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 6,亡霊


 ――あなたは、人が好すぎるわ。

 フィオレンティーナの言葉に、フェリクスは細い目をこれでもかというくらい、驚きに見開いた。
 ディートハルトは突然、何を言い出すのかとまじまじと妻の横顔を見つめる。
 蜂蜜色の波うつ髪に包まれた美貌は、少女期の(はかな)さを脱いで、意志の強さを翡翠の瞳の奥に秘めた大人の女性へと変えていた。
 真っ直ぐに伸びた背筋が凛然とした印象を与え、ディートハルトの手のひらのなかにいた小鳥は、いまやその(けが)れなき翼を大きく広げ、清らかな湖水に女王の如く君臨する白鳥のように、優雅に微笑む。
「レナは……フェリクスを人が好いと言うのか?」
 時々、フィオレンティーナの感覚が常人とズレたところにある気がしていたが。腹黒の宰相を人が好いと解釈するのは、何か違う気がする、と。
 ディートハルトは確認するように、問う。
 フィオレンティーナはこくりと頷いて、アルベルトに目を向けた。
「そうよね?」
「……まあ、お人好しと言えば……多分」
 アルベルトがもごもごと口元をまごつかせながら答えた。
「どこが? こいつは厭味(いやみ)ばかり言う奴だぞ」
 ディートハルトはアルベルトの言葉を受けて、思わずフェリクスを指差した。アルベルトとフェリクスは従兄弟関係にあるが、血の繋がりを前にしても、フェリクスの舌鋒(ぜっぽう)はアルベルトに対しても容赦がない。
 常に、ディートハルトから冷たい言葉を浴びせられているアルベルトには、フェリクスの厭味が皮肉とならなくなったのだろうか。
「ディートハルト、私はむやみやたらに、厭味を言っているわけじゃない。私はそれが必要だと思うから、多少、棘のある物言いをするだけだ」
「多少?」
 毒を含んで、針のように刺す棘は、ちくりと突き刺しては身体の内側をじわりじくりと膿ませる。処置が遅れれば、命にも関わるだろう、毒だ。多少なんて言葉で、片付くような易いものか。
 顔を顰めるディートハルトに、
「言われるだけの行いを自分がしているのだと、省みるのだな」
 どこか開き直ったような口調で、フェリクスはディートハルトに皮肉な笑みを返す。
 それから表情を改めて、フィオレンティーナを見つめた。
「フィオナ、私がユリウス王子と思しき亡骸を回収したとき、死体は完全にこと切れていた。それだけは確かです。だが、あの亡骸がユリウス王子だったとは断言できません。あなたにはその事実がどのような意味を持つのか、わかりませんが」
 ユリウスの生死がハッキリしないことに、希望を見出すか、絶望するか。
 琥珀色の瞳はフィオレンティーナを見つめて、暗に問うていた。
 ――もし、ユリウスが生存していたら、どうするのか?
 部屋の温度が少し低くなったような気がした。沈黙が重たく、肩に圧し掛かってくるようで、ディートハルトは息苦しさを覚えた。
「……ユリウス様は、お亡くなりになっているわ」
 ぽつりと、フィオレンティーナが告げた。
「何故、そう思われるのです?」
「誰が、ユリウス様を助けたの? あなたたちシュヴァーンの軍勢に支配されたエスターテ城で、ユリウス様を助けてくれるような人はいた? フェリクス、あなたはユリウス様が瓦礫(がれき)の下で息をしていたのなら、ユリウス様を助けた?」
 問いかけ、確認するように見回す翡翠の瞳に、フェリクスとアルベルトは渋面を作って、目を伏せる。
 ディートハルトに味方した二人は、本来仕えるべき王子を裏切ったのだ。
 反帝国の気運が王国内で高まっていたとしても、謀叛(むほん)は謀叛である。
「状況によるでしょう。……あの時、ディートハルト自身、怪我を負っていました。王家の血を絶やしてはならないと考えた者がいるならば、ユリウス王子をお助けするかも知れません」
「そうして、お前はユリウスを助けたのか? 俺の後釜に据えるために? お前はユリウスの遺体を焼いたな? それはユリウス本人の死体ではないことを隠すためじゃないのか?」
 フェリクスにディートハルトは詰め寄るよう問いを重ねた。琥珀色の視線を返して、彼は慎重な口調で語る。
「先程から言っているように、私は亡骸としか、対面してはいない。王子の亡骸を火葬したのは、シュヴァーンに搬送する負担を減らすためだ。私はお前が怪我を負ったという報を聞いて、陣を出た。それからお前の意識が戻るまで、エスターテ城に入っていない。他の者も、負傷兵や捕虜の面倒を見ることで手いっぱいで、瓦礫の下に埋もれた王子にかまけている場合ではなかった。……亡骸を回収したのは、半日後。私が行ったときには、繰り返すが、亡骸だった」
「ならば、他の誰かが……」
 元々、エスターテ城の急襲は少数で行われたと、フェリクスは口を開いた。
「その軍勢はディートハルト、お前の王位簒奪(さんだつ)に手を貸した者たちだ。ユリウス王子を裏切ったような者たちが、お前を前にして、ユリウス王子を助けるとは正直に言って、考えられない。そして、そんな暇もなかっただろう」
 王位を簒奪したその足で、エスターテ城に向かったようなものだったと、フェリクスは言う。
 ディートハルト自身は記憶を失くしたので、天幕の下で目覚める以前のことは覚えていない。
 ただ、フィオレンティーナを欲していた過去の自分は、無謀を承知で突き進んだことだろう。その後始末をフェリクスとアルベルトがしてくれたわけだ。
「ただ、絶対にあり得ないとは言い切れない。捕虜と、城にいたはずの人数とは一致しませんでした。最上階以外にも崩れた部分があったので、遺体を回収できなかった可能性もありますが、行方不明者はいる。だから、反乱軍の中にユリウス王子の名を聞いて、私はその行方不明者がユリウス王子である可能性を考えた。可能性としては……フィオナ、仮面の男がユリウス王子ではないとは、断言できないはすだ」
「――いいえ、ユリウス様ではないわ」
 きっぱりと言い切るように、フィオレンティーナは声を響かせた。
「フェリクス、あなたが言ったのよ。その亡骸には、ディートハルトが傷をつけた創傷があったと」
 フィオレンティーナの発言に、フェリクスの視線がちらとディートハルトを見た。
 今の会話から察するに、二人はこちらの耳に届かないところで、ユリウスの死について話し合ったらしい。
「……そうですが。ディートハルトからユリウス王子の生存を隠すには、それぐらいの小細工は……」
「誰が? ユリウス様を助けようとしたその人は、ディートハルトがユリウス様を憎んでいたことを知っている人よね? 帝国の人間はそんなことは知らないわ。そして、ユリウス様をただ助けるのなら、偽装する必要はないのではなくて?」
「ユリウス様をお助けたのはシュヴァーンの方ということですか?」
 ジュリアが誰かれともなしに問う。
 彼女の主であるフィオレンティーナはユリウスの生存を諦めているようだが、侍女のジュリアはまだ疑問があるらしい。
 実際にエスターテ城にいて、シュヴァーン軍の強襲を受けた場にジュリアはいて、シュヴァーンの兵に捕らえられている。
 敵味方の混乱を知っているのだろう。騒然とした場で、誰もユリウスを気にする者がいなかったのなら、助けだす隙はあったのだとジュリアの発言は告げているようなものだ。
 しかし、シュヴァーンの軍人が助けたというのは、フェリクスの言い分を聞けば低い。帝国支配を疎んでいたシュヴァーンの人間は、ディートハルトの王位簒奪を黙認したのだ。
 新たなる王が怪我をして倒れたとはいえ、ユリウスをこちらの目から隠してまで助けるだろうか?
 後々、ユリウスを駒として利用することを考えれば、生かす価値はあるだろう。しかし、そこまで積極的に政治に関与しようという人間が、エスターテ城襲撃の軍勢の中にいたとすれば、それはフェリクス以外に考えられない。
 だが、彼が関与していないと言うのなら……。
 ――ユリウスは死んでいるのか?
「なら、ユリウス王子は死んだ? フィオナが言っているみたいに? あっ、……ユリウス王子本人が自力で逃げ出したっていうのは?」
 アルベルトが思い当ったように、言った。ディートハルトは短絡的な彼に脱力しそうになった。
「お前は馬鹿か。どうやって、瓦礫の下から這い出ると言うんだ?」
「わかんねぇじゃん。隙間があったら、助かっているかも。ディートハルトが救い出されて、フェリクスが王子の死体を見つけるまでの間に入れ替わっていると考えているけど、そうじゃなかったら? お前が生き埋めになって、助け出される間、城内は戦闘状態だった。時間はあったはずだし、止めを刺したかどうかなんて、わかんねぇだろ? だったら、王子は自力で、逃げたのかも」
「だから、お前は馬鹿なんだ。代わりとなる死体があったから、ユリウスは死んだと思われた。入れ替わりがなされているならば、ユリウスは他の死体を用意しなければならなかった」
 ――第一にと、ディートハルトは思う。
 ユリウスが生き残ったとして、彼を殺そうとした自分の生死を確認せずに逃げ出すだろうか。
 生き埋めになったこちらに気づかなかったのか。
 その可能性はあるだろう。だから、死体を偽装したのか?
 生きていることを知られれば、また命を狙われる。ディートハルトの憎悪を目の当たりにして、実際に殺されかけたのなら、生き延びるために、ユリウスは傷を負いながら何でもしたのではないだろうか?
 ユリウスの身体を剣で貫いたディートハルトに、反撃してきた剣は、最後に一矢報いる捨て身の覚悟ではなく、生き残ろうとした執念であったとしたら、偽装を企てる動機として十分に考えられる。
 偽装する死体はエスターテ城にはあった。ユリウスを護衛するために、立ちはだかった者たちをディートハルト自身が斬り捨てていた。
 生死を確認せず、ただひたすらに最上階を目指したであろう自分を思えば、斬られた者たちのなかには、生き残った者もいるかもしれず、その者が瓦礫の下から這い出てきたユリウスに手を貸したとしたら、偽装にかかった重労働も――死体が偽装された訳にも、納得できる答えが出せる。
 城内に転がっていた死体の顔を潰して、脇腹に傷をつけ偽物に仕立て上げ……ユリウスは生き残ったのか?
 そして今、フィオレンティーナを取り戻すために、再び姿を現した?
 アルベルトの言の穴を埋めて想像すれば、ディートハルトはユリウスの亡霊が血と肉を持ち、冥界から(よみがえ)って来るような幻影に囚われた。


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