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 8,翡翠の瞳


 ――私も連れて行って。

 フィオレンティーナの言葉が意味するところを理解するのに、ディートハルトは時間がかかった。
 先に彼女の言葉に反応したのは、侍女のジュリアだった。慌てたように、フィオレンティーナに(すが)る。
「とんでもありませんっ! 駄目です、フィオナ様っ! そんな戦場へなど危険ですっ!」
「そうだぜ、フィオナ。危ないところに行こうだなんて、何考えてんだよ?」
「フィオナ、あなたは王妃です。ご自身の立場を弁えてください」
 三人に寄って囲まれたフィオレンティーナは、頭ごなしに拒否されて救いを求めるような目でディートハルトを見つめてきた。
「……どうして?」
 ディートハルトは喘ぐように問い返していた。
 フィオレンティーナは、ユリウスは死んだと言う。だが、その言葉はどこか、言い聞かせるような響きを持っていた。
 死んだのだと、告げるのはこちらに対してのように聞こえた。
 同時に、フィオレンティーナ自身がそう自分に言い聞かせているような気がしてならなかった。
 本当は、信じていないのではないか?
 それを確かめるために、同行したいと言い出したのではないのか?
 一度、疑りだせば、何を信じていいのか、わからない。
 フィオレンティーナは自分を愛してくれていると言った。だが、ユリウスが生きていたらどうだ? 帰りたいのではないか?
 本来、結ばれるはずだった男の元へ――。
 そして、自分は捨てられるのか。
「駄目だ、レナ。お前はここにいろ」
 どこにも行くな、そう叫びたくなるのを押し殺して、ディートハルトは首を振った。
「我が儘だって、わかっているわ。それでも、お願い。連れて行って……」
 一人にしないで、と言ったように聞こえたのは幻聴だろう。
 フィオレンティーナの唇は音を出さずに動いては、同じ言葉を繰り返す。
「私も連れて行って」
「――駄目だ。危険なんだ、わかるだろうっ?」
 危険なのは言うまでもないが、フィオレンティーナをユリウスに近づけたくない心が先に立って、ディートハルトは声を荒げる。
「……お願いよ、連れて行って」
「何でそんなに……」
 ユリウスに逢いたいのか、と――こぼれそうになる本音をディートハルトは、唇をつぐんでせき止めた。奥歯をぎりと鳴らして、堪えた。
「あなたが心配なの……」
 ほろりと翡翠の瞳から真珠大の涙の一粒、フィオレンティーナのきめ細かい肌の上を弾かれて流れ落ちる。
「あなたを一人にしたくない」
 弱い心を見透かされた気がした。一つしか拠り所を持たない自分の弱さを突き付けられた気がした。
 昔から、何一つ変わっていない自分を晒された気がして、ディートハルトは息を呑む。
 そして、フィオレンティーナの寛容なまでに慈悲深い愛情は、あまりにも弱い自分に対しての同情ではないかと、思ってしまった。
 その瞬間、身体中の血が凍りつく。愛されていると思ったのは、錯覚か。
 彼女はユリウスと同じ容姿のこの自分に、婚約者の影を重ねたのではないか?
 揺らぐ自信に、身体さえも揺れているような気がして、膝が笑う。崩れそうになる。目の前が暗くなりかけたその時、
「ディートハルト」
 フィオレンティーナの声が名を呼ぶ。
 弾かれるように視線を返せば、強い声と眼差しの強さに射竦められて、ディートハルトはフィオレンティーナに問いかけていた。
「レナ……。俺はお前を信じていいか?」
 一歩距離を縮めて睫毛に溜まった涙を指先で拭ってやると、
「ええ。私を信じて」
 ふわりと微笑む彼女の眩さに、闇に包まれかけていたディートハルトの心は救われた。
 ――信じたい。
 ユリウスなんてどうでもいい、彼女がいれば。その言葉があれば。
「ああ」
 翡翠の瞳に引き寄せられるように、ディートハルトは両手に彼女の頬を包んだ。薔薇(ばら)色の唇に自分の唇を重ねて、熱を確かめる。
 息をするのも忘れるように唇を合わせて、フィオレンティーナの背中にまわした腕で彼女の身体を抱きしめた瞬間、
「……へ、陛下……」
 耳に割って入ってきたどもり声に、ディートハルトは我に返る。同時に、フィオレンティーナも周囲の目を思い出したように、こちらの胸を突いて、慌てて離れた。
 離れていく温度に寂しさを覚えつつ声のした方向に目をやれば、ジュリアが真っ赤に顔を染めて俯いていた。その背後でアルベルトが面白そうにニヤニヤと笑い、フェリクスは心底呆れたように冷淡な瞳を向けてくる。
「――――出て行け」
 ディートハルトは反射的に腕を持ち上げドアを指差し、命令した。見られたことの恥ずかしさより、今は心底、彼らが邪魔だった。
 一刻も早く、先程の続きをしたいと身体が訴えている。幸いに、寝台はそこにある。
 ジュリアがくるりと踵を返して慌てて出て行こうとするが、フェリクスが止めた。
「フィオナ。確認しますが、本当に同行する気ですか? もうこの男に、心配する必要はない気がしますよ」
 口付けの一つで立ち直ったディートハルトを揶揄するように、フェリクスはフィオレンティーナに目を向ける。
 赤く火照った頬を両手に包んで恥じらっていたフィオレンティーナは慌てて姿勢を正して、頷いた。
「お願い、私を行軍に同行させて。確かめたいことがあるの」
「確かめたいこと?」
 それはユリウスのことかと、再び疑惑に囚われそうになるディートハルトを知ってか、知らずか、フィオレンティーナは続けた。
「――こちらを動揺させるために、ユリウス様の名を(かた)ったのだと言ったわね? でも、それだけが目的なの?」
「どういうことです?」
 フェリクスが問い質す。アルベルトとジュリアは口を挟まず、首を傾げた。
「ユリウス様の名前を出すことによって、抽象的だけれど何かを伝えてきているような気がするの」
「何を伝えると言うのです? ユリウス王子の生存ですか?」
「少なくともそれを疑わせることによって、彼らは呼び出そうとしているのかも知れない。ユリウス様の婚約者であった私か」
「……フィオナを?」
 琥珀色の瞳を眇めて、フェリクスは唸った。
「もしくは……ユリウス様の地位を奪ったディートハルトを」
 フィオレンティーナの発言に、彼女以外の三対の目がディートハルトに突き刺さる。今まで内乱鎮圧の際、軍を率いてきたのはディートハルト自身だった。
 当然、今回もディートハルトが出陣するのが当たり前だと思っていたから、フェリクスもそこまで考えなかったのだろう。
 眉間に皺を寄せて確認するように呟いた。
「ディートハルトを誘き出す罠?」
 その声を聞いて、ディートハルトは腹の内側に重量を感じた。
 フィオレンティーナ呼び寄せようとするのならともかく、自分を呼び寄せようとするのなら、反乱軍の目的は間違いなく復讐だろう。
「もしそうなら、私はディートハルトを一人にしたくない。そして、私に用があるというのなら……私は、元帝国皇女として彼らが伝えようとしていることを知りたいわ」
「馬鹿な、罠とわかっていて、二人を出せると思っているのですか? アルベルト、お前が討伐軍の指揮を()れ。ディートハルト、お前はここに留まれ。そうすれば、フィオナとて同行するとは言えないはずだ」
 フェリクスが瞬時に、先程の決定を覆した。
 内乱を鎮圧するためのディートハルトが城を空けている間、フィオレンティーナの護衛として残っていたアルベルトは、久々の前線に「任せろ」というように、腕をぐるりと回す。
 慌てた様子のフィオレンティーナがフェリクスの腕に縋って、首を振る。
「フェリクスっ、駄目。お願い、行かせて。危ない真似はしないと誓うわ。私が同行すれば、ディートハルトも私を置いていけないはず。私は鎖になるの」
 アルベルトとジュリアは困惑した顔で二人を見やり、ディートハルトにどうするんだと言いたげな視線を投げてくる。
 ディートハルトとしては戦場になるかもしれない場所に――物量的に考えれば、砦を落とすのはそう難しくないだろうが――フィオレンティーナを連れて行きたくはない。
 だが、彼女を一人置いて行くのも躊躇(ためら)われた。
 今離れてしまっては、結んだ信頼が(ほど)けてしまうような気がした。
 しかし、だからとディートハルトはここに留まることを選べない。相手がこちらへの復讐を企んでいるのなら、その感情を受け止めなければならない義務があるだろう。
 討たれるつもりは毛頭ないが、逃げることだけはしたくない。
「とどめて置きたければ、ここにいなさい」
「でも、ここでは彼らの声は聞こえてこないでしょう? 私は彼らに聞きたいの、何を求めるのか」
 知らなければいけないと思うの――と、フィオレンティーナは翡翠の瞳に決意を浮かべて言った。


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