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 7,信じる心


 ――ユリウス様ではないわ……。

 フィオレンティーナは、蒼ざめたディートハルトの横顔に告げた。
 空いた方の手を夫の頬に伸ばし、蒼い瞳を自分の方に向けさせながら、フィオレンティーナは繰り返す。
「ユリウス様はお亡くなりになったの」
 息を呑むディートハルトは、真っ直ぐに視線を返して、やがて苦しそうな重たい息を吐いた。
「……レナ」
 深刻な顔つきを見れば、彼がどんな結論に辿り着いたのか、フィオレンティーナにはわかる気がした。その道筋は、フィオレンティーナ自身が辿ったものだ。ただ、行きついた答えは彼とは違うものになり、ディートハルトはユリウスの生存を半ば、信じてしまった。
 蒼い瞳の陰りがいっそう濃く、握った手が震えている。随分と物わかりが良くなったような気がしていたが、子供のような部分はディートハルトの中に残っている。
 独占欲と嫉妬(しっと)。ディートハルトがフィオレンティーナに執着するのは、そこにしか、縋るものがないのだ。
 愛された記憶はなく、愛したのはただ一人だけ。
 彼を見守る幼馴染みたちの存在は、ディートハルトの中では失われた記憶によって、不確かなものになってしまった。
 信じていいのか、頼っていいのか、わからない。
 だから、裏切られないようにと、彼らに対する態度を改めているけれど、動揺する場面ではまだ一つ信じきれないでいるのだ。それは過去の己の行いを過ちと自覚しているからこそだろう。
 ――大丈夫、誰もあなたを裏切っていないわ。
 フィオレンティーナは囁くように、ディートハルトの震える手を握りしめ、冷たくなった彼の指先を温める。
 フェリクスがユリウスの亡骸を火葬したのは、恐らく遺体の損傷が正視に耐えかねるほど激しかったからだろう。
 その遺体をシュヴァーン国内に搬送し戻すのは困難と感じたから、火葬した。
 それはユリウスに対する、フェリクスなりの誠意の表れだったとフィオレンティーナは思う。
 フェリクスは、シュヴァーン王国とカナーリオ帝国の二国間に起こった戦争の終結を決定づけるために、フィオレンティーナの父と兄を処刑した。
 そのことを思い出せば心に動揺が走る。けれど、首を切られた皇帝と皇太子は、後に丁重に埋葬されたと聞いている。
 国を背負う以上は、命を奪う場面もあるだろう。その場合、温情を見せるのが困難なときもあるのだということを、今現在のフィオレンティーナは知っている。
 フィオレンティーナの父、アーネリオ皇帝も彼女には優しい父ではあったが、皇帝として厳格な一面も見せていた。
 ユリウスを人質として、エスターテ城に閉じ込めたのも、政治的な意図を知らしめるためだったのかもしれない。
 執政者が優しければ、付け入られる隙を作ることになる。フェリクスはそれを知っているから、自分の内側に踏み込ませないよう、皮肉屋を演じているのではないか。
 ――王子の死は圧死でした。
 フェリクスが、フィオレンティーナに話してくれたユリウスの死の真相。
 顔が潰れていたことを告げなかったのは、死体の無残さでフィオレンティーナを傷つけまいとしたからに違いない。今ならそう確信できる。
 皮肉を操るフェリクスは、誰よりも言葉に敏感だ。
 王宮でフェリクスと初めて対面したとき、彼の言葉の裏を読ませる発言に、フィオレンティーナは嫌な汗をかかされた。
 しかし、彼の発言によって矜持(きょうじ)が支えられた一面もあった。誰もが見ている中で、無様に泣いていれば、周りの人間はあからさまに嘲笑(ちょうしょう)したことだろう。もし、あの瞬間、そんなことになっていたらフィオレンティーナの心は修復が不可能なくらい砕けていた気がする。
 あの時は、疎まれていたと思う。だけど、毒に屈せず、立ち直ったフィオレンティーナにフェリクスは今、対等な位置で向き合ってくれていることを彼女は確信していた。
 そんなフェリクスは自分が放つ言葉の毒を理解している。相手に与える衝撃を緩和(かんわ)するために言わずに済むことを口にしない場合もある。
 暗黙の了解のもとに意図的に人を動かすことで、時に狡猾ととられるようだが、フェリクスの視野が人より一手も二手も先を読んでいるだけだ。
 今のディートハルトに、自分を信じろと言ったところで、無意味だし、逆に信じきれないでいる彼を追い詰める結果になりかねない。そのことを知っているから、事実だけを述べ、無駄な言い訳を口にしない。
 挑発し動かすための言葉は幾らでも吐けるだろうが、本当に傷つけかねない言葉をフェリクスは使わないだろう。人を動かす以上、肝心の相手の意気地を挫いて動けなくしてしまったら、意味がない。
 そう思えるから、ディートハルトの代わりにフィオレンティーナはフェリクスを信じることにした。
 彼の言葉を信じ、そして自分が知っているユリウスの人となりを考えれば、フィオレンティーナはディートハルトと違う答えに辿り着いたのだ。
 ――エスターテ城で、ユリウス様は亡くなった……。
 悲しいけれど、それが事実だとフィオレンティーナは冷静な頭で思う。
 穏やかで、優しかった婚約者が、生き残るためとはいえ、誰かを犠牲にしたとは思えない。
 例え、それが死者であったとしても、遺体を傷つけるなど――しない。するはずがない。
 ……ユリウス様はそんなお方じゃないわ。
 エスターテ城の豪奢(ごうしゃ)な檻に閉じ込められた世継ぎの王子は、国のために自由を捨て、囚われることを、犠牲になることを受け入れたのだ。
 輝かしい未来を失っても、それでも穏やかにフィオレンティーナを包んでくれたその腕が、優しい手が、血に汚れたなどとは考えられない。
 本当は、エスターテ城が陥落し、彼の訃報を聞いたときから、既にフィオレンティーナの中では決定づけられていたことだった。
 何度、希望に縋ろうとしても、どれだけ生存を願っても。
 自分が知っているユリウスという人を思えば思うほど、フィオレンティーナの中でユリウスの死は確定されていった。ただ、ユリウスの心の在り処がどこにあったのかわからなくなってしまった時、一度、彼のことを見失ってしまったけれど。
 フィオレンティーナの中に芽吹いたディートハルトへの想いが、憎しみの中にも生まれてくる感情があることを教えてくれたとき、国同士が敵対しながらも自分を優しく包みこんでくれたユリウスの愛情を確信した。
 だから、フィオレンティーナはユリウスの死を受け入れる。ユリウスという人を信じる。
「ユリウス様ではないの。ユリウス様じゃないわ」
 フィオレンティーナは言い聞かせるように、告げた。
 彼女の言葉を受け止める者たちの表情を見れば、あまり説得力がないようだった。感情に頼った結論であるから、致し方がないのかもしれない。
 沈黙の重さに、フィオレンティーナも唇を閉ざせば、
「……じゃあ、ユリウス王子の名前を騙ったのは、こっちの動揺を誘うためか?」
 アルベルトが軍人の顔つきで、問う。
 軍に籍を置く彼にしてみれば、ユリウスの生死より、反乱軍の動向の方が重要だろう。アルベルトの切り替えの早さは、短い付き合いでもフィオレンティーナの知るところだ。
「恐らく……」
「なあ、どうする? 討伐軍は俺が指揮するか? 偽物なら、お前が直々に相手をしてやる必要はないだろう――それにお前は」
 見るからに動揺しているディートハルトを前に、アルベルトが気遣いを見せた。
 それを受けて、ディートハルトは顎を持ち上げ、顔を起こした。額で漆黒の髪を揺らして、首を振る。
 寝台から立ち上がって、アルベルトと向かい合う。
「いや、俺が行く。本物だろうが偽物だろうが、関係ない。正統な後継者ではないにしても、この国は――俺の国だ。俺がすべてを片付ける。ナハティバルに一番近い駐屯基地はどこだ? どれだけの兵を派遣できるか、調べさせろ」
「調べるまでもない。ドロッセルの要塞だ。一連隊が陣取っているから、二、三中隊は動かせるだろう。他には?」
 アルベルトが即座に反応する。普段は快活で直情的な人間だが、軍事面になると人が変わる。戦場では赤獅子と恐れられているという話をフィオレンティーナは思い出した。
「ナハティバルの砦の情報があるのならこちらに回せ。ユリウスの名をこれ以上、聞かされるのはごめんだ。早急に決着をつけたいから、ここから出る兵はなるだけ少なくして、迅速に動きたい。どの隊が使える?」
「アルノーの騎馬中隊が、一番動きが早い。ただ、砦内での戦闘となると騎馬隊は不向きだ。クルトの中隊を連れて行け。あの部隊は歩兵を中心に組んでいる。ナハティバルの西にあるザフィーアの湖の近くに陣を敷け。確か、湖から流れる支流がナハティバルの砦に流れ込んでいるはずだ。ドロッセルの要塞から騎兵隊を派遣するよう伝書鳩を飛ばす、お前のことなら、先陣で勝負をつけるだろうが、後片付けもあるだろうからな。後からカールの中隊を送る。それでいいな?」
 討伐に関してのことを次々と決めていったディートハルトは、思い出したようにフィオレンティーナを振り返った。
 蒼い瞳が極力感情を抑えて、フィオレンティーナを見つめる。
 感情を押し殺した瞳を前に、彼女はディートハルトに手を伸ばしていた。
 まるで何も映していないかのような瞳が、自分と彼との間に途方もない距離を作りそうで、ディートハルトの腕を縋るように掴んでいた。瞬間、一つの可能性が頭の中を過った。
「ああ。アルベルト、お前はいつもの通りレナの護衛を……」
 ディートハルトのその言葉を遮って、フィオレンティーナは言った。
「待って、私も連れて行って」


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