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22,小さな背


 ――また……。

 低い呻き声と共に、ディートハルトの姿勢が崩れた。床に片膝を突くようにして、うずくまった彼をフィオレンティーナは何事かと、戸惑いの目で見下ろす。
 肩に食い込んだディートハルトの指が残した痛みは、目の前の光景に消えた。
 先程まで、彼女を追い詰めていた獣のような気配は消えていた。苦しそうな呻き声がユリウスに似た唇から洩れれば、いても立っていられなくなった。だから、気を許してしまったのか。
 額を抱え、漆黒の髪に指を埋めている。美しく端正な面に苦悶の表情を浮かべ、唇に白い歯を立てて、何かに耐えているようなディートハルトに、彼女は恐る恐る声を掛けた。
「……どう……したの?」
 思わず膝を折り、蒼い瞳を覗いてしまったフィオレンティーナをディートハルトの腕が捉える。
 身体に絡まった腕に身を強張らせる彼女の肩に、彼は額を押し付けてきた。ドレスの布越しに熱い息が浸みる。逃れようと上体を反らせば、強い力がそれを許さない。
 背骨が折れるのではと、不安なるくらいの力で締め付けられた。身をよじらせようとする彼女の耳元で声が囁く。
「……その……ままで」
 覇気を失った声は、ユリウスそのものだった。ただ、それだけでフィオレンティーナの身体から芯が抜かれた。腰が砕け、床に座り込んだ彼女の耳を懐かしい声が撫でる。
「……お前だけだ……」
 フィオレンティーナの肩で、顔を伏せた姿勢のまま、ディートハルトが呟く。
 耳から身体の奥に沁みてゆく声に、じわりと込み上げてくる感情が、翡翠の瞳から涙となって溢れた。白い頬を涙は一筋の線を描いて、こぼれおちる。
 ――やめて……。ユリウス様の声で、姿で、言わないで。
 フィオレンティーナは流されそうになる自分に抗うように、首を振った。そうする彼女を抑えるように、ディートハルトの指が蜂蜜色の髪をわしづかみにした。
 頭を固定されたフィオレンティーナは、耳元でユリウスの声を聞く。
「お前だけしか、要らない」
 ……違う、これはユリウス様のお言葉じゃない。
 愛していると、ユリウス様は言った。君だけだと、言ってくれた。
 だけど、彼の心が本当に自分に向けられたものだったのか、今のフィオレンティーナには確信できない。
 囚われの身となって自由が利かず、周りからの悪意が心を弱く腐らせていけば、憎むべきディートハルトの些細な行動を優しいと錯覚してしまう。
 同じようにユリウスも、錯覚していたのかも知れないと、フィオレンティーナは思ってしまう。
 自由ままならない檻の中で、自分に懐いた彼女を騙すことを、ユリウスが楽しみとしていたとしたら?
 それでも、ユリウスだったのなら騙されていても構わない。けれど、自分がディートハルトに惑わされては駄目だ。
 フィオレンティーナは己を取り戻すべく、口を開いた。
 もう決して、ディートハルトの前でその名を口にしないでおこうと誓ったが、ユリウスの存在に縋らなければ、目の前の幻像に取り込まれてしまいそうだった。
「……私がユリウス様の婚約者だったから……あなたは私に」
 強い力で身体を突き飛ばされ、フィオレンティーナは壁に背中を打ちつけた。
 激痛よりも先に、意識が現実へ連れ戻される。沁みてくる痛みに打ちつけた肩を抱えながら、フィオレンティーナはディートハルトを見つめ返した。
 彼は顔の半分を手のひらで覆いながら、半分でこちらを睨み返してきた。
 憎悪が滲んだ蒼い瞳は深く、暗く、フィオレンティーナの姿を鏡のように映す。
「その名前は……くそっ!」
 床に額を押し付けるようにして、ディートハルトは咆えた。獣のような叫びは、呪詛のようにも、悲鳴のようにも聞こえる。
 絨毯(じゅうたん)に爪を立てる手の甲に浮かんだ血管と震える肩に、フィオレンティーナは無意識に手を伸ばしていた。
 目の前の男は、父を、兄を、そして最愛の人を殺した。憎んでも余りある存在であることは、嫌というほどわかっている。
 だけど、うずくまり苦しんでいる背中は憎らしい仇というより、小さな子供のようにフィオレンティーナには見えた。
 ユリウスに対する憎悪も、子供染みた独占欲から来るのだとすれば、自分に対する執着も子供が人の物を欲しがる心理から来るのではないか。
 フェリクスが口にした「記憶喪失」という言葉をフィオレンティーナは思い出した。
 頭を打ったのか。だから、額を押さえているのか。それで記憶障害に?
 ディートハルトの脇腹に刻まれていた創傷。皮膚の色を(たが)えて引きつれた傷口は恐らく、彼が自ら戦場に立ったことを意味しているのだろう。
 血で血を洗う戦場では、王とて命の保証はされない。
 背後で、人の生き死にを盤上の駒のように眺めているだけの王に、忠義を誓い、命を()して戦う者は多くない。
 まして(ことわり)を歪め、横から玉座を掠め取ったディートハルトが多くの軍人たちの支持を集めるには、率先して前線に立つ必要があったのだろう。
 ディートハルトが好戦的という印象は、フィオレンティーナの中では結び付かなかった。
 終始、フィオレンティーナの前では穏やかだったユリウス。
 彼と同じ容姿がそう思わせるのかも知れないが、ディートハルトが彼女を見つめた冷徹な瞳は戦に喜ぶようには見えない。むしろ、自分の領域を汚されることを嫌う潔癖(けっぺき)さを、ユリウスに対する憎悪に垣間見る。
 己の生が失われるかもしれない戦場に立つその覚悟は、ユリウスへの憎悪の現れ。
 記憶を失ったというのに、それほどまでにユリウスを憎むのは……憎悪しか、この男の中に残されていないからだろうか。子供染みた執着だけがこの男の中にあるのか。
 ……子供なの?
 ディートハルトの記憶喪失が、どの程度のものか、フィオレンティーナには推測するしかないが、目の前にうずくまるその姿は、幼子のように感じられた。
 震える肩に手を伸ばし触れれば、ディートハルトの指が(すが)るように絡みついてきた。
 子供を産んだことのないフィオレンティーナは自分の中に母性があるとは思えなかったが、突き放す冷淡さを持てずにそっと握り返した。
 床に伏せたままのディートハルトの髪をもう片方の手で撫でる。
「……怪我を……したの?」
 漆黒の長い髪に隠されたこめかみに、一筋の引きつれた傷痕を見つけてフィオレンティーナは問う。
 答えが返ってくるとは期待していなかったのだが、ディートハルトが声を返してきた。
「……エスターテ城の崩落に……巻き込まれた」
「崩落……」
 胸を冷たい槍で貫かれたように、息が詰まった。
 ユリウスが囚われていた城の惨状を初めて知り、ディートハルトが彼の死を語ったことが真実だと改めて突きつけられる。
 ……ユリウス様……。
 既にわかりきっていたことなのに、悲しみが彼女の身体を支配した。瞳から涙が止めどなくあふれた。
 忘我の態で、小さな嗚咽(おえつ)を繰り返すフィオレンティーナの頬に、ディートハルトの指が触れた。その温度に意識が連れ戻され、身体が彼女の意志の元に返ってきた。
 いつの間にか、ディートハルトが身を起こし、彼女の頬を手のひらで包んでいた。
 懐かしい蒼い瞳が目の前にある。優しい温度が彼女を包む。
 すべては嘘偽りのまやかしだ。もう、自分が求めるユリウスはどこにもいない。
 そう、わかっていても、
「……フィオレンティーナ」
 名前を呼ぶ声に、弱り切った彼女の心は縋ってしまった。


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