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 34,相似


 ――よろしいのですか……。

 ドレスの採寸の確認を終え、ディートハルトの部屋へと戻る途中で、肩越しに小さな問いを聞いた。
 振り返ると、子犬のような栗色の瞳が薄く涙に濡れている。
 ジュリアの問いが何に対してであるか、聞き返さなくてもフィオレンティーナにはわかった。
 本当に、ディートハルトの妃になっても良いのかと、彼女は問いたいのだろう。
 一番近くで仕えているジュリアだけは、ディートハルトがまだフィオレンティーナの身体を汚していないことを知っている。
 だからこそ、
『姫様のことを少なくとも、蔑ろにはしていないように、わたくしの目には見えます』
 と、言えたのだろう。ジュリアの性格上、狼藉(ろうぜき)を働く者の肩を持つようなことはしない。
 だが、正式に彼の妻となれば、今までのようなただ身を寄せ合って静かに眠る夜を続けられない。そのことをジュリアの目は訴えていた。
 王妃の務めは、王の子を産むこと。
 他に女は要らないと言うディートハルトの正妃になることの意味を知らずに、彼の妻になることを承諾したわけではない。
 半分とは言え、ディートハルトの手の中にある帝国を守るため――そう、フィオレンティーナは自らを(だま)した。
 騙さなければ、ユリウスを、家族を殺した彼に嫁ぐなど、できやしない。
 だけど、自らの心を騙してでも守らなければならない人たちがいる……。そうして、生きることを決めた以上、いまさら純潔にこだわる必要はあるのだろうか。
 この王宮に連れてこられた日、ジュリアを守るために、覚悟を決めたことでもあった。
 一人のために投げ捨てることを決めておいて、数百万の帝国人のために惜しむなんて、それこそ道理に適わない。可笑しい。
「……いいのよ、ジュリア。私は……あの人の妻になるわ」
 フィオレンティーナは物言いたげな侍女に首を振って、笑う。
「私には……まだ成すべきことがあったの。ただ生かされるだけなら、私に生きている意味なんてある? 国やユリウス様に殉じることもできず、ただ生かされるなんて、あまりに空っぽで無意味だわ。この世に生かされているのなら、生きていくのなら私は……私に課せられた務めを果たすわ。それがお父様やお兄様のご遺志を継ぐ、帝国の皇女である私の生き方ではなくて?」
「……リカルド様の……ご遺志……」
 小さな唇が懐かしい兄の名を口にして、フィオレンティーナは胸を震わせた。
 ――フィー、諦めるな……。
 ユリウスの訃報(ふほう)を聞いて、生きる意味がないと(なげ)いたフィオレンティーナを説得した兄の声。
 その声に生かされた自分。そして、ここに生きている自分。
 果たして、己に生が許されているのか、確信は持てない。だが、父や兄に代わってここに生きているのもまた事実であるならば、今は運命に従おうと、フィオレンティーナは心に誓った。
 その先に苦しみが待っているなら、それはディートハルトが言う「罰」なのだろう。選択を間違えた末に、苦しむ「罰」なら甘受しよう。
「心配してくれてありがとう、ジュリア。もう、下がっていいわ。部屋で休んでいて」
 小さな肩を震わせるジュリアをフィオレンティーナは軽く抱きしめて、それから下がらせた。
 廊下の奥まった先にディートハルトの部屋があり、その手前には衛兵が見張りに立っている。年若い衛兵のどこか刺々しい視線の前を、彼女は毅然(きぜん)と背筋を伸ばし通り抜けた。
 そうして、室内に入り絡まる視線をドアの向こうに遮って、フィオレンティーナは胸に溜まった憂鬱(ゆううつ)を吐き出す。
 まだ少し、シュヴァーン国民の敵意に満ちた視線には慣れない。ディートハルトの妻になれば、否が応でもそれらの視線と向き合わなければならないだろう。
 それでも彼らが胸の奥に抱えた痛みや怒りを知ったことによって、前ほどに辛さを感じない。いずれ、理解し真正面から受け止められる日が来ればいいと思う。
 そのためにも――もっと強くならなければ……。
 己の弱さを知るだけに、フィオレンティーナは切実に強さを欲する。
 ディートハルトの爪の欠片ぐらいの傲慢さがあれば……それはそれで、問題かしら?
 小首を傾げつつ、いつもの定位置に向かいかけて、フィオレンティーナは足を止めた。
 猫足細工の優雅な寝椅子に、ディートハルトがクッションに頭を預けて眠っていた。白い肌に落ちる漆黒の髪。
 なんて、無防備なのだろう……。
 そっと足音を忍ばせて、彼女は寝椅子の側に寄った。そうして、手を伸ばせば届くまでに距離を縮めて、フィオレンティーナは絨毯(じゅうたん)の上に膝をついた。
 ふわりとドレスの裾が広がり、衣擦れの音が静寂を揺らす。その気配にすら動じることなく、端正な横顔は眠っていた。
 誰もいないから、こんなに無防備に眠っていられるのだろうか。でも、この部屋に彼女が戻ってくることは、わかっているだろう。
 毎夜、同じ寝台で眠りを共にしていても、先に眠りに就くのはフィオレンティーナだった。朝、目覚めるのはディートハルトの方が早かった。
 彼は決して、フィオレンティーナの前でも寝顔を見せなかった。
 それが今は無防備に寝顔を晒して、警戒していないのは……。
 警戒するほどでもないと思っているからか、それとも――。
 フィオレンティーナはディートハルトの寝顔を前に、絨毯に腰を下ろした。膝を抱えるように座り込むと、視線が割と近くに寝顔を見る。
 きめ細やかな白肌。ユリウスと瓜二つの面差しに違いを見せる黒い睫毛(まつげ)。細い漆黒の髪は絹糸のように(つや)がある。
 こうして、寝顔だけを見ていると、人を殺めた者なのかと疑うほどに、無垢だ。
 欲しいものを欲しいといい、強引に手を伸ばす子供っぽい言動は一種、わがままととれるひた向きな一途さ。そうして、嫌われることを恐れるようにみせた蒼い瞳の陰り。
 彼の手が血に汚れていなければ、フィオレンティーナはディートハルトの在り方を許していたかも知れない。
 それは多分、自分に似ているからだと思う。
 ユリウスに愛されることを望み、嫌われることを恐れていた自分と重なる。
 心に虚を抱えた似た者同士だから、許そうとするのは……やはり、弱さなのだろう。
 自分を許して欲しいのかも知れないと、フィオレンティーナは思った。
 ユリウスに殉じることができなかった自分を。
 死ねずに、生かされていることを――成すべきことがあるからと言い訳にすることを。
 ……私はこの人を許すことで、自分を許そうとしているの?
 フィオレンティーナはゆっくりと、ディートハルトの頬に手を当てた。そうして、首筋へと手を滑らせる。
 小さな女の手には余る太い首筋。それでも無防備なこの首を、今なら絞め殺せる。
 この人は、お父様を、お兄様を、そしてユリウス様を殺した人だ。
 頭ではわかっているのに、指先を動かせず、フィオレンティーナの手のひらは力なく床に広がったドレスの上に落ちた。
 ばさりと乾いた音を立てれば、漆黒の睫毛が震え、蒼い瞳が薄く見開かれた。
「――殺さないのか」
 と、抑揚のない声が問う。
 どうやら、寝た振りをしていたらしい。警戒を解くほどに、彼はこちらに心を許してはいないのだろうと思い当って、フィオレンティーナは愕然とした。
 ……私はこの人に、心を許して欲しかったの?
 唯一の味方と感じていたディートハルトに、甘えようとしていたのだろうか。何て、自分は弱いのだろう。
「やっぱり、私はあなたを……殺せないみたいだわ。私は私を許して欲しいみたい……」
 フィオレンティーナはディートハルトと自分の相似を口にした。そうすることで、彼に「俺とお前は違う」と否定して欲しかった。
 それもまた自分の弱さだと承知しながら言葉を求める彼女に、彼は身体を起こしながら言った。
「お前に、人殺しなど似合わない。わかっているのだろ? 見捨てられない人間がいることを。お前はいつだって、自分より他人を選ぶ。だが、そうしてユリウスよりもそいつらを選ぶ自分が、お前は自分で理解できないだけだ。ユリウスを誰よりも愛していたと信じたいから」
「……そんなこと」
「俺の言葉など、信じたくなければ、信じなくていい。だけど、お前に俺は殺せない。それはお前の弱さでも、狡さでもない。……きっと、お前の強さだ」
 ディートハルトの的外れな言葉に、フィオレンティーナは溢れる涙をそのままに小さく訴えた。
「…………強くなどないわ。……強くなりたいのよ、私は」


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