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 2,亡霊


「柚木――千尋さん?」
 そう呼びかけて彼女が振り返ったとき、俺が知っている千尋と彼女が同一人物であることを確信した。
「あっ……」
 振り返った千尋は、話しかけてきた相手が俺だったことに驚いていた。
 まあ、転校初日にこうも堂々と自分から話しかける転校生というのは珍しいかもしれない。大抵、数日はおとなしく猫を被っているものだ。
「鬼堂君……どうして、私の名前を知っているの?」
 放課後の教室には数人が残っていた。
 男のクラスメイトたちは、俺を監視するような鋭い視線を投げてきた。
 千尋がなかなかの美少女だっていうことを前提にすると、密かに彼女に憧れている野郎どももいるのだろう。その男どもにしたら、新参者の俺に警戒心を抱いて当然か。
 微妙な男心に苦笑しながら、俺は千尋の問いに答えた。
「聞いたんだ」
 ――本当は、知っていた。
 千尋というその名前は、死んだ女の名前と一つになって、俺の胸に刻まれていた。
 その死んだ女と同じ顔をしている千尋は、間違いなく十三年前のあの子供だろう。
「少し、時間が取れるかな?」
「えっ?」
 目を瞬かせると、パチパチと音がしそうな、長い睫。黒い双眸。顔が小さいので、大きな目の印象が際立つ。それが決して、バランスを崩していないので、男心をくすぐるんだろうな。
「校内の案内を頼みたいんだが」
 伺いを立てるように、俺はそっと問いかけた。
 本当は、話がしたかった。
 しかし、この場では話せないだろう。
 男どもの視線が痛い。オイオイ、俺を睨むくらいなら、千尋に直接声を掛けろよ。
「男子の岸谷君だっけ?」
 男に“くん”付けするのは、背筋が痒くなる。そう感じるのは、俺のガラじゃないからからだろう。しかし、転校初日に猫を脱ぐのはさすがに抵抗を覚える。出来れば、当たり障りのない学園生活を送りたいんだ。
「彼、もう帰ったみたいだからさ。いや、別に用があるのなら、今日でなくても構わないんだけど」
「ああ、そっか。うん、私は大丈夫だよ」
 千尋は岸谷の不在を確かめると、俺に向き直って頷いた。
「じゃあ、お願いするよ。早く学校生活に慣れたいしね」
 俺は白々しく笑う。俺にとっての学園生活なんて、時間つぶしの行為でしかない。
 止まってしまった時計の針。ずっと同じところを差して、動くことを止めてしまった壊れた時計――それが俺だ。
 そのままでいたら、俺は時間から取り残されて、化石と化してしまうだろう。だから、誰かと接して、時間の流れを感じている。
 壊れてしまった時計の針はそのままでも、間違いなく時間は動いている。
 飽きるような長い時間の中で、俺は色々な人達と出会い、別れて、思い出を刻んでいく。 
 本当は関わらない方がいいのかもしれない。
 壊れている自分を思い知らされ、傷つくこともある。同じ時間を刻めないことで、傷つけてしまうことも。
 ずっと、輪の中に居続けることなんてできないと、わかっていても尚。
 馬鹿なことを言い合うそんな日常とか、手放せない。
 何も考えずに笑えることが、俺にとってどれほど救いになるのかなんて、誰も知らないだろ?
 何もないような日常だけど。そこには……暗闇の中で生まれてきたことを呪うような、俺はいない。
 だから、思い出だけを刻んで生きていく。
 それが俺に許された生き方だったから。
「じゃあ、行こう」
 千尋が立ち上がって、教室を出た。決断したら、行動が早いのは死んだ彼女とよく似ている。
 面差しもさることながら、気性も似ているようだ。もっとも、彼女に感じていた強さや脆さは千尋には感じられない。
 これはまだ、俺が千尋のことを知らないからだろう。
 俺が知っている千尋は、三歳の子供だった。千尋はきっと俺なんかのこと、覚えてはいないだろう。
 千尋が乗った車を見送ったあの日から、十三年が経っていた。
 俺に思い出だけを強く残して、刻んで。
 俺が刻めなかった十三年の年月は、幼かった千尋から俺という男の存在を消し去った。それが十分に可能な月日が流れている。
 それを寂しいと思うのは、間違いだとわかっている。忘却が俺にとっては都合がいいはずなんだから。
「――屋上に上ってみる?」
 一通り校内を見回って、教室へと戻る途中で、千尋が俺を振り返った。
「屋上?」
 話すきっかけを探しながら、何をどう切り出せばよいのかわからないまま、俺は問い返した。
「うん。お昼休みとか、そこでご飯を食べたり出来るんだよ。眺めもいいの」
「それは見ておきたいかな」
 階段を上って、屋上に出ると外は夕焼けに赤く染まっていた。
 金属の手すりが仕切る屋上の端から外界を見下ろせば、町が赤紫色の影を作って一枚の絵のように広がっていた。
 兄の病気療養という名目でやって来たこの町は、都会のように建物が立て込んではいない。
 一言で言ってしまえば、田舎である。
 駅に繋がる大通りから少し視点を外せば、田園が広がり、住宅はポツポツと墨を落としたように点在していた。
 夕暮れ時の侘しさを否応なく、見せ付けて――静寂に佇む町並み。
 俺は手すりに身を預けて、頬杖を付いた。
 ボンヤリと眺めていると、昔のことを思い出す。
 十三年前、俺はこの近くに住んでいた。正確に言えば、三つの駅を乗り越した町で、近いとは言いがたい。
 だから、昔馴染みと会うなんて思っていなかった。
 昔、この地にいたのは約半年。そんな短い期間しかいなかった俺を覚えている奴なんて、いないと思っていた。
 千尋と再会することなんて、思ってもいなかった。
 ただ、ちょっと思い出に寄り道するつもりで、今度の定住先を選んだだけに過ぎなかった。
 それなのに……。
 隣を伺えば、千尋も俺と同じように手すりに腕を預けて、頬杖を付いていた。
 こんな田舎では、高いところから町を見下ろす場所なんてそうないのだろう。辺りを見回しても、高層マンションなんてものは影も形もない。あったとしても、住人以外に上れやしないだろう。
「千尋さんのお気に入りの場所なんだ?」
 横顔に問いかければ、千尋は笑顔を見せた。白い歯を覗かせて笑う顔も、そっくりだ。
「あ、わかる?」
「まあ、わざわざ案内してくれたことから考えて。それにホント、眺めはいいよ――気に入った」
 何もない町だからか、どこまでも広がる空が、やけに近くに感じる。手を伸ばせば、届きそうな感じがいい。
 俺はそよぐ風に、髪を泳がせた。
 顎をそらして、天を仰ぐ。
「それは良かった」
 視線を下げて千尋を見れば、夕日に黄金色に輝く笑顔が眩しい。
 それを見て、俺は胸が痛くなった。
 もう完全に失われたと思っていた笑顔が、こうして時を経て蘇っているのを実感すれば、どうしようもなく人とずれた自分の時間を思い知らされる。
 時間に置き去りにされることに慣れたはずなのに。
 それでも寂しいと思ってしまう。
 他の誰かだったら、こんな思いはしなかっただろう。
 けれど、千尋の笑顔は死んだ女そっくりで、まるで亡霊を前にしているようだ。
「そろそろ、教室に戻ろうよ」
 手すりから離れて、屋上を後にしようとする千尋の背中に、俺は声を掛けた。
「万里って――名前、知っているか?」
 この名前に千尋が反応しなかったら、俺はその後、どうしていただろう?
 自分でも先の行動を予測出来ないまま、俺は問いかけていた。
 そして、振り返った千尋は黒目がちの瞳を見開いて、驚いた顔を見せる。
 意味不明の問いに驚いているんじゃない。俺の口から出てきた「万里」という名前に驚いていた。
「どうして、その名前を?」
「千尋のお母さんの名前だよな?」
 俺は重ねて問いかけた。
「うん……そうだけど。だけど、どうして? 鬼堂君が私のお母さんの名前を知っているの? だって、私のお母さんは……」
「事故で死んだ。十三年前に――千尋が三歳のときに」
 俺は言葉に詰まった千尋の代わりに答えていた。
 唖然といった表情で、声も出せない千尋に代わって俺は口を開く。
「どうして、俺がそれを知っているのかって、聞きたいか?」
 コクンと首肯して、千尋は真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
 さて、何と答えたらいいんだ?
 本当のことなんて言えるのか? 言ったところで、信じてもらえるのか?
 少し逡巡した後、俺の口から漏れたのは次のような言葉だった。
「――俺、幽霊が見えるんだよ」


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