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 4,優しさの定義


「そんなことがあったの」
 結局、俺はその日にあったことを包み隠さず、樹に話していた。
 これからどうすべきか、その相談もかねてだ。
「樹は万里のこと、覚えているか?」
 俺は樹を横目に見やった。
 外の世界を知らない白い肌。夜の町しか見たことがない青灰色の瞳が、日向で笑っていた万里をその目に映したことなんてない。
 だけど、俺から聞いた話を覚えているなら……。
「うん。冴樹ちゃんが話してくれたから、覚えているよ。確か、若いシングルマザーで、その娘さんが千尋ちゃんだったよね。冴樹ちゃんが千尋ちゃんを助けたのが、知り合うきっかけだったんだよね」
「……ああ」
 俺は、脳裏に浮かんできた思い出に目を伏せた。
「そう……。もう十三年になるんだね」
 流れた年月に感慨深げに、樹は呟いた。
 外の世界を直接目にすることなど殆どない樹は、俺よりもずっと時間の流れから取り残されている。
「……ビックリした」
「えっ?」
「あの子供だった千尋が、万里そっくりになっていた。万里はもう死んでいたから……」
 俺の手の中で息を引き取った万里の、冷たくなっていく体温が、手のひらに蘇る。
 震える指先をギュッと握って、俺はこの感覚は幻だと、自分に言い聞かせる。
「まるで、亡霊を見たような気がした。……だからかもな」
「……幽霊が見えるなんて、言ったこと?」
「ああ」
 頷いた俺に、樹は思案するような間を置いて、小首を傾げた。
「それは違うと思うよ、冴樹ちゃん」
「違うって、何が?」
「万里さんと千尋ちゃんを錯覚したから、幽霊なんて言葉を使ったわけじゃないと思う。きっと冴樹ちゃんはね、優しいから」
 樹の口から「優しい」という言葉が出てきて、俺は反射的に反論していた。
「はあっ? 俺でもどうして、あんな馬鹿げたことを言い出したのかわからねぇってのに。お前に何がわかるってんだよ? それに何だって? 俺が優しいっ? 冗談言うなっ!」
 怒鳴り声を上げて、テーブルを叩いていた。
 何がこんなに自分を憤らせるのかと考える。
 樹が俺に甘いのは知っている。その甘さも、俺が唯一の家族で。俺しか樹には縋るものがない――同様に、俺にとっても樹しか縋るものはいない――ことを考えれば、しょうがない。
 でも、樹はその盲目的な絆に縋って、俺の本質を見極めちゃいない。
 俺が優しいだって?
 確かに、優しくありたいと思う。けれど、実際にはそうできていない自分を自覚している俺に向かって、「優しい」なんて使っちゃいけない。
「冴樹ちゃんは、優しいよ」
「まだ言うかっ!」
 睨み付けた俺の視線に、臆することなく樹は青灰色の瞳を返してきた。静かなその眼差しを前にすると、俺のほうが逃げ出したくなった。
 樹は知らないんだ。
 樹が決して触れることの出来ない外の世界で、俺がどれだけの人間を傷つけているか。
 俺の外見目当てに近づいてきた女どもを遠ざけるために吐き散らした暴言の数々。それを知れば、樹だって眉を顰めるだろうよ。
 俺という中身を知らないで、外見だけで「カッコいい」「綺麗」と口々にほざいては、「好きだ」とぬかす。
 何だよ、それ。
 例えば、俺のこの顔が仮面で、その仮面を外した下の顔が見るに耐えない醜悪なものでも、「カッコいい」と「綺麗」と言うのか?
 勝手に好意を押し付けてきて、それを拒否されたことで、被害者面するのが気に入らない。
 何も見えていないくせに、表面だけで全てを悟った気になって、近づいてくる無神経な相手に、辛辣な言葉は妥当だと思う。遠慮するつもりはない。
 そういう暴言を吐く俺も含めて、俺なんだから。
 そして俺は、その後に展開する俺への悪評も覚悟している。傷つけられる覚悟をなくして、誰かを傷つける気はない。
 それを理解しない相手に、俺もまた傷ついているんだから。
 それに俺だってちゃんと俺を見てくれる相手には優しく接する。
 樹がその対象であるが、いつも優しい樹と違って、俺は自分の都合のいいときにだけしか、優しく出来ない。
 そんな俺を優しいのだと、妄信するのは間違っている。
 確信を持って優しいと言えるのは、樹のような奴であって俺じゃない。
 むしろ、そんな風に言われると馬鹿にされているように感じてしまう。ガキなんだよ、俺は。
 樹みたいに大人になりきれない――いや、樹が完璧に大人かと問われれば、首を傾げてしまうけどな。人のことを「冴樹ちゃん」なんて言いやがるし。
「――飯、作る」
 俺は会話を断ち切るように席を立った。
「僕も手伝うよ」
 あっさりと引き下がって、樹もまた腰を上げた。
「……ああ」
 俺は不貞腐れた声で頷いた。「じゃあ、お前が作れ」とは口が裂けても言えない。
 樹に作らせたら、野菜の茹でたものしか出てこないからだ。
 俺と樹の二人暮らしじゃ、本気で喧嘩なんて出来やしない――大体、樹の方が先に折れるし。
 冷蔵庫から野菜を取り出しながら、俺はチラリと樹を振り返った。
 樹は水を張った鍋を抱えてそこに立っている。
 ……本当にこいつの調理法は、茹でるというそれ一つしかないのか。
 今日の昼は何を食ったんだろう、こいつは。
 俺は余計な気を回してしまう。冷蔵庫の減った食材から推測すれば、ジャガイモとニンジン、ブロッコリー辺りを茹でて食べたんだろう。
 吸血鬼の樹の場合、味覚が死んでいるから、栄養さえ取れていれば十分なんだろうけど。
 何か……そういうのって、やっぱり味気ないと思うんだよな。
 生きている感覚が薄くなるっていうか。
「……明日からさ、お前の分の弁当も作っておくよ」
 俺はため息を吐き出しつつ、言った。
「うんっ!」
 樹はまるで子供のように、首を振って大きく頷いた。
 そうして、ニッコリと笑う。
 この世のどこにも、これ以上ないってくらいの綺麗で華やかな満面の笑み。
 そんな顔をされたら、相手が男で血縁者でも、何だか張り切ってしまう自分が……悲しくなる。
 どうせなら、彼女に作ってやりたいよな――この場合、彼女に作ってもらいたいと思うほうが普通か?
 ボンヤリと、そんなことを思考しながら野菜の皮を剥く。
 脳裏に浮かんだ顔があった。それが万里だったか、千尋だったか、よくわからなかったけど。
 俺は一つの決心をした。


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