13,恋歌 ――どうするんだ? 足元のおぼつかない階段の行き止まりは薄い板で塞がれていた。 ディートハルトが耳を澄ませ、辺りの気配を探る。誰もいないことを確かめて、板の具合を手探りすると溝にはめ込まれていた板がずれて、外れる。 暗い穴から身を乗り出して探れば、そこは造りつけのクローゼットのようだった。背板を外せば、抜け道の入口になるらしい。 先にディートハルトが抜け出して、クローゼットの奥から室内に入る。それから「大丈夫だ、誰もいない」とフィオレンティーナに手を差し出してきた。 彼の手を取って部屋に入ると、そこは上級士官の一人部屋なのだろう。ざらついた岩壁を隠すようにタペストリーが飾られていた。木目の荒い床板の上、薄くなった絨毯が敷かれている。部屋の片隅には机が置かれ、寝台にテーブルと一通りのものが揃っていた。 ここに駐屯していたシュヴァーン兵の部屋だったのだろうか。砦が陥落してからは使われていないようで、デーブルの上は薄く埃が積もっている。 「どうするんだ?」 廊下に通じるドアに背を当てて、部屋の外の気配を探りながら、ディートハルトは声をひそめてフィオレンティーナに問いかけてきた。 腰に佩かせた剣の柄に手を掛けて、いつでも抜けるような体勢を取っている。 「誰か一人捕まえて、仮面の男のところへ案内させるか? ……そう遠くないところに、何人かの気配がする。二、三人ぐらいなら俺一人で相手ができるが」 シュヴァーン王国でも一、二の剣の使い手であるディートハルトにはそのくらい造作がないらしい。事もなげに言ってのける。 緊張感を湛え、 ここまでの道中、ディートハルトはユリウスの影に怯えていたのだろうと、フィオレンティーナは思う。 どれだけフィオレンティーナが「仮面の大将はユリウスとは違う」と言っても、彼には信じられなかった。 そして、ユリウスが自分からフィオレンティーナを奪っていくと怖かったのだろう。 何故なら、ディートハルト自身がユリウスからフィオレンティーナを奪ったのだ。 自分がしたことを他人がしないとは言えない。 傷つければ傷つけた分だけ、恨みを買う。恨みはやがて刃となり、他人を傷つける。 ディートハルトの人生がそれだ。彼は傷つけられて、多くの者を憎んだ。その憎悪が他人を傷つけたことは、彼だけに許された復讐ではない。 復讐は本来、許されないことだろう。その許されないことに手を染める者もまた、少なくない事実ならば、巡る因果は再び、自分に帰ってくる。 だから人は傷つけられないように、他人に優しさを施すのだと、フィオレンティーナは答えを見つけた気がした。 自分が傷つかないように、傷つけられないように。自分を思って、他人を想う。そうして、互いの優しさに触れて、幸福を分かち合う。 しかし、優しくされたことがなかったディートハルトは、他人に優しくする術を知らずに、ただ傷つけるだけの道を選んでしまった。 その罪を知って、償おうとしているディートハルトだが、いつになれば罪が許されるのか、わからない。 憎悪を解き放って、彼の中に生まれた良心が償いの道行く先を見つけ切らずにいるから、不安でしょうがないのだ。 フィオレンティーナは、自分がそんな彼の導きになれたらいいと思った。 迷った時に、手を取って共に歩いて行こう。 あの日、彼がくれた誓いと共に、フィオレンティーナ自身が誓ったこと。 ――共に生きて。 あの言葉を、ディートハルトが忘れずにいてくれたのなら、どんなときも迷わずにいられるのだけれど……。 「……レナ?」 ディートハルトが小首を傾げて、振り返る。 先程までの尖った気配は薄れて、こちらを気遣うような眼差しにフィオレンティーナはそっと微笑む。 蒼い瞳に映る自分。 そして、フィオレンティーナの翡翠の瞳に映る彼の姿は、もうすべてを知っている。 お互いの不器用さも、無知も、愚かさも、そして前を目指す――真摯さも。 ……大丈夫、私たちは歩いていけるわ。 歩みは遅いかもしれない。 それでも、確実に一歩ずつ前に進んでいることを、フィオレンティーナは確信した。 「いいえ、乱暴なことはしなくていいの。彼が来るように、呼び寄せればいいのよ」 「呼び寄せる?」 「歌をうたうわ。ユリウス様が私に贈ってくださった歌。彼はその歌を知っているはずだから、歌を聴けば私がここに来ていることを悟るはずよ。でも……他の誰にも邪魔をされずに、話がしたい。ドアに鍵は掛かる?」 「ああ、待て。テーブルで一応、塞いで置こう。向こうが呼びかけて来て、本人だとわかったら入れる、それでいいんだな?」 「ええ」 ディートハルトはドアの前にテーブルを横倒しにした。倒れたテーブルが床板とぶつかって派手な音を立てる。きっと、誰かの耳に届いたことだろう。それでいい。 フィオレンティーナはすっと一息吸って、呼吸を整えた。 記憶にある ――君にこの歌を贈るよ、ティナ。 懐かしい声が、伏せた瞼の裏で囁く。 穏やかな口元に柔和な笑みを浮かべて、ユリウスは言ってくれた。手にしたリュートの弦を指で弾いて、紡がれた旋律は今もフィオレンティーナの内側で鮮烈に響く。 その音色に、言葉を重ねて、歌をうたった。 エスターテ城の最上階。 その瞬間、閉じられた空間なんて関係なかった。重なる二つの旋律は、どこまでも伸びていった。 果てを知らない空のように音色は広がって、優雅に翼をはためかせて舞う鳥のように、歌は空に踊る。 この歌をうたうのは、何年ぶりかしら? もう帰れない幸せだった頃の――優しい歌。 貰った歌を少しでも上手くうたえるように、フィオレンティーナは人知れず何度も何度も練習した。 今度お逢いする時には、上手くなったと褒めて欲しくて、微笑んで欲しくて。 息が続く限り、音を風にのせた。 繰り返し、歌った。身体全体で音を震わせて、紡いだ。 ――――ユリウス様……。 この歌は、天にいる彼にも届くだろうか。 例え、どれだけの時が流れ、心が移り変わっても、あの日、あの時、愛していたのは穏やかに微笑んでくれた彼だった。 そのことだけは忘れない。 永遠に愛するという誓いは守れなかったけれど……愛していた。その事実を嘘にするつもりはない。 ユリウスを愛したことも、ディートハルトを愛していることも、迷いながら、それでも自分が選んだことだ。 もし目の前にユリウスが現われたとしても、フィオレンティーナは今の自分の心を在りのままに告げるだろう。 ――ユリウス様。私は、ディートハルトと生きます。 フィオレンティーナは頬に一筋の涙をこぼしながら、自らが紡いだ音の行く果てを見つめる。 扉の向こうがにわかに、騒々しくなる。こちらを その狭間に、聞き覚えのある声を聞いて、フィオレンティーナは唇を閉ざした。 ざわめきを背後に、記憶にある声が問う。 「そこにおられるのは、フィオレンティーナ皇女殿下とお見受けします。間違いでなければ、お言葉をくださいませ」 「ええ――私は、今は滅びたカナーリオ帝国の皇女、フィオレンティーナ。あなたたちの呼び声に応えて、ここに参りました。私を呼んだことに、相違はありませんね?」 「はい、さようでございます。どうか、皇女殿下の尊きお顔を我らが御前にお見せくださいませ」 「それはあなたの話を聞いてからです。まずは武器を置いて、あなた一人で私にその姿を見せて頂戴」 フィオレンティーナはゆっくりと、彼の名を口にした。 ――ルキノ、と。 |