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 18,守護者


 ――姫様をお助けください。

 栗色の瞳の女は、そうディートハルトを前に、手のひらを組んで懇願(こんがん)した。
 二年前の侵攻の際、エスターテ城で捕らえた捕虜の女は、いずれ迎えるフィオレンティーナの身の回りの世話をさせるつもりで、シュヴァーン王国へと連れてきた。
 捕虜の始末をどうする? と、フェリクスに問われたとき、変わった女がいると聞かされた。
 エスターテ城で頭に負った傷やそれ以外にも外傷がもとで、半月ほど床に就いていたディートハルトは自分を監視するような――幼馴染みの顔すら忘れてしまったのだから、目が離せないと思われて当然か――宰相の目を逃れたくて、捕虜の見聞に向かい、そこで女を見つけた。
 捕虜として捕えられたエスターテ城の使用人たちは、自分はただ雇われていただけだと命乞いをする中で、栗色の瞳の女だけが黙秘を続け、皇族への忠義を貫こうとしていた。
 他の捕虜からの話に寄れば、その女――ジュリアは、ユリウスをはじめ、皇族に直接仕えていたという話だった。
『……フィオレンティーナを知っているか?』
 ジュリアを前にディートハルトが口を開けば、無言を通していた女の虚勢は崩れた。
『――姫様をお助けくださいっ! フィオレンティーナ様を、リカルド様をお助けくださいっ! 心お優しい方々です。決して、シュヴァーンに牙を剥くことはなさいません。ですからどうか、お助けを……っ』
 牢獄の鉄格子に縋って泣くジュリアを、ディートハルトはフェリクスに言って、シュヴァーンに送るように手配させた。
 そして約二年の月日を経て、己が主との再会に涙を流した侍女は実に甲斐甲斐しく、フィオレンティーナの世話をしていた。
 他人の介入を嫌い、ディートハルトはジュリアに部屋の掃除から他の召使がする仕事のすべてを言いつけ、食事などの時間以外は極力、他の使用人たちを近寄らせないようにした。そのせいもあったのだろうか、フィオレンティーナとディートハルトが淫らな情事を夜毎繰り返しているというデマが広がったのは。
 ジュリアが『姫様をお助けください』と、ディートハルトに切羽詰まるように直訴してきたのは、フィオレンティーナが王宮に身を置いて、十日ばかりが過ぎたときだった。
 何事だと眉をひそめれば、フィオレンティーナが食事をまともにとっていないと言う。
 フィオレンティーナの食が細さはディートハルトも気づいていた。
 単に食欲がないのか、こちらへの当てつけか。もう暫く様子を見て、改善されない場合は無理矢理にでも食をとらせなければならないだろうと、考えていた。
 日を重ねるごとに、フィオレンティーナが自分にもたらす癒しの効果を、ディートハルトが実感すれば、ユリウスへの復讐のためではなく、自分自身のために彼女を死なせるわけにはいかない。
『何か、口に運びやすいものを……』
 作らせて――と、続けようとしたディートハルトの言葉をジュリアは鋭く切った。
『いいえ、陛下と同じものを姫様に』
『毒入りの心配をしているのか?』
『……僭越(せんえつ)ながら、姫様は……』
 僅かに言いよどんだ言葉の接ぎ穂をディートハルトは引き取った。
『この国には要らない女か?』
『………………』
 冷ややかに放ったディートハルトの言葉を、ジュリアは唇を噛み、無言によって肯定した。
 フィオレンティーナの存在をこの国で真実欲しているのは、ディートハルトだけだと言ってよいだろう。
 フェリクスは利用価値を見出しているようだが、それとて、彼女がディートハルトの子を産むことを条件にしている。
 そして、狡猾な宰相は計画通りにいかなくても、シュヴァーン王国の大陸進出を積極的に推し進めるだろう。
 雪に深く閉ざされるため、この国の男たちは他国へ傭兵として出稼ぎに出るのが常だ。そんな男たちを自国で食べさせることができれば、シュヴァーンの軍は大陸でも一、二の強軍として各国を脅かす存在になる――と、フェリクスは考えているらしい。
 それが果たして机上の空論で終わるか、否か。
 カナーリオ帝国から奪った領土から、接収できる金額次第だ。兵たちに、それ相応の武器を与えれば、何よりも己の家族と国のため、戦に賭ける意気込みは傭兵時代とは桁が変わるだろう。
 それは、数年の帝国支配に反発していた国民意識からも伺えた。
 あっさりと、人質として囚われたユリウスを裏切ったディートハルトを新たな王と迎え入れたことから、シュヴァーンの民は帝国支配の下で唇を噛んでいたのだとわかる。
 記憶を失くしたディートハルトにとっては、すべて他人事のように遠い感情だったが。
 支配された屈辱はそのまま恨みとなって、フィオレンティーナに向けられれば、彼女を亡き者にせんとする輩は掃いて捨てるほどいるだろう。
 他にも彼女を厭う理由は山ほどある。
 そうして、皇女と同じくカナーリオ帝国の人間であるジュリアはこの二年の月日で、嫌というほど帝国への憎悪をぶつけられてきたに違いない。
 ユリウスへの憎悪を抱えているディートハルトにすれば、他人の闇を想像するのは実に容易い。
 恨みは簡単に人を殺す。憎悪は良識すら凌駕(りょうが)する。
 ディートハルトが抱えた憎悪は現に、一国を滅ぼした。
 フィオレンティーナに差し向けられる小さな悪意も、積もり積もれば彼女を滅ぼしかねない。
 監視しやすいように自分の部屋にフィオレンティーナを閉じ込めたが、彼女に差し向けられる害意から守るためにも、まだしばらく、閉じ込めて置く必要性を感じた。
『毒殺の心配をしても、実際に何も食えなければこのまま朽ちるだろう』
 手の内から逃れようとする鳥を、籠の中に閉じ込めても、鳥は歌わない。啼かない。
 いずれ、籠の底に横たわった鳥の亡骸(なきがら)を見るしかないのか?
 苛立ちに顔をしかめるディートハルトに、ジュリアは言った。
『……姫様は……幼い頃に毒を盛られたそうです』
『……何故?』
 ディートハルトは反射的に問い返していた。
 そうして、少ない知識でカナーリオ帝国の情勢を思い返す。過去というものに直接関係のない知識は、割と残っているから不思議だった。
 自分の思い――復讐心とは別に、新王として持ち上げようとするフェリクスやヴァローナの存在を疎ましく感じていたから、自分から記憶を手放したのではないかと、思えるくらいだ。
 カナーリオ帝国の皇位継承権は皇族男児を優先し、女児にも与えられた。フィオレンティーナも有していただろうが、彼女には兄がいた。その兄が皇太子としてある以上、継承権を持つ者が皇帝の座を狙ってフィオレンティーナに毒を盛ったとは考え辛い。
 ただ……。
 平和主義者であったカナーリオの皇帝は国民に強い支持を得ていたが、戦争利権を企む貴族たちとは意を反していたと、フェリクスが語っていた。
『折角の軍隊を腐らせた時点で、帝国の未来はそう長くはなかったさ』
 と、嗤っていた宰相フェリクスの言葉。
 軽く聞き流したそれだったが、皇帝一家が帝国の貴族社会で決して快く思われていたわけではないとすれば、フィオレンティーナに向けられた害意も納得できようか。
『……それで、リカルド様にお聞きした話ですが』
 ジュリアが口にする「リカルド」という名が、フィオレンティーナの兄の名であったことをディートハルトは思い出した。
 ジュリアは牢獄の中でリカルドも助けろと言っていた。
 しかし、後の遺恨を断つために、ディートハルトが口を挟む間もなく、フェリクスが皇帝と皇太子の処刑を宣言していた。
 リカルドを生かしていたら……フィオレンティーナはまだ生きることにしがみ付けただろうか?
 (らち)もないことを考えるディートハルトの耳に『ニンジン』という言葉が聞こえ、場違いな響きに軽く目を見開いた。
『――ニンジンが食べられなくなった?』
『……こちらの食事にはそれが出てまいります。だから姫様は』
『馬鹿馬鹿しい、たかがニンジン一つで死にかけているというのか?』
 あまりにも滑稽な話に、ディートハルトは唇の端を引きつらせて嗤うが、目の前の女は真剣そのものだった。
『一度、それを口にされて苦しまれているのです、姫様は』
 ならば、それを食べないということは……フィオレンティーナは無意識に生を望んでいるということだろうか?
 その日の食卓を観察してみれば、ジュリアが言うとおり、フィオレンティーナはニンジンを前に逡巡(しゅんじゅん)していた。
 迷うように揺れる翡翠色の瞳を前に、ディートハルトが手を差し出したのは、単なる気まぐれだったのか。
 それとも……。


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