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 3,疑惑


 ……ユリウスは、本当に死んだのか?

 死んだと思っていた。殺したと思っていた。
 だが、息の根を完全に止めたとは言い難い。ただ瓦礫(がれき)の下に埋もれ、到底助からないだろうと思った。
 あの瓦礫の山の下からディートハルトのように助け出してくれる者など、ユリウスにはいなかったと思う。
 彼を守る護衛たちは、ディートハルトの剣によって、傷ついていたのだから。
 フェリクスがユリウスの亡骸を処理したと言うから、完全に信じ切っていたが……。
「――生きて、いるのか……? ……ユリウスは、本当に死んだのか?」
 と、問いかけた声は喘ぐように、かすれた。
 アルベルトが何の話をしているんだ? と、眉をひそめ不思議そうに首を傾げる隣で、フェリクスが息を呑む。肉の薄い頬が痙攣(けいれん)するように引きつった。
 その瞬間、ディートハルトは答えを見た気がした。
「ユリウスが生きている可能性があるのかっ?」
 激昂に突き動かされるように、机の天板を叩くようにして立ち上がるディートハルトをアルベルトが驚いたように、目を見開いて凝視した。
「何言ってんだよ、王子は死んだんだろっ? なあ、フェリクス?」
 確認するようにフェリクスを振り返れば、宰相は唇を引き結んで、強張った顔を返す。
「答えろ、フェリクスっ! ユリウスは生きているのかっ? お前は、俺を騙したのかっ!」
 幾ら腹黒いとはいえ、幼馴染みであった自分をフェリクスが(だま)しているとは思いたくなかった。
 だが、そんな幼馴染みを(ないが)ろにしてきたのは、他でないディートハルトだった。
 謀反という大罪に巻き込んで、記憶がなくなった途端に厄介者扱いをした。そんな関係に信頼関係の持続を期待するのは愚か者の所業か。
 何のわだかまりも見せなかったアルベルトの正気をディートハルト自身が疑ったのだ。フェリクスに裏切られていたとしても、自業自得と言える。
 大陸進出を目指す野心家のフェリクスが、ディートハルトの手綱を握れなくなったときのことを考えて、替え玉を用意するとすれば……それは容姿が瓜二つのユリウスだろう。
 フェリクスはヴァローナとの同盟を重視していた。その同盟に反意を示すまでの間、同盟の要であるディートハルトの存在は必要だ。だが、肝心のディートハルトはフィオレンティーナにだけ執着して、国政に興味を持っておらず、同盟にも頓着していなかった。
 フェリクスの野望に使えない時が来るかもれない可能性を考えるなら、ディートハルトと同じ容姿を持っているユリウスは、彼にとって死なせるに惜しい存在だ。
 死なせたと見せかけて、秘かにユリウスを助けていたと考えるのは、馬鹿げた考えだろうか。
 そうして、助けたユリウスがフェリクスの預かり知れぬところで動き出しているから、常に冷静沈着に見えた宰相も今回の報に動揺しているのではないのか?
「フェリクスっ! ユリウスは生きているのかっ?」
 再度、声を荒げて叫んだ瞬間、何か陶器かガラスのようなものが砕ける繊細な音がディートハルトの耳に入ってきた。
 弾かれるようにアルベルトが音のした方向へ走る。それは廊下へと通じる執務室の扉の向こう。
 扉を開けば、呆然と立ち尽くすフィオレンティーナと傍らで、床にばらまかれた茶器を拾おうとしている侍女のジュリアがいた。
「……フィオナ」
 アルベルトが呼びかける声も聞こえない様子のフィオレンティーナに、ディートハルトは執務机の上を乗り越え、駆け寄った。
 腕の中に抱き寄せれば、彼女は力なくディートハルトの胸にしなだれかかってきた。その細い肩を抱けば、小さく震えている。
「……レナ」
 自分だけに許された特別な名を口にすれば、翡翠色の瞳がディートハルトを見上げてくる。
「……私、あなたとたちとお茶を一緒にしようと思って」
 決して、盗み聞きをしていたわけではないと言いたいのだろうか、フィオレンティーナは言う。
「……ああ」
 ディートハルトは視線を廊下に向けた。散らばった茶器を目にし、割れた破片を拾おうとしているジュリアと目が合う。
 子犬のような侍女は、茶色の大きな目に不安の色を浮かべている。二人の様子から、今の会話が聞かれていたことは間違いないだろう。
「怪我をするから、止めておけ」
 ディートハルトはジュリアを制した。震える指先が今にも陶器の破片で、傷つきそうだ。その声に驚いたように彼女は手を引っ込めた。
「アルベルト、誰かを呼んでここを片付けさせろ。ジュリア、お前も一緒に話を聞け」
 フィオレンティーナの肩を抱いて、ディートハルトは彼女を室内に導く。
 アルベルトが入れ違うように廊下に出て、ジュリアの肩を押して室内に入れると、場を片付けさせる者を呼びに行った。
 静かにドアが閉じられる音を聞いて、ディートハルトは執務室の壁際に据えた猫足細工の長椅子にフィオレンティーナを座らせた。
 その彼女の前に片膝をついて、フィオレンティーナの手を取る。
「……レナ」
 そっと呼びかければ、彼女は涙に濡れた翡翠の瞳を返してきた。
「……私」
「すまない、レナ。こんな……」
 ディートハルトは二の句に迷う。
 彼女が泣いているのは、ユリウスが生きている可能性を見つけてしまったからだろうか。それとも、そのことに動揺してしまった自分をこちらに見せたことに対してか。
 きっと、フィオレンティーナの瞳には不安そうにしている自分が映っているだろうと思う。
 ユリウスが生きていれば……フィオレンティーナは自分の手の内から飛び立ってしまう。
 そのことに恐れを抱いたからこそ、ディートハルトは平静を装えず、声を荒げてしまった。だから、ドア向こうのフィオレンティーナの耳に入り、彼女を驚かせてしまった。
「……俺は」
 俯いたディートハルトの頬を柔らかな指が包む。顔を上げれば、翡翠の瞳がそっと微笑んだ。
「動揺して、ごめんなさい」
「何故、謝る? 悪いのはレナじゃない。……俺が」
 もっと慎重に対処すべきだったのだ。
 ただでさえ、砦が陥落したという報はこちらに動揺をもたらした。フィオレンティーナの耳にだけ注意すべきという問題ではなかったのだ。
 それを考えもなしに、声を荒立てた時点で、自分の失態だとディートハルトは唇を噛んだ。
「私のことを考えてくれたから、その真偽を確かめようとしたのでしょう?」
 そう問いかけてくるフィオレンティーナに、ディートハルトは蒼い瞳を揺らして言葉に迷った。
 恐らく、それは違う。彼女を失う恐れと、フェリクスに裏切られているかもしれない事実に怒りを覚えたのだ。
 ユリウスの存在がどうかなんて、関係なかった。
 過去、あれほど自分を苦しめた異母弟への憎悪の念は、今のディートハルトの中には不思議なほど残っていない。
 フィオレンティーナの心に残っている面影に嫉妬する以外、脅威とは感じていなかった。
 死んだ人間相手に、どうあがいたところで勝負を挑めない。まして、ユリウスを冥府に送ったのは他ならぬ自分だ。
 持て余す嫉妬心を糧に、フィオレンティーナの幸福だった頃の記憶を塗り替えるくらいの(さち)を彼女に与えるのだと、意気込むことぐらいしか、ユリウスとは対決できない。
 ディートハルトの中でユリウスは既に過去の人間だった。
 だからユリウスの名を騙る者が現れても、鼻先で(わら)えた。
 しかし、砦を落とした仮面の大将がユリウス本人かも知れないとなれば……。
 ディートハルトは己が頬を包むフィオレンティーナの手を剥がして、肩越しに背後に立つフェリクスを振り返った。
「――フェリクス、先程の問いに答えろ」
 ディートハルトはフェリクスを睨みつけながら、返答を待つ。
 ――お前は、俺を騙したのか?
 冷たい蒼い瞳の視線を前に、やがてフェリクスは首を横に振った。琥珀色の瞳で受け止めて、応える。
「私はお前を騙したりはしていない。ユリウス王子の亡骸は回収した……つもりだ」
 語尾が微かに迷うようにかすれた。
「つもり、だと?」
「ああ、私は瓦礫の下から王子と思われる亡骸を回収した」
 そう言って、フェリクスはフィオレンティーナに目を向ける。そして痛ましそうに、目を伏せた。
「思われるというのは、何だ? どうして、ユリウスと断定しない?」
 声を荒げるディートハルトを制するように、フィオレンティーナの指が彼の腕を掴んだ。
 瞳を返せば、彼女は小さく首を振った。責めるな、と言っているようで、ディートハルトは唇を結ぶ。
 代わりに、フィオレンティーナがフェリクスへ問いかけた。
「……フェリクス、私に気を使わないで。ユリウス様の亡骸は……」
 ゆるりと顔を上げた宰相は、小さく吐息をついて、声を絞り出した。
「フィオナ、あなたが推察するとおり……瓦礫に押し潰された王子の亡骸は、損傷が激しく……お顔を確認すること、叶いませんでした」
 その死体の姿を想像したのか、フィオレンティーナの顔から血の気が失せ、支えを失った身体が揺れた。
 抱きとめようと慌てて腕を伸ばしたディートハルトの胸に、意識を失ったフィオレンティーナの華奢な肢体が寄りかかってきた。


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