよ、ティナ。前に会った時より、可愛く……ううん、綺麗になったね』
 テーブル越しに伸びてきたユリウスの手が、フィオレンティーナの頬を包む。彼もまた成長したのか、少し前より手のひらが大きくなったように感じられた。
 触れる体温に呼応するように、彼女の中の熱が上がる。心拍数が上昇する。
『……十三歳になりました。子供も産めるようになったんです。もう、大人なんだから、からかっても駄目なんです。ニンジンだって食べます』
 動揺しているのを悟られたくなくて、早口に並べ立てたそれが、逆に動揺を露呈(ろてい)した。
 顔に上る血を自覚するフィオレンティーナに、ユリウスは目を細め、指が彼女の唇をなぞる。
『そう、後五年か。待ち遠しいね。ニンジンも食べるの?』
『た、食べます』
 間髪入れずに答えて、それから本当に食べられるだろうか? と、不安になった。
 そんな彼女の表情を見透かしたように、ユリウスが笑う。
『うん、一杯食べて早く大きくなってね。でも、どうしても食べられないときは、こっそり僕に教えてくれるかな』
『……えっ?』
『僕が代りに食べてあげるよ』
『本当ですか?』
 思わず身を乗り出してしまってから、彼女は自分の失態に気がついた。これでは、さっきの言葉は口から出まかせだったと告白しているようなものだ。
 そして、ユリウスの優しさが兄であるリカルドと同じようなものではないかと、思えた。
『あの……ユリウス様にとって、私は妹みたいな存在なのですか?』
 五つも下の、まだ十三歳の自分に女を感じろとは言わないが、恋心ぐらいは感じて欲しいと思う。
 少なくとも、このときのフィオレンティーナは既にユリウスに恋をしていたから……。
 問いかけて、返ってくる蒼い視線にどぎまぎと、フィオレンティーナは鼓動を跳ねさせる。そんな彼女の頬に身を乗り出してきたユリウスの唇が触れた。
『――ユリウス様っ!』
 ぎょっと目を見開くフィオレンティーナを穏やかに見つめる蒼の瞳。そうして彼は、テーブルの脇を回って来ると、腕の中に彼女を抱いた。
『ティナ、君は僕の花嫁だよ。僕は君の花嫁衣装姿を今から楽しみにしている』
『はい』
『早く大きくなって、ティナ。君が僕の想いに潰れてしまわないように……』
 甘く囁く声と共に、ユリウスの腕の力が強くなった。
 幼い自分を包み込んでくれる強さと、二人の唇の重なる温度に、愛されているとフィオレンティーナは、彼の言葉を信じた。

 ……信じていられた、その頃は。


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