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 9,呼び声


 ――レナ……。

 特別な名前を呼ばれる。ただそれだけで、胸が躍る。
 そんな日が来るなんて、雪に埋もれて命を断とうとしたあの日には思わなかった。
 フィオレンティーナは昔のことを思い出し、現在の自分にそっと微笑む。
 ――幸せになって欲しいよ。
 幸福を願ってくれた亡き兄に、今なら「幸せです」と答えられるだろうか。だが、自分一人が幸を感じられても、共に歩いてくれる相手が惑っていては駄目だろうとも思う。
 ……だから、私は。
 静かな闇が降り注ぐ夜の狭間に、土を踏んで近づいてくる足音がした。
「レナ、ここに居たのか。まだ風が冷たい――天幕に戻ろう」
 夜闇を映し、銀の星屑を散らした湖面を眺めていたフィオレンティーナを背後から抱きよせる腕に、彼女は抵抗せずに身を任せた。
 背中に触れた体温を感じながら、腰に回されたディートハルトの腕に手を重ねる。
「星が綺麗ね」
 同意を求めて呟けば、ディートハルトの温かい息がフィオレンティーナの耳を撫でた。
「お前の方が綺麗だ」
 熱い吐息が耳から、身体の内側へと沁み込む。上昇する体温に、春を迎えたばかりの夜風が頬に冷たく感じる。外気と自分の体温との温度差に、彼の言葉に動揺しているのがわかって、フィオレンティーナは慌てた。
「……不意打ちでからかうのは……ずるいわ」
「からかってなどいない。そうやって、おかしな方向に解釈しようとするから、直接的に言っているのに――どうして、いつも納得しないんだ」
 鈍感なフィオレンティーナには直接的な言葉を口にしないと通じないのだと、ディートハルトは言う。
「星の方が綺麗よ?」
「星なんか見たって、つまらない。俺はレナだけ見えていればいい」
 甘い言葉が背筋を撫でる。武骨な指が蜂蜜色の髪を掻きわけて、首筋に熱が触れた。
「……そ、そうやって、視界を狭めているから、大切なことが見えなくなるの」
 胸から飛びだしそうになっている心臓を押さえつけて、フィオレンティーナは冷静さを装いつつ口を開いた。
「大切なことって?」
「色々なことよ、とても大切なこと。あなたを見守ってくれる人たちとか」
「…………そんなもの、いない」
 フィオレンティーナの肩に顔を埋めて、ぼそりとディートハルトは呟く。表情は見えないが、不貞腐れているのが手に取るようにわかった。
 誰からも無視されて育った彼は、自分が誰かに愛されるとは思っていないのか。
 拗ねているときの彼は子供っぽくって、フィオレンティーナの母性本能を少しくすぐる。
 肩に乗った漆黒の髪を撫でて、フィオレンティーナは声をおどけさせた。
「あら、私は違うと言うの?」
「レナだけだ」
 訂正するように言って、抱きしめた腕に力を込める。
「それは違うわよ?」
 少なくとも彼の二人の幼馴染みは、ディートハルトの孤独を理解していた。フィオレンティーナに執着することでしか、己を支えられなかったことを知っている。
 ディートハルトの選んだ道が正しくないとわかっていても、同じく茨の道を歩くことを選んだ。
 そして今は、ディートハルトとフィオレンティーナを見守り、支えてくれている。
 結局、フェリクスはフィオレンティーナの我が儘を許し、ディートハルトの行軍に同行することを許してくれた。代わりに、護衛としてアルベルトと身の回りの世話をするためにジュリアも同行することになった。
 赤獅子の名を先方に知らしめるため、アルベルトも一隊を率いることとなり、少数で進軍するはずだった討伐軍は、当初の予定より大幅に膨れ上がった。
 ザフィーアの湖の岸辺に敷いた討伐軍の陣営は松明のかがり火を煌々と燃やし、夜の闇を明るく照らしていた。まるで一つの街が一夜にして出来上がったように対岸は、ざわめいている。
 護衛兵を置き、ぐるりと湖の岸を半周し、一般兵たちの陣営から少し離れたところに、ディートハルトとフィオレンティーナの天幕が設えられたが、こちらにまで人々の声が聞こえてくる。
 兵たちの士気を高めるために、今宵は少量であるが酒が振る舞われているという話だった。
 戦闘前に酔っ払って大丈夫かと首を傾げれば、アルベルトは反乱軍の兵力を考えれば、敵は砦から出て来られないという。砦に籠もる以外に、彼らには戦う術はないということだった。
 それにこの遠征は演習を兼ねている。ここで、軍内の規律を乱しかねない者を徹底的に洗うつもりだとアルベルトはニヤリと笑った。
 フェリクスもアルベルトも、出征に軍事費が出されている以上、今回の遠征を無駄にするつもりはないようだ。
『あの兵力で、今さらディートハルトの体制が覆せるなんて、思っていないでしょう。フィオナ、あなたの言うとおり、反乱軍は何か主張したいことがあるのかも知れません。もしくは、ユリウス王子の名前に呼応する者たちを探しているのか』
 ナハティバルの砦を陥落させた反乱軍の情報が少しずつ明らかになれば、フェリクスもフィオレンティーナの発言に耳を傾けてくれた。
 ディートハルトの体制に反発する陣営を集めるための旗印として、ユリウス王子の名を騙ったのかも知れませんね、と。
『――兵力を見せつけるには、いい機会ですよ』
 そうして、フェリクスは出陣するフィオレンティーナを前に、皮肉に唇を歪めた。
 圧倒的な兵力を前に、相手が投降してくれば、それにこしたことはないと、フェリクスはフィオレンティーナの我が儘を前に折れた自分を納得させているようだった。
『これだけの兵力を維持できる国力を、今のシュヴァーンは有している。それは国内の反抗勢力だけではなく、諸外国に対する外交の切り札にもなります。軍事力は戦時においてのものだけではない、それは帝国でお育ちのフィオナも承知しているでしょう?』
 平和主義を謳う帝国の軍事力は、他国に対する侵略への抑止力としての役割を担っていた。
『もっとも、理論の通じない馬鹿相手では、意味がありませんけどね』
 冷淡な目をフィオレンティーナの隣に立つディートハルトに向けて、フェリクスは最大級の厭味を口にすると、彼女たちを送り出してくれた。
 五年前に帝国に無謀にも挑んだのが、他でもないディートハルトだ。ヴァローナ王国との同盟があったから、帝国に勝利できたが、当時のシュヴァーンの国力だけでは到底、帝国には歯が立たなかっただろう。
 その二年後、帝国に勝利し、その領土をヴァローナと分け合って、新たに誕生した新生シュヴァーン王国は、ヴァローナに借りはあるものの、独り立ちしつつある。
 そのことを面白く思わなかった者が、この反乱を企てたのだろうか?
 フィオレンティーナは今回の反乱は帝国の者たちの仕業だと聞いていた。狙われた砦が元々、帝国領のものであったこともあり、砦が簡単に落ちたことから砦の事情を知っている者たちの仕業だろうとアルベルトが判断した。
 それは間違いないだろう。だが、ユリウスの名を出してきたことに、多少の違和感があった。
 ユリウスはシュヴァーンの王子だった。帝国皇女であったフィオレンティーナの婚約者であったが、彼はあくまでシュヴァーンの後継者であって、帝国を継ぐのはフィオレンティーナの兄であるリカルドであった。
 帝国の復活を求めるのであれば、ユリウスの名を騙るのは少しおかしい。ディートハルト陣営を動揺させる意図であるのなら、帝国軍の反乱ではなくシュヴァーン国内の内乱を装った方がより衝撃を与えられるのではないか。呼応する者たちも出てくるだろう。
 何かが少しズレている気がしたとき、フィオレンティーナはこの反乱は自分への呼びかけのような気がしたのだ。
「――レナ?」
 黙り込んだフィオレンティーナの意識をディートハルトの声が呼び戻す。
「何?」
「何を考えていた? ……ユリウスのことか?」
 かがり火の明かりが届かない対岸の暗がりに溶けた声が不安に揺らいでいた。
「いいえ、仮面の将のこと」
「ユリウスの……」
「偽物ね」
 きっぱりと言い切ったフィオレンティーナに対して、ディートハルトは一拍の沈黙を置く。彼はまだ、反乱軍の大将がユリウスである可能性を疑っているのだろうか?
 首を捩じらせて、フィオレンティーナは肩越しにディートハルトを振り返った。
 星明かりに照らされた白い美貌を見上げれば、夜に濡れたような漆黒の髪の間で蒼い瞳がフィオレンティーナを見下ろした。
「……どうして、偽物だと言い切るんだ? ユリウスが生きていた方が良いんじゃないのか?」
「そうね、……でも。ユリウス様であったとしても、そうでなかったとしても。あの城で誰かが亡くなったのは確かな事実よ」
 その遺体の尊厳(そんげん)をユリウスが穢したとは思わない。だから、ユリウスの名を騙る仮面の将を「偽物」だとフィオレンティーナには言い切れた。
「……俺が殺したな」
 苦しげな声が夜気に震える。
 瓦礫(がれき)の下に埋もれ、天に召されたユリウス様の死は事故死よ、と言ったところで、ディートハルトが何の慰めにもならないだろう。
 ただ、彼の内側に悔恨があるのは、悪い兆候ではない。苦しみを感じられる心は、きっと他人の痛みを理解することになる。
 愛されることを知らなかった故に、他人の痛みにディートハルトは鈍感だった。一つのことに囚われて、その他大勢の平穏を奪うことに考えが及ばず、壊すことに躊躇(ちゅうちょ)せず、傷つけることも平気だった。
 しかし、今の彼は違う。
 こちらを傷つけないようにと恐れを抱き、大切にしてくれているから、フィオレンティーナは彼を愛しいと思えた。そんな彼を支えたいと思う。
「あなたは罪を知って、償おうとしているのでしょう? 後悔は反省するために必要なことよ。でも、いつまでも後ろを見つめていたら、前へは進めないわ」
「過去」のフィオレンティーナ自身もまた、不幸な出来事に立ち止まり、悲しみから何もかもに目を伏せていた。自分の手のなかに残されていたものを知らずに、絶望に酔っていた。
 だけど、紆余曲折の果てに辿り着いた「現在」を思えば、フィオレンティーナはディートハルトにも教えてあげたかった。
 彼を見守る人たちのことを――。
 彼が一人ではなく、周りには愛すべき存在が沢山いることを――。
 それを知れば、きっと彼は二度と道を間違うことはないだろう。
「レナは俺を許してくれるのか?」
「馬鹿ね。許せない人を愛せるはずがないでしょう?」
 身体ごとディートハルトを振り返って、フィオレンティーナは彼の首に腕を回す。
「あなたはもっと知っていい。愛されているということを。「過去」に愛されていなかったからと言って、「現在」を否定しないで。皆、あなたを大切に思っているわ」
 背伸びをして唇を重ねれば、甘い熱がそれに応えた。


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