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 10,誘い


 ――使者が帰って来たぞ。

 声より先に天幕の覆いをめくって、アルベルトが顔を覗かせた。
 簡易寝台の上で眠っていたディートハルトは、飛び起きるや否や、手近に置いていた剣を鞘ごと、アルベルトに投げつけた。
「うわっ? 何するんだよっ!」
 顔面に飛んできたそれを慌てて受け止めて、アルベルトは肩を怒らせた。そうしてディートハルトを睨みかえしたところで、ギョッと水色の目を剥く。
「あ、もしかして、邪魔したか?」
 ディートハルトの横で眠っているフィオレンティーナに気づいたのだろう、アルベルトが一歩下がる。下世話な想像をしてくれているだろうその脳味噌めがけて、今度はブーツを放った。
「邪魔する以前の問題だっ!」
 夫婦の寝所に断りもなしに入ってくる時点で、間違いだと気付けと、ディートハルトは毒づく。
 その声に目が覚めたのか、ディートハルトの隣でフィオレンティーナが身を起こす。
 眠気(まなこ)をこすって、視界にいる人物を前に、金の睫毛を瞬かせる。
「……アルベルト」
「わりぃ、フィオナ。覗くつもりはなかったんだ。いや、もう帰るから、続きをどうぞ」
 手のひらをこちらに差し向けながら、後ずさって言うアルベルトの言動が何を指して語っているのか、悟ったらしい。フィオレンティーナは頬を一瞬にして、染め上げた。
「違うわっ! 何もしていないわよっ?」
 毛布を胸元に引き寄せながら、フィオレンティーナは身を縮める。夫以外の男に夜着姿を見せることに恥じらうのは、女として当然のことだろう。
 それを見越して、アルベルトを追い出そうとした自分の行いは間違っていないはずだと、ディートハルトは、もう片方のブーツを投げるべきか、否かに悩んだ。
 投げたい。あの顔面に靴底を叩きつけたい。
「えっ? でも……一緒に寝て」
「夫婦だ。一緒に寝て、何が悪い?」
 大体、フィオレンティーナとは凍った彼女を助けるために抱いて眠ったときから、同じ寝台で眠っているのだ。内乱鎮圧のため城を開けたとき以外は、毎夜共に眠っている。だからと毎夜、何かをしているわけではない。
 夫婦であるから、まったくしていないわけでもないが――少なくとも、この緊張下で行為に走るほど節操なしではない。
 女であれば誰でもいいわけではない。フィオレンティーナを愛しているからこそ、彼女の気持ちを大事にしたいのだ。
 それを男と女が同じ寝台に眠っていれば、暗黙の了解のように不埒な方向に思考を走らせるアルベルトに、ディートハルトは舌打ちした。
 過去、アルベルトの無責任な発言に、フィオレンティーナがどれだけ傷ついたか――このときに限り、自分のことは棚に上げる――思い出すと(はらわた)が煮えくりかえる。
 投げつける剣は鞘から抜くべきだった。
「ジュリアを呼べ。着替えが終わるまで、外で反省していろ」
 睨みつけたディートハルトの剣幕に恐れをなしたように、アルベルトが退散した。暫くして、ジュリアが水を張った洗面器を手に入ってきた。
「着替えが終わったら、呼んでくれ」
 軍服を身につけたディートハルトは、フィオレンティーナの着替えを手伝うジュリアにそう言い置いて天幕を出る。
 陽は思っていたよりも高く昇っていた。行軍の疲れが眠りを深くしていたのか。
 明るさに慣れていない瞳の奥、差し込んでくる陽の光に目を細めたディートハルトの前に、アルベルトが赤毛頭を掻きつつ、近寄って来た。
「わざとじゃないんだぜ? 二人とも起きていると思ったし」
「わざとだったら、あの程度で済むか。女が誰彼と起き抜けの顔を見られて喜ぶと思うのか? せめて、中の応答を待ってから入って来い。お前がそんな風に無神経だから、女に相手にされないんだと知れ」
「……いや、俺だって」
「誰か構ってくれる女がいると言うのか? 毎夜、部下たちを相手に寂しく宴会をしている男に?」
「…………これ、使者からだ」
 これ以上、異性の話題に触れたくないらしいアルベルトが書状を差し出してくる。
 昨日、砦に投降を促す使者を送った。その書状に、フィオレンティーナも帝国の人間なら大人しく投降するように一筆寄せていた。
 夜が明けて、投降勧告に対する返答が届いたようだ。
 ディートハルトは書状を開く。
 立て篭もって抗うか。投降するか。
 昨夜、湖の岸辺に焚いたかがり火の多さに、こちらの陣の規模を目にしただろう。実際の兵を見ていない以上、どこまで目にした情報を信用するか、それによって大将の程度が知れる。
 書面に並んだ文字を目で追って、ディートハルトは奥歯を鳴らした。
「何て、書いてある?」
「兵を投降させる交換条件に、皇女フィオレンティーナに面会を求めるとある」
「フィオナに? どうする? 捕らえた後に会わせる分には別に構わないだろ。無駄に戦わずに済むなら、それが良いだろ。フィオナに血の匂いなんて、嗅がせたくない」
 軍人らしからぬ発言をするアルベルトに、ディートハルトはお前に言われるまでもない、と嘆息を漏らす。
 平和主義を(うた)ったアーネリオ皇帝の娘であるフィオレンティーナもまた、平和主義者だ。シュヴァーン王国内で内乱が起こるたびに、なるだけ平和的解決を求める。
 ディートハルトとしても彼女を悲しませたくないので、ヴァローナからの援軍によって圧倒的兵力を見せつけて、相手の戦意を挫くことを第一にしていた。
 動かす軍の規模が大きければ、それだけ出費がかさむが、戦によって土地や経済が荒れて肝心の税収が減るよりはましだろう。
 内乱を起こす者たちは、ディートハルトの政策に利権を得られない金に汚い貴族たちが多かった。内乱鎮圧後はその者たちの財産を没収し、軍事費の穴を埋めたので今のところ財政に問題はない。
 今回も戦法としては同じだ。砦一つを落とすには多すぎる軍勢を見せつけてやった。ただ、この度の遠征費の穴埋めは期待できそうにないが、力を見せつけることで、今後起こりうる内乱を未然に潰せれば易いものだと、フェリクスは考えているようだ。
 アルベルトは行軍の演習になると、実践経験の薄い若い兵を紛れ込ませていた。
「……問題は会見の場が、ナハティバルの砦内ということだ」
「どういうことだ?」
「他の兵は投降させるが、大将はフィオレンティーナ直々に投降するということだ。要するに、レナに迎えに来いという――馬鹿馬鹿しい」
「こっちが呑むわけがないとわかっていて、言ってきてるのか? それとも、本気で?」
「本気のわけがあるか。投降すると言ったところで、どれだけの兵が内側にいるのか、わかっていないんだぞ? 全員投降したと言ったところで、誰がそれを確認できる? 砦内に誰も残っていないとどうやって分かれというんだ。そんなところに、レナを送り出せるはずがないだろう。それを相手もわかっているはずだ。――それでも、こんな条件を出してきたのは」
「……私に何か伝えたいことがあるということね」
 ディートハルトの言葉を引き取って、天幕から出てきたフィオレンティーナが告げた。
 戦場に赴くには不似合いの華やかなドレスにフィオレンティーナは身を包んでいた。
 彼女の荷物は、ディートハルトが目を光らせて、ジュリアにあえて目立つようなドレスを用意させた。彼女を目立たせることによって、他の者たちに守る対象を知らしめると同時に、敵の狙いがフィオレンティーナであるなら彼女に向って矢を放ってきたりしないように教えてやる必要があった。
 勿論、フィオレンティーナの傍にはディートハルトとアルベルトが張り付いて、彼女の楯になる用意をしている。
 天幕から現われたフィオレンティーナは、振り返ったディートハルトに真っ直ぐ視線を返してきた。
 その翡翠の瞳を見た瞬間、彼女が何を言わんとしているのか、ディートハルトには読めた気がした。そして、予測通りのことを彼女は言う。
「私、彼らの話を聞きたいわ」
「行かせられない。わかっているだろ? これはあくまで、伝言だ。この言葉通りのことを奴らは求めているわけじゃない」
 書状に記された条件を呑めと相手は言ってきているわけではないと、ディートハルトはフィオレンティーナに言った。
 恐らく反乱軍は、投降勧告に寄せたフィオレンティーナの一筆が本物かどうか、確かめたいのだろう。
 この場に本物のフィオレンティーナがいるのか、手掛かりが欲しいのだ。
 フィオレンティーナがシュヴァーン陣営にて、どれほどの位置にあるのか、知りたいのだろう。
 平和主義者の血を引く皇女が、今も変わらずに皇帝の意志継ぐ者であったなら、平和的解決を模索する。
 だが、フィオレンティーナが名ばかりで、王妃に迎えられていたら、彼女の意志の元にシュヴァーン軍勢が動くことはない。
「……捨て駒か」
 ディートハルトはその可能性を考えた。
 帝国復興を願うのは、皇帝一家に忠義を尽くした者たちだろう。ならば、彼らは皇帝の血を受け継ぐ最後の生き残りであるフィオレンティーナが欲しいはずだ。
 ナハティバルの砦を落としたその後、反乱軍の動きはなく砦から動こうとしなかったのは、内側にはそれほどの人間が残っていないからではないか?
 反乱軍の本体は別にあって、今回はフィオレンティーナの所在を確かめたかったのかもしれない。
 ユリウスの名を騙ったのが、フィオレンティーナを誘うためだと推測したのは、あながち間違いではなかったのだろう。
 ――勿論、ユリウス本人ではないと言う証拠もないが……。
 ディートハルトはいまだにその疑念から離れられないでいた。
 フィオレンティーナがどれだけ、ユリウスではないと否定しても、真実をこの目で確かめるまで、疑うことを止められそうにない。
 そして、ユリウスが生きているのだとしたら、ユリウス本人が、砦の内側からフィオレンティーナを呼んでいるとも考えられる。
 どちらにしても、反乱軍の狙いはディートハルトではなく、フィオレンティーナのようだ。
 そんなところへ、彼女をみすみす送り出せやしない。そう告げるディートハルトに、フィオレンティーナは頑なに言い募った。
「いいえ、行かせて。彼らがお父様の御意志を継ぐ皇女としての私を求めているのなら、私は彼らを説得できるはずよ」


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