トップへ  本棚へ  目次へ


 12,闇の底


 ――あれが、抜け道へと通じる井戸ね……。

 森の一部が開かれ、細い道筋の脇に木造の小屋が建っていた。四方の壁はなく、屋根だけの小屋の内には井戸があった。
 森を行く者たちの水飲み場と偽装しているその井戸が、ナハティバルの砦に通じる秘密の入口だ。
 本来は砦が陥落した際、逃げ道として使用するためのものだが、今回はそれを逆に辿る。
 ディートハルトは小屋の前で手綱を引いて、馬の足を止めた。
 鞍から降り、手を貸してフィオレンティーナを地面に降ろす。ドレスの裾が下草の緑の上で衣擦れの音を立てる。
「やっぱり、この格好ではあなたの足手まといにならないかしら?」
 フィオレンティーナはドレスの裾を持ち上げて、上目遣いにディートハルトを見る。
 行動するために、彼女は男装しようとしたが、ディートハルトがいつもの格好でいるように言い聞かせた。
 動きやすい恰好をさせたら、鳥のように翼をはためかせ、どこへでも飛んで行きそうだった。
「構わない。大体、説得しに行くのだろう?」
「ええ」
 こくりと、邪気のない笑みでフィオレンティーナは頷いた。
「……だから、いいんだ」
 何がいいのかわからないし、これから地下水道を通ることになるのだが、そのことには触れないでおく。
 井戸を覗きこめば、底に暗い水を湛えていた。よく目を()らせば、井戸の壁に足場が暗がりの中に隠れている。ここに抜け道があると知っていなければ、誰も気づかないだろう。
「レナ、明かりの用意を」
 ディートハルトの言葉を受けて、フィオレンティーナはランプに火を灯す。それを、水を汲むための桶に繋がった縄に結びつけて、井戸の内側を照らす。
 足場をハッキリと目視して、ディートハルトはフィオレンティーナの身体を肩に担ぎ上げた。
 人攫いのようなその担ぎ方に、フィオレンティーナが不満を漏らす。
「もう少し別の担ぎ方を考えて欲しいのだけれど」
「片手が使えるのと使えないのとでは、だいぶ違うんだ。何なら、ここから引き返してもいいんだが」
「ごめんなさい」
 殊勝に謝ってくるフィオレンティーナに、ディートハルトは嘆息をこぼし、天を仰いだ。
 どうしても、砦に乗り込むことを諦めてはくれないらしい……。
 井戸の淵に腰かけ、底へと落ちた片側の桶の綱を引き寄せて、足を絡める。綱にぶら下がるようにして、井戸の内側にもぐり、足場へと手を伸ばす。
 石壁に等間隔に並んだ穴に爪先を引っ掛けて、ディートハルトは闇に降りていく。底に辿り着くと、膝辺りで水が流れていた。
 陽の温もりを知らない水は、身を切るように冷たい。それはどこか、フィオレンティーナの温もりを知らなかった自分のようだと、ディートハルトは感じた。
 ユリウスを殺して、それでも憎悪は尽きずに、心を凍らせた。冷たい瞳で周りを睨み、近づいて来る者を酷い言葉で切りつけた。アルベルトもフェリクスも……そして、ようやく手に入れたフィオレンティーナさえも傷つけることを厭わなかった――そんな自分。
 地下水道が暗がりに伸びているのを確認して、ディートハルトは降下する途中でフィオレンティーナの手に持ち変えさせたランプを受け取る。
 身体の芯が冷えそうな水を掻き分けながら、ディートハルトは地下水道を砦の方に歩いて行く。あまりの水の冷たさに、唇が震え、息が白くなる。足先の感覚がなくなりかけたとき、水に沈まない位置に横穴が掘られ、階段らしいものが上に続いているのを光の輪の中に見つけた。
 フィオレンティーナを先に横穴に降ろして、ディートハルトは穴の淵に手を掛け、水の中から身体を引き上げた。
 転がるように横になる彼にランプを持ったフィオレンティーナが手を伸ばして、こちらの頬を包んでくる。
「大丈夫? ……冷たいわ」
 凍えたこちらの体温に怯えたように、表情を曇らせる彼女をディートハルトは抱き寄せた。フィオレンティーナの熱を奪うように、唇を重ねる。
 離れようとするフィオレンティーナの後頭部を押さえつけ、何度も噛みつくように唇を重ね、彼女の熱を吸い取ると、身体の内側から力が湧いてくる。
 凍えていた指先に感覚が戻ってきて、ホッと息を吐くようにディートハルトがフィオレンティーナを解放すると、彼女は真っ赤な顔でこちらを睨んでいた。
 ランプの赤い光に照らされた翡翠の瞳は口付けの余韻に潤んで、扇情的だ。
「……心配したのに、酷いわ」
 まとめていた髪が崩れ、蜂蜜色の髪が背中へと流れる。乱れた髪を直すように、指で梳きながら上目遣いに見つめる彼女に、ディートハルトは言い訳した。
「凍えて死にそうだった。だから」
「だから?」
「レナに生気を分けて貰った。おかげで、温まった」
 途中から目的が変わっていような気がするが、些細な問題だろう。
 柔らかな唇の感触を思い出して笑うディートハルトに、フィオレンティーナは不安そうに声を揺らす。
「…………大丈夫? 元気になった?」
「ああ、ここでレナを押し倒したいくらいに」
 半分ほど本音を混ぜて言えば、どんと胸を拳で叩かれた。
 不意打ちだったこともあって、結構痛い。
 その拳の強さが、フィオレンティーナがこちらを本気で心配してくれた証であることを肋骨に響いた激痛に感じる。
「馬鹿っ!」
 くるりと踵を返して、階段を上ろうとするフィオレンティーナをディートハルトは背中から抱きしめた。
「……レナ」
 名前を呼んで、彼女を強く抱きしめる。その力の強さに、フィオレンティーナは僅かに身を捩った。
「どうしたの?」
 ディートハルトの声には切羽詰まったような響きがあった。それを聡く察したのだろう。フィオレンティーナが何事かと問うように、肩越しに振り返ってきた。
「俺は……仮面の男はユリウスだと思っていた。そして、レナがここに来ることにこだわったのは、ユリウスに逢いたいからだと思っていた」
「……それは違うわ。ユリウス様は」
「ああ、レナの話を聞いて、俺も確信した。ユリウスは奴を殺そうとした俺を前にしても、逃げなかった。命乞いをするべき場面でも、あいつはお前だけは譲れないと俺に歯向かってきたんだ」
 逃げ場などない状況で、ユリウスは憎悪を剥き出しにしたこちらに真正面から向き合った。そんな男がフィオレンティーナだけを砦に寄越せと言ってきた違和感にディートハルトはようやく気づく。
 ユリウスが生きているのなら、ここにフィオレンティーナが来ていると知ったのなら、殺されるとわかっていても姿を現しただろう。
「……そう」
 俯いて、彼女は小さく応えた。
「あいつは生きていたら、真正面から俺に挑んできたと思う。こんな小細工なんてせずに、自分の危険なんて省みずに、レナのところに帰ろうとしただろう」
 ぽつりと、フィオレンティーの身体を抱いたディートハルトの手に、涙がこぼれおちてきた。
「――今、俺はあいつを殺したことを後悔している。俺も真正面からユリウスに向かい合っていれば良かった。あいつに正々堂々と決闘でも申し込んで、そうして俺の方がレナに相応しいんだと思い知らせてやれば良かった。それから、帝国でも何でも敵に回して、レナを連れ去れば良かった」
「私を誘拐するの?」
 くすりと響かせた笑い声に涙をにじませながら、フィオレンティーナが問う。
「誘拐じゃない。駆け落ちだ。きっと、レナはユリウスより俺の方を選んだに違いない」
 ディートハルトも彼女に合わせて笑いながら、言った。
 ありえない過去を語る己の愚かしさに、(わら)う。けれど、今は切実に思う。叶うなら、過去をやり直したい。
 フィオレンティーナを傷つけずに、愛したかった。
 彼女がいつでも笑っていられるような形で、再会したかった。
「それはどうかしら?」
「ユリウスを選んだか?」
 フィオレンティーナの華奢な肩を抱く。
「あの頃の私はユリウス様しか知らなかったから。でも、あなたと出会っていたら……どうなのかしら? 想像つかないわ」
 声に迷いが含まれるは、現在の彼女がディートハルトを愛してくれている証だろう。
 ユリウスを想いながら、それでも彼女はこちらを受け入れてくれた。
「絶対に俺を選んだ。俺は何でもユリウスより勝っていたんだ。誰も俺を選ばなくて……レナ、お前だけが俺を見つけてくれた。だからきっと、俺を選んでくれた。殺したりせず、ちゃんと勝負すれば良かった。そうすれば、疑わずに済んだ。いつも不安にならずに済んだのに」
「まだ、私のことを信じていなかったの?」
 呆れたというような響きが、フィオレンティーナの声に混じった。
「自分が仕出かしたことを思い出せば思い出すほど、本当に愛されているのかわからなくなる。不安になる……」
「それでも私を愛してくれるのでしょう? 約束、忘れていないから、こうして一緒に来てくれたのよね」
「……お前が守りたいと思うもの全部を俺が守る」
 婚礼の儀式の夜に交わした誓いをディートハルトは唇にのせた。
「その中に、あなたも含まれていることを忘れないでね? あなたを一人にしたくない。そう言った私の言葉に嘘はないわ。あなたを愛していると言ったことも、嘘じゃない」
 ディートハルトの手にフィオレンティーナの手のひらの熱が重なるのを感じて、彼は彼女の耳元に囁いた。
「ああ、――今は信じている」


前へ  目次へ  次へ