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 17,重なる影


 ――嫌いなんだろ。

 そう言って、ディートハルトは凍えた視線を返してきた。
 フィオレンティーナは思わず口を噤んで、空になった自分の皿に目を落とした。
 さっきまで、皿の端にのっていたオレンジ色の物体は、今は眼前の男の口の中に(さじ)で運ばれた。
 美味しいのか、美味しくないのか、一片たりとも表情を変えず、無表情でニンジンを咀嚼(そしゃく)する彼をフィオレンティーナは見つめた。
 食事の際、彼女はディートハルトに同席を求められた。いや、食事のときだけではない。彼が政務に携わっている時間以外、彼女は常に彼の傍に置かれた。
 目を離してはいられない――そんな感じだった。
 何をしろという指示はなく、ただ蒼い瞳がフィオレンティーナの動きを終始、監視していた。
 目を離せば、ユリウスを追って自殺するとでも思っているのだろうか。
 シュヴァーン王国の宮殿に身を寄せてから、どれくらい過ぎただろう。部屋の中に閉じ込められているような状況では、正確な日数はわからない。両手の指を折るほどには過ぎたと思われるが……。
 そうして過ごす日々は、ここが帝国ではないのだと、何かにつけて教えられた。この食事の時間もそうだ。
 フィオレンティーナが暮らしていたカナーリオ帝国とは料理も、しきたりも微妙に違った。
 今までディートハルトは、一人で食事をとっていたらしい。
 父や兄たちと――ときに、客人たちを交え、会話が弾ませながら大人数と食事をとっていたフィオレンティーナは、ディートハルトと二人、向き合って、食事をすることに戸惑った。
 シュヴァーン王国は寒冷地に属しているせいか、厨房と食堂は壁一枚を隔てた近さにあった。暖気を逃さないためか、一つ一つの部屋が帝国より一回り小さな造りだった。
 国王専用の食堂というより、ディートハルト専用だろう。幾らなんでも、歴代の国王がこのような場所で、晩餐を取っていたとは思えない――部屋もさほど広くなく、テーブルも向かい合えば手が届く大きさだ。これもまた料理を冷まさない配慮からだろう。皿は一品一品、出てきた。
 皿が綺麗に空になったのを見越して、給仕係が厨房から料理を出してくるので、平らげなければ、次は要らないものと判断されるようだった。
 そうして、朝昼晩と、初めの皿は野菜をたっぷり煮込んだスープがよく食卓に出てくる。かわり映えしないメニューは、この国の恵みの薄さを物語っているのだろう。
 根菜は長持ちしやすいので、ある程度予測していたが……。
 温かく白い湯気を立てるスープの中には、フィオレンティーナが幼少の頃から苦手にしていたニンジンが、存在を主張するように、毎度顔を覗かせていた。
 数日は、食欲がないとスープを半分残していたが……そろそろ、その言い訳も通じそうにない。あまり、食べないでいると断食自殺を疑われそうだ。それにフィオレンティーナ自身、小食による空腹がこたえてきた。
 生きると決めた以上、こんなところで犬死はできない――そう心に言い聞かせる。
 ユリウスのためと決めた生であったが、侍女のジュリアもまた、フィオレンティーナが生きて守らなければならない自国民だった。
 自分が死ねば、ジュリアは用無しとして、ディートハルトに切り捨てられる可能性があるのだ。
 彼女のためにも多少の辛酸(しんさん)はなめようと心に決めていた。
 だからと、好んで苦手なニンジンを口にしたいとは思わなかったが――ディートハルトの目の前で、ニンジンが苦手だとも言いたくなった。
 子供染みていると自分でも思うのだが、ディートハルトにそう思われるのはしゃくだった。
 その思い出は何よりも、ユリウスと兄リカルドに繋がる。大切な思い出を仇であるディートハルトの介入によって、(けが)されたくない。
 しかし、食べようと決意したものの手が動かず、最終的にニンジンが皿の上に残ってしまった。
 頭や心は前向きなのに、身体が拒絶する。原因はわかっていたが、それでも弱みを見せたくないのに――どうしても、身体が受け入れてくれない。
 悔しさに唇を噛むフィオレンティーナを向かいに腰掛けたディートハルトの視線が捉えると、腕が伸びてきた。
 びくりと、肩を震わせるフィオレンティーナに一瞥をくれると、彼の手にある匙が皿からニンジンをさらい、彼の口にオレンジ色の物体は運ばれていた。
 ――嫌いなんだろ、と。
 詰まらなそうに言うと、彼は咀嚼し、匙を置いた。それを合図に給仕係が皿を引き、しばらくして香ばしい匂いを立てる肉料理が食卓に並べられる。
 ディートハルトの行為に、呆然としているフィオレンティーナを無視して、彼はナイフで肉を切り分け、黙々と口に運ぶ。
 ちらりと蒼い瞳が返ってきて、慌てて彼女は視線を逸らし、目の前に置かれた肉料理に手をつけた。
 ……今、一瞬……。
 フィオレンティーナは胸の奥からこみ上げてきた感情を、口の中の肉と共に嚥下(えんか)した。
 ……ユリウス様に見えた……。
 面影は同じでも、別人だと言い聞かせた。 
ディートハルトの漆黒の髪は、ユリウスの白銀の髪とは異なる。何度も自分に言い聞かせ、もう見慣れたはずなのに……。
 遠い過去のユリウスと、重なって見えた。
 フィオレンティーナのニンジン嫌いをユリウスもジュリアも承知していたが、彼らは敢えて彼女の皿からオレンジ色の野菜を取り除くことはなかった。フィオレンティーナ自身がユリウスとつり合えるような大人になりたいと、好き嫌いの克服に励んだ。
『――今日もがんばってみようか、ティナ?』
 そうして、ユリウスの穏やかな笑みに促され、フィオレンティーナはニンジン嫌いを何度となく克服しようとしたが、結局果たせなかった。
 後で話に聞かされたのだが、幼い頃にフィオレンティーナは毒を盛られていたらしい。
『フィーがまだ物心が付く前のことだから、覚えていなくても当然だろうが。三日三晩、苦しんでいたよ。そのときのことが身体に沁みついて、ニンジンに反応してしまうんだろうね』
 ニンジンが食べられないことで、ユリウスに嫌われやしないかと、リカルドに相談すれば、兄が語ってくれたのだった。
『ユリウス王子には私から話しておくから、気にするんじゃないよ、フィー』
 兄の優しさを感じながら、フィオレンティーナはそれでもニンジンを食べることに挑戦したが、毎回、徒労に終わった。
 そうして、食べられなかったニンジンはユリウスの口に運ばれた。
 飢えが原因で帝国に戦争を仕掛けたシュヴァーン王国であるから、宮殿に住まい、食料に不自由しなかっただろうユリウスでも、食べ残すことへの抵抗があったらしい。
『――嫌いならしょうがないよ』
 こちらを慰めながら、それでも深く考えるように咀嚼するユリウスの面は、感情を失くしたように無表情で……正に、少し前のディートハルトのようだった。
 ……いくら顔が同じでも……。
 もう、見間違えたりしないはず。見間違えるはずがない……。
 それなのに、見間違えてしまった自分にフィオレンティーナは動揺し、ユリウスの影に涙がこぼれそうになった。
 そして、ユリウスの存在を塗りつぶそうとするディートハルトに、強い反感を抱く。
 ……この人は、私をどうしたいのだろう。
 食事を終えると、部屋に連れ戻され二人きり。
 フィオレンティーナはどこに身を置いてよいのかわからず、既に定位置になった猫足細工の優雅な寝椅子に腰かけて、ぼんやりと考える。
 ディートハルトはこの後、会議でもあるのか、衣装室から堅苦しそうな上着を引っ張り出して来ては、袖を通していた。そんな姿をビロードの肌触りのよいクッションに身を預けて、見るともなしに見つめる。
 後宮には、フィオレンティーナ専用の部屋が二年前から用意されていると、ジュリアから聞いていたのに、彼女はここに連れてこられてから食事と湯浴みのとき以外、ディートハルトの部屋から出ていない。
 風呂も彼専用の風呂場で湯を使わされていた。眠るのも、ディートハルトの寝台だ。彼の腕に抱かれて眠っている。
 もっとも、最初の夜同様に、ディートハルトがフィオレンティーナの身体を求めてくることはなく、彼女の純潔は守られていた。
 ユリウスを憎むディートハルトの腕の中で、フィオレンティーナは毎夜、ユリウスと過ごしたエスターテ城での日々を夢に見た。
 その皮肉は、ディートハルトに対して、最高の意趣返しではないかとフィオレンティーナは思う反面、思い出が、優しい夢が、復讐の道具のようになってしまうのが居た堪れなかった。
 それでも、ディートハルトは彼女を片時も離さず、フィオレンティーナ自身は囚人の身である。
 羽ばたくための翼をもがれ、足に鎖が繋がれた鳥は、自由がない。籠の中に身を置くしかなかった。
 結果、部屋の外ではディートハルトがフィオレンティーナの肉に溺れていると噂が立っていることをジュリアから聞いた。
 食事や湯浴みの時間以外、誰とも接しない。外界との接点は唯一、ジュリアだけであったから、何でもいい、自分や帝国に関する話を仕入れるように頼んでいた。
 そうして聞かされたのは、下世話な噂。
 帝国からこちら、フィオレンティーナを護送する役目についていた赤毛の将校アルベルトが、
「そんなに皇女がいいのか?」
 と、会議に出るディートハルトを迎えに来た際、意味深な笑みを浮かべて問いかけを投げたのを閉じられたドア越し、鍵が掛けられる音の狭間に聞いた瞬間、身体中の血が冷たく凍った。
 ジュリアから、アルベルトがディートハルトの幼馴染みであることを聞かされた。そうして、側近と呼べる存在であることを聞いていた。そんな将校の、からかうような下卑た笑い声がフィオレンティーナの内耳で反響した。
 ……馬鹿馬鹿しい。私は……。
 二人の足音が遠く去っていくのを背中に聞いて、フィオレンティーナは踵を返す。
 外野の無粋な想像を心の内で吐き捨て、ディートハルトの寝室へ飛び込み、頭から毛布を被った。
 侮辱にもとれる噂など、既に覚悟し諦めていたから、今さら自分を傷つけやしない。
 そう、思っていた……。
 心が守れるのなら、身体を穢されても(いと)わない、と。
 だけど、穢された事実もないのに、悪意は容赦なく彼女を踏みつける。彼女の本質を否定する。
 フィオレンティーナがディートハルトにまだ穢されていないことを知っているのは、傍に仕えているジュリアだけだ。しかし彼女とて、主君の寝床を口外するわけにはいかないだろう。言ったところで、敵国であった帝国の民であるジュリアの言葉に耳を傾けてなどくれないだろう。
 ジュリアは、血の気の失せた唇を震わせながら報告してくれた。
 遠くから囁かれるそれらは人の深層心理に滲んだ陰湿な悪意なだけに、自分がどれだけ疎んじられているのか、如実に伝えてきた。
 目の前で貶されようものなら反論もできるだろうが、抵抗も出来ない檻の外から、フィオレンティーナを嘲笑う。
 そんな現実に、溢れる涙が彼女自身を裏切って、シーツを濡らした。


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