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 5,空白の隙間


 ――姫様……。

 隣の部屋に控えていたのだろう。呼び鈴を鳴らせば、侍女のジュリアが子犬のような姿そのままに弾かれたドアの外から、駆けるようにやって来た。
「お加減は、フィオナ様っ?」
 寝台脇の床に(ひざまず)いて、ジュリアはそわそわとフィオレンティーナの身体に視線を這わせ、顔色を探る。
 その背後から、赤毛の将校アルベルトと琥珀色の瞳の宰相フェリクスが連れ立って入ってきた。
 皆、この事態に緊張しているのか、強張った顔をしているのを見て、フィオレンティーナは「ふふふっ」と柔らかく息をこぼすように笑った。
「フィオナ?」
 寝台の上に上半身を起こした姿勢で、突然笑い出した彼女を訝しげな表情で、フェリクスが探ってくる。
 アルベルトは巨漢の体躯を心持ち前屈みにして、こちらを覗いてきた。ジュリアの瞳は不安げに揺れている。
 そんな三人を見回して、フィオレンティーナは「ごめんなさい」と頭を下げて謝った。
 言葉がするりと喉の奥から滑り出る。自分を心配してくれる気遣いが嬉しくて、申し訳なくて、顔は微笑みながら、言葉は謝罪を述べていた。
「心配してくれて、ありがとう。私は大丈夫よ」
 寝台から出て、フィオレンティーナはディートハルトと並ぶようにして、端に腰かけた。
 そして、毅然と面を上げて、フェリクスに視線を当てた。
「だから、もう一度。詳しい話を聞かせて?」
「……しかし」
 フェリクスが問うような視線をディートハルトに投げる。フィオレンティーナは横を向き、蒼い瞳は陰りを残した夫の手を強く握り返した。
 ――信じて。
 声にしない想いを指先に託せば、彼の指が同じくらいの強さで握り返してきた。
「構わない、話せ。ナハティバルの砦のことも」
 抑揚のない声でディートハルトが合図を出せば、フェリクスは「わかった」と頷いて、説明してくれた。
 ナハティバルの砦が陥落したこと。その反乱軍の指揮をとっているのが、白髪に仮面の男で――ユリウスの名を(かた)っているということ。
 ディートハルトは最初、ユリウスの存在を取り合わなかったが、フェリクスの態度が不審で問いかけた結果、フィオレンティーナが廊下で立ち聞いてしまった件の言葉に繋がったこと。
『フェリクスっ! ユリウスは生きているのかっ?』
 ディートハルトの問いかけは、フィオレンティーナに衝撃を与え、同時に長年ユリウスの世話をしてきた侍女のジュリアの動揺も誘った。
 ディートハルトたちと一緒にお茶をしたいと言い出したフィオレンティーナの我が儘に、茶の準備を整えたジュリアは、ドアの向こうから聞こえてきた発言に茶器を乗せたワゴンを押し倒してしまった。
 そんなジュリアは、フェリクスの話を改めて聞いて、唇を震わせてはフィオレンティーナを涙に潤んだ瞳で振り返ってくる。
 婚約者を心の底から慕っていた幼い日のフィオレンティーナを、ジュリアはユリウスに仕えながら見守ってくれていた。
 そして今、このシュヴァーン王国でフィオレンティーナが新たに結んだ絆もまた、彼女は知っていた。
 ユリウスとディートハルト、二人が片や冥府に、片や現世にと、もう二度と相まみえることがない世界に別たれていたから、フィオレンティーナの心の天秤はどちらに対しても等しい愛情を捧げることができた。
 しかし、二人がこの世にともに存在すれば、フィオレンティーナはどちらか一つを選ばなければならない。
 諦めた幸せと、掴み直した幸せ。
 どちらがフィオレンティーナにとって、幸福になる選択か、ジュリアにはわからないだろう。当然だ。フィオレンティーナ自身にもわからなくて、動揺してしまったのだから……。
 こちらのことを親身に心配してくれる侍女に、フィオレンティーナはそっと微笑んだ。
 想いを抱いていた相手を亡くしながら、それでも託された願いを叶えるために、生きて自分の傍にいてくれるジュリアを愛しいと感じる。
 ジュリアだけではない、アルベルトもフェリクスも不器用ながら、こちらを気遣う優しさを見せてくれる。
 その一つ一つに喜びを感じ、(うつ)ろだった心が満たされたから、フィオレンティーナは今を生きていくことができた。
 失くせないものを見つけてしまったの、私は。
 己の今を再確認するように、フィオレンティーナは自分の胸元に手を当てた。身体の奥で感じる温かい熱を無視できない。
 フィオレンティーナの中で、答えはもう決まっていた。
 それをジュリアに伝えるには、まだ確認すべきことがあるだろう。
 フェリクスに視線を戻して、先を促した。
「続けて。フェリクスがユリウス様の生存を疑ったのは……ご遺体のお顔が、ユリウス様と確認できなかったからね?」
「ええ、そうです」
「何故、疑う? ユリウスは……俺が殺した」
 ディートハルトの声が低く唸ると同時に、フィオレンティーナの指を掴む手に力がこもる。その事実が彼の妻となったフィオレンティーナとの間に溝を作るような気がしているのだろう。
 幼き恋心を見失い、ユリウスを憎んでいた頃の彼は、フィオレンティーナを傷つけることに何の躊躇(ちゅうちょ)もしなかった。ナイフで切りつけるかのように、「俺がユリウスを殺した」と、残酷に事実を突き付けてきたときもあった。
 だが、今は違う。お互いの関係が変わった。ユリウスに対する憎悪も彼のなかで失せた現在、命を奪ってしまったことへの悔恨がディートハルトの声を暗く淀ませるのだ。
「お前が殺したつもりになっていても、最終的に生死を確認したわけではないだろう。私にしてもそうだ。崩壊した城からユリウス王子と思しき亡骸を回収したにすぎない。それが王子であると断定はできない」
 ディートハルトはユリウスを殺したと思い込んでいるようだが、ユリウスの死は――今の時点ではユリウスと思われる遺体と言うべきだろうか――瓦礫(がれき)の下敷きになったことによる圧死ということだった。
 ユリウスの肉体にディートハルトが傷つけた創傷は致命傷ではなかったと、フィオレンティーナはフェリクスから聞いていた。ただ、その事実をフェリクスはディートハルトに対して告げるつもりはないようなので、彼女もまた黙っていた。
 フェリクスは再びディートハルトが暴走しないように、フィオレンティーナに対する罪悪感を彼に対して重しにしようとしているようだった。
「……髪の色は?」
 アルベルトが口を挟んで、フェリクスを見る。
「ユリウス王子の髪は銀だっただろ? こっちでは多いが、帝国だと珍しい髪の色だろ。エスターテ城で王子の死体と間違う死体はそうなかったはずだぜ。シュヴァーンの人間だったら、軍服を着ているからな」
「髪の色も判別できなかった。血と泥に塗れていた。服装については、軍服姿でなかったことは確かだが……今改めて考えると、作為的に王子の死を偽った可能性も無視できない」
「誰が? 誰が、ユリウスを生かす?」
 ――お前か? 幼馴染みに鋭い視線を当てるディートハルトをフィオレンティーナは諌めるように、彼の手を引っ張った。
「フェリクスは違うわ」
「どうして?」
「フェリクス自身がそれを行ったのなら、簡単にあなたを疑わせたりしないでしょう?」
「そりゃそうだ。フィオナの言うとおり」
 ゲラゲラと笑うアルベルトを睨みつけながら、ディートハルトは言った。
「それすら、フェリクスの策だとしたら? 自分を確実に安全圏に置くために、一度疑わせる。容疑が晴れた奴を二度三度と疑う者はいなだろうからな」
 二重三重の罠を疑るほどに、ディートハルトはフェリクスを腹黒い人間だと決めつけているようだ。
 同時に、アルベルトもハッとしたように笑いを納めて、疑惑の目で従兄を見つめる。
 幼馴染みたちに、そこまで疑われるフェリクスに、フィオレンティーナは呆れた。
 確かに何を考えているのかわからないよう、仮面の笑顔を見せる男ではあるが……そこまで、信用が薄いのか。
 フェリクスはフィオレンティーナの表情を前に、苦笑した。
「どうやら、私の味方はフィオナ、あなただけのようだ」
 肩を竦める宰相は、何もかもを自分の胸の内に留めて、策を(ろう)そうとする。周りの人間を信用していないわけではなく、すべてを自分で背負おうとするから、誤解が生じるのだ。
 三人の幼馴染み仲間で、一番年上であったからこそ、ディートハルトの暴走を止められず、それでも彼を見捨てられなかった責任を感じているのだろう。
 どこまでも誠実であるが故に、心を打ち明けない策士の失態にフィオレンティーナは笑って呟いた。
「少し、行いを改めた方がよさそうね、フェリクス」


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