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 14,冥界からの使者


 ――フィオレンティーナ様。

 ディートハルトが開いた扉の向こうから現われた男は、髪を白く染めていた。
 その男の小麦色の肌に、首筋から(あご)へと肌の色を変えた一本の線が描かれているのが目に入ってきた。
 顔の半分を仮面で隠していた男は、室内に入るや否や、それを剥ぎ取った。既に正体を知られている以上、隠すことに意味はない。
 仮面の下から現われた顔は、ユリウスとは似ても似つかぬ男の顔だった。
 繊細(せんさい)さには程遠い、だけど精悍さを感じさせる整った顔つき。切れ長の目は黒に近い藍。目元を縁取る黒い影を見るに、この男の元々の髪は黒髪なのかもしれない。
 己が国を失くし、守るべき対象を守れずに亡くしてしまった苦労を物語るかのように、日に晒され水分を失い硬くなった肌に、のみを打ち込んだように、深い(しわ)を刻んでいる。
 ディートハルトが背中にフィオレンティーナを庇って男を観察すれば、ルキノと呼ばれた男もまた藍色の瞳でこちらを見やり、僅かに息を呑む。
「……っ!」
 ルキノの喉の奥で詰まった声に僅かに怒りに似た気配が宿る。藍の瞳の奥には剣呑な光。
 仇敵を見つけたとでも言いたげなその燃える目を前に、ディートハルトは真っ直ぐに視線を返し、名乗った。
「――ディートハルトだ」
「シュヴァーンの……簒奪(さんだつ)王……貴様が」
 ルキノの唇がめくれ、牙と錯覚しそうな犬歯が剥き出しになる。怒りに震える口元から洩れた言葉は事実であるが、ディートハルトの胸を針で突き刺すように痛ませた。
 自分がどう罵られても、それは自業自得だ。
 しかし、そんな自分の妻となったフィオレンティーナにも蔑みの目が付いて回ることを考えたら、なんて浅はかな行為に走ったのだろうと唇を噛む。
 守りたいと思ったはずだったのに――。
「私の夫よ、ルキノ」
 落ち着いた静かな声でフィオレンティーナが、ディートハルトとルキノの間に割り込む。
「それは……失礼いたしました」
 フィオレンティーナを前に、ルキノは片膝をついて首を垂れる。床につけた拳に籠もる力は、ディートハルトに向けた怒りが収まりきれていないのを示していた。
 だが、フィオレンティーナの手前、平素を装った声を吐き出す。
「皇女殿下に拝謁(はいえつ)賜りましたこと、光栄の……」
 堅苦しい文言を並べたてようとするルキノに、フィオレンティーナが頭を振って、遮った。
「ルキノ、やめて。昔のように、フィオナと呼んで欲しいわ」
「……フィオレンティーナ様、わたくしは……貴女様にそのような慈悲を与えて頂けるような者ではありません。わたくしは皇帝陛下の任をまっとう出来ず、貴女様の伴侶となるべきお方をお守りできませんでした」
「ユリウス様は事故でお亡くなりになったわ。瓦礫(がれき)の下に埋もれて、ルキノ――あなたはそれを知っているはずよね?」
 フィオレンティーナの言葉に、ルキノが顔を上げる。
 ちらりとディートハルトを見る目は、殺人者を告発する目だ。
 その眼差しの前に、フィオレンティーナが首を振った。
「……いいえ、違う。ディートハルトはユリウス様を殺してはいないわ。傷つけたけれど、それは致命傷になっていない……」
 ディートハルトは自分を庇うフィオレンティーナを振り返った。
「フェリクスが話してくれたの。……あなたがユリウス様を刺した傷は、恐らく致命傷になってはいなかっただろうと」
「……まさか」
 ディートハルトは半信半疑で、呟く。
 確実に命を奪った手応えがあった。即死には至らなくても、放置しておけば命を奪っていただろう。
 あの感覚は記憶を失くしたからと言って、まやかしとは思えない。
「……だから、事故死なの。あなたの剣に倒れる前に、ユリウス様は瓦礫の下敷きとなった。……フェリクスがユリウス様のご遺体を火葬したのは、そういう理由よ」
 顔が潰れていたと言った、フェリクスの言葉を思い出す。
 誰かが死体を偽装したのでなければ、ユリウスの死体をそこまで傷つける必要はない。
「……殺していない?」
 呆然と呟くディートハルトを余所に、
「それでも……ユリウス王子を害されそうとした。ユリウス王子への殺意は、わたくし自身、気圧されるほどに明確でした。フィオレンティーナ様、それでもこのご仁を夫と呼ばれるのですかっ?」
 押し殺した怒りに声を震わせ、ルキノがフィオレンティーナに問う。
 ルキノが激昂し感情を荒立てるほど、逆にフィオレンティーナは落ち着いて行くようだった。彼女の冷静さがディートハルトにも、奇妙な客観性を持たせた。
「……ディートハルトは、ユリウス様を殺していない。でも、殺したと思っていた。そして、自分が犯した罪を後悔しているわ。自ら犯した罪を罪と認め、償う人を許せないというのなら、罪はどうすれば償えるの?」
「フィオレンティーナ様……」
「ルキノ、あなたが私をここに呼んだのは、私にディートハルトを断罪させるため?」
「……いいえ。わたくしは……わたくしはユリウス王子をお守りできませんでした。そのことを貴女様にお詫びしたく……。ユリウス様をお守りできなかった責はわたくしの命で以て、(あがな)いたいと存じます」
「やめて。あなたの罪を断罪させたくて、私を呼び寄せたの? だけど、勝手に罰を決めるのなら、私をここに呼んだ意味はないわ。あなたは私に謝りたいためにここに呼んだの? ディートハルトに復讐するためにユリウス様を(かた)ったの? 違うでしょう?」
 フィオレンティーナは激しく頭を振って、ルキノの詫びの言葉を否定する。
「あなたはユリウス様の代わりに、私に告げたいことがある。それはユリウス様を守れなかったことを詫びることではないはずよ。教えて、ルキノ。何故、ユリウス様はお逃げになられなかったの?」
「――逃げなかった?」
 ディートハルトの意識に飛び込んできたその言葉を、反射的に繰り返す。
「ユリウスは俺が来るのがわかっていたというのか?」
 瞠目するディートハルトにフィオレンティーナは小さく頭を振った。
「いいえ……それは違う。ルキノ、ユリウス様はエスターテ城襲撃の目的がご自身であると悟られた。だから、逃げなかったのね?」
 ルキノへと視線を落として、フィオレンティーナは確認する。短い間を置いた後、ルキノは重々しい声で応えた。
「…………はい。シュヴァーン軍勢というのはいち早く察知できましたが、敵か味方かは判じかねました。ユリウス様は目的は他でもなくご自身であろうとおっしゃられ、もしも、敵であるのなら自分が逃げれば、他の者たちに害が及ぶ可能性があると、ユリウス王子はその場に残ることをお決めになりました」
「逃げられたというのか? ユリウスに逃げ道なんてなかったはずだ」
「ユリウス様にはなかったと思うわ。でも、ルキノ、あなたは知っていたのね? もしもの時のための抜け道を」
「抜け道……」
「この砦が陥落したのも、ここに私がいることに驚かなかったのも、ルキノ……あなたは抜け道の存在を知っていたんだわ。そして、ユリウス様にも逃げるようにすすめた」
「……はい」
「でも、ユリウス様はお逃げになられなかった。誰かを犠牲にするのではなく、自分を犠牲にする……ユリウス様はそういう生き方を選ばれた。エスターテ城に囚われたときから、ユリウス様はすべてを他人に捧げることを選ばれたのよ」
 フィオレンティーナの言葉に、ディートハルトは雷にうたれたような衝撃を受けた。
 瓜二つの容姿をしていて、鏡のように互いの存在を見ていた。だけど、中身は真逆だった。
 誰かのために犠牲になったユリウスと、己のために誰かを犠牲にすることを厭わなかったディートハルト。
 多くの物に恵まれた世継ぎの王子ユリウス。
 ディートハルトは誰からも望まれるユリウスが憎かった。
 そこに在るだけで、労をせずにすべてを手に入れる――ディートハルトがただ一つ望んだフィオレンティーナすらも、彼女の価値を知らずに手に入れることを許されたユリウスが憎かった。
 だが、何も持たなかった故に、想いのままに動けた自分と最愛の者を手に入れながら、動くことができなかったユリウスと、真の意味でどちらが不幸なのか……。
 今、ディートハルトの傍にフィオレンティーナがいることが、何よりもその答えを物語っていることを知って、唇を噛む。
 どうして、……憎んだのだろう。
 どうして、理解してやれなかったのだろう。
 言葉を交わし、分かり合えたなら、正面からフィオレンティーナを奪い合うことにきっと迷いもなく、今頃後悔することもなかった。
 激しい後悔に立ち竦むディートハルトの前で、ルキノが上着の内から一枚封書を取り出した。
「……わたくしがユリウス王子よりお預かりしました、フィオレンティーナ様、貴女様への手紙です」
 フィオレンティーナの手に渡る封書は、皺が入り、茶色く変色している。
 エスターテ城陥落から五年、ルキノはずっと機会を窺っていたのだろう。
 その手紙にどんな言葉が託されているのか、読まなくてもディートハルトにはわかるような気がした。昔の自分なら、その手紙を横から掠め取って、破り捨てたかもしれない。
 だが、ディートハルトはフィオレンティーナの手に収まるのを見守りながら、思った。
 ……ほんの一時でもいい。
 本当に望んだものを手に入れることができず、諦める道を選ぶしかなかったユリウスが、 あの城の檻の中、僅かなあいだだけでもフィオレンティーナに癒されることがあったのなら……。
 自分にとって回り道でしかなかった時間も、無意味なものではなかったのだろう、と。


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