4,息づくもの ――逢いたかったよ、ティナ。 懐かしい声がそう告げて、フィオレンティーナに微笑みかけた。 鉄格子の嵌まった窓を背にし、白い美貌を穏やかに緩ませる。白銀の髪が窓の外から差し込む陽光に煌めき、蒼い瞳が優しく彼女を見つめた。 「ユリウス様」 フィオレンティーナは愛しき婚約者の元へ一歩踏み出しかけて、胸に微かな違和感を覚えた。 目の前に逢いたい人がいる。なかなか逢うことを許されず、ようやく許された ――ティナ? 小首を傾げるユリウスに、フィオレンティーナは唇を開いて、言った。 「……違う。もう、私のことをそう呼んでくださるユリウス様は……いないわ」 呆然と呟く声を他人事のように聞きながら、どこか 私……。 戸惑うフィオレンティーナの耳に、ユリウスの声が響く。 ――レナ……。 ユリウスと同じ声。だけど、ユリウスとは違う名で、フィオレンティーナを呼ぶのが誰なのか、彼女の意識が認識したとき、目の前のユリウスの 白銀の髪が、闇に濡れたような漆黒の髪へと変化した。 白い美貌はそのままに、だけれど、蒼い瞳は不安そうな陰りを覗かせて、フィオレンティーナを見つめている。 「……ディートハルト」 名を呼べば、安堵したように息をこぼす彼がいた。 「大丈夫か?」 武骨な指がフィオレンティーナの頬に掛った蜂蜜色の髪を払い、唇に触れる。指の腹が薔薇色の彼女の唇をなぞれば、乾いた唇に気づいたらしい。ディートハルトは脇に置いていた水差しをとり、グラスに注ぐ。流れる水がグラスの内側で泡を作り踊った。 透明な水越しに、フィオレンティーナはこの場所がディートハルトの執務室ではなく、寝室であることを知った。身体が沈みこむような柔らかい寝具が横になった彼女の身体を優しく受け止めていた。 「私……」 「意識を失ったから、部屋へ戻した。寝ているといい。喉、乾いていないか?」 「少し」 水を満たしたグラスを差し出してきたディートハルトは、フィオレンティーナが上半身を起こすと、彼女の背後に柔らかなクッションを割り込ませる。 甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼に、フィオレンティーナは思わず口元を緩めた。 初めて出会ったときに――彼にしてみたら、二度目らしいが――比べたら、ディートハルトは随分と変貌したと言えるだろう。 冷酷な瞳と 頭を打ったことで失くした記憶は戻ってはいないけれど、ディートハルトは幼少の頃に出会った皇女への恋心だけは取り戻しているようだった。 『あいつは、たった一人にしか、優しく出来ないんだよ』 不器用な幼馴染みのことをそう語ったアルベルトの言葉を思い出す。 ディートハルトの不器用さは、多くの人間を巻き込み、国を滅ぼしたけれど。 それでも、人としてその行いを間違いだと断罪するには余りも情が深い一面を見せつけられると、フィオレンティーナは胸が苦しくなるような切なさを覚えるのだ。 どうして、私たちは誰も傷つけずに、出会えなかったのだろう。 ここに辿り着いた過程と、戦場などで散って逝った人たちのことを思えば、この出会いを幸せだと言うことに けれど、出会わなければ良かったと言うには、ディートハルトの存在はフィオレンティーナの中で大きくなり過ぎていた。 かつて心の底から慕い、愛したユリウスと同じくらいに――。 だから、ユリウスが生きているかもしれないという言葉を聞いて、フィオレンティーナは動揺した。 そうして、取り乱してしまった自分を責めずにいてくれたディートハルトに、フィオレンティーナもまた、冷静さを取り戻した。 水を一口含んで、こくりと喉を潤す。冷たい水が身体の内に沁みて、心が落ち着いてゆく。 「私が意識を失ってから、あなたはフェリクスに、詳細を訊いたの?」 「いや、ずっとここに。レナの傍にいた」 寝台の端に腰かけて、ディートハルトはフィオレンティーナと向かい合う。 蒼い瞳の陰りは濃く、落ち着いた声音とは裏腹に彼の不安を雄弁に物語っていた。 グラスをチェストの上に置き、寝具の上にのせたディートハルトの手に、自分の手を重ねて、フィオレンティーナは身を乗り出す。 「フェリクスに、もう一度話を聞きましょう? 大丈夫、彼はあなたを裏切ってなどいないわ」 フィオレンティーナの言葉を受けると、漆黒の長い髪の下でディートハルトはピクリと眉を動かし、声を不機嫌そうに尖らせた。 「どうして、そう思う。あいつは……国を動かすためなら、何だってするぞ。ヴァローナとの政略結婚を勧めてきたのも奴だ。俺にはレナしか要らないのがわかっていながら」 昔の話を持ち出してくるディートハルトに、フィオレンティーナは目を瞬かせた。 皇女として育てられたフィオレンティーナには、結婚は国策の一つだという認識がある。それを感情論で片付けようとするディートハルトが、まだ少し理解できない。 彼とて王族として育てられた。ただ、誰にも必要とされず期待されなかったから、駒として動かされることを、皇族の宿命と受け止めるフィオレンティーナとは根本的なところで意識が違うようだ。 「フェリクスは自分が王になりたいわけじゃないの。彼は彼の立場で、あなたの国を守るために働いてくれているわ」 「俺の意志を無視して?」 「王が道を誤るようなら、それを正すのも宰相の役目でしょう?」 過去、幼馴染であるディートハルトの暴走を止められなかった。その後悔がフェリクスの胸に巣食っているのをフィオレンティーナは知っていた。 同じく、ディートハルト自身も、帝国を滅ぼしたことに対して、こちらに罪悪感を抱いていることも知っている。 そんな二人の心根を知ってしまったから、仇であるディートハルトをフィオレンティーナは憎み切れずに、許してしまった。 そして、償おうとしている彼らを信じられると思う。過ちを認められない人間は信用できないが、悔いることを知っている人間とは話し合いが可能だ。立場を知れば、色々なことが理解できる。 ディートハルトの過去も、フェリクスの思想も、フィオレンティーナには理解できた。 だからこそ、フェリクスがディートハルトを裏切っていないと思えた。 彼があの日、語った言葉はきっと本物だろう。そして、今日語ったことも。 だとすれば、フィオレンティーナの中で答えは一つ。 ――ユリウス様は……。 沈みそうになるフィオレンティーナの思考をディートハルトの声が拾い上げる。 「レナは、俺がヴァローナから花嫁を 唇を尖らせんばかりの口調に、彼が拗ねていることを察した。 どうにも自分は男心に疎いらしい。 何かにつけてそう言うディートハルトに、フィオレンティーナはそんなことはないと反論してきたが。 ディートハルトのこちらへの執着をユリウスへの復讐だと、想いを告白されるまで勘違いしていた事実を思い出せば、あながち的外れな指摘でもないことに赤面する。 そして、臆面もなく恋心を表に出すディートハルトは、鈍感なフィオレンティーナには、過剰なくらいの愛情表現が必要だと思っているようだ。 「……私は」 「他の女を抱いても良いと言うのか?」 昔なら、王族として血を繋いでいく必要性に頷いただろう。感情だけでは、国は続いて行かない。 でも今は、そんな未来を想像すると、ざわりと胸の奥がざわつく。 「……そんなことは言っていません」 ざわつきが何であるか、今のフィオレンティーナはわかっていた。目の前の男がよく見せる感情だ。そして、幼い頃に覚えのある感情だった。 婚約者ユリウスを甲斐甲斐しく世話していた侍女のジュリアに向けた、嫉妬心。 愛情と表裏一体のその感情は、確実に、自分の中で根付いて息づいている存在があることを教えてくれた。 「言っているのと同じに聞こえる」 「今は、言ってないもの」 頬を赤く染めて膨れるフィオレンティーナに、ディートハルトはようやく不機嫌を解いて、笑った。繋いだ手を握り直し、持ち上げて、白い指先に唇を当てる。 「……あまり俺を 真珠のように艶やかな爪に仄かな熱を押し付けて、蒼い瞳は上目遣いに告げた。 「妬く?」 翡翠の瞳を丸くして、フィオレンティーナはディートハルト見つめ返した。今、嫉妬心をあおられたのは、彼ではなくこちらであろうに。 「さっきの言い分では、俺よりフェリクスを信用しているように聞こえた」 「……そうかしら?」 ディートハルトもフェリクスも、どちらも同じくらい信用している。彼らだけではない。アルベルトも侍女のジュリアも、フィオレンティーナにとっては自分を愛し、守り、見守ってくれる大切な人たちだ。 帝国が滅びて、何もかもを失くした手のひらが新たに掴んだ絆だ。 その存在を確認すると、フィオレンティーナは温かいものに胸の内が満たされるのを実感する。 大丈夫と、彼女は自分自身の心に囁いた。 私は一人じゃない。だから、立ち向かえるわ。 これから先に見つめなければならない現実がどんなものでも。 ――もう、私は逃げない。 |