トップへ  本棚へ



 5,思い出


「千尋」
 午前中の授業が終ったばかりのざわついた教室で、俺は弁当箱を抱えて彼女の名前を呼んだ。すると、ピタリと周りの騒音が止む。
 クラスメイトの視線が集中するのがわかる。
 その中で尖った視線が痛い。
 ここ数日でわかったことだが、千尋はクラスだけではなく学校中の男に人気があった。
 人当たりが良い性格と、その可愛らしい顔立ち。クラス委員をしているからではないだろうが、千尋は誰に対しても面倒見が良かった。
 そういうところは、ちょっと万里に似ている。
 しかし……マジに痛いって。だから、そんな風に睨んでなくて、千尋に直接、告白しろっての。
「何、鬼堂君?」
 千尋は周囲の雰囲気に全く気づかない様子で――こういうところは、万里に似ていないか。万里は周囲の感情には敏感だった――俺を振り返り、小首を傾げた。
 気づけば女どもが、男どもと同じように睨みつけてくるよ、千尋のこと。
 まだ猫を被っている俺だから、今の俺は女子にはちょっとした憧れの的? ――だから自分で言うなって?
 そんな俺に声を掛けられる千尋に、羨望や嫉妬の目が向くのは今までの学園生活であったことだ。
 出来れば、千尋を女子どもの攻撃対象にはしたくないけれど。それじゃあ、いつまで経っても二人で話なんて出来やしない。
「一緒に、飯を食わないか?」
 結局、転校初日に幽霊が見えるといった話は、その場で終っていた。
 これは単に、俺が次の展開が思いつかなくて、引越しの片づけが終わっていないという言い訳でその場を逃げ出したせいだ。
 じゃあ、次の展開が見えたかと言えば……全然だ。
 ただ……。
「うん、いいよ」
 千尋は無邪気に頷いてくる。
 完全に俺を信じ切った顔。ちょっとだけ、良心が痛まなくもない。
 もうこうなったら、嘘を貫き通すしかないだろう。
 本当のことはきっと、この嘘よりもずっと性質の悪い冗談になってしまう。
 ――俺が人間と吸血鬼との間に生まれたなんてさ。
 霊感少年って言うほうが、まだ現実味があるだろう?
「屋上に行こうぜ」
 俺はクラスメイトたちに聞こえないよう、千尋の耳元で囁いた。ようするに、邪魔者のいないところで話がしたいってわけだ。
 そんな俺の意図が伝わったのか、千尋は無言で頷いた。


                  * * *


「お弁当、自分で作るの?」
 自己紹介の家族構成で、兄と二人と言ったのを、千尋は覚えていてくれたらしい。
 包みを解いて弁当箱の蓋を開ける俺に、小首を傾げて問いかけてきた。
「男が料理なんて、寒い?」
 笑って問い返す。
「そんなことないよ。ただ、上手に出来ているから、凄いなーって」
 千尋はフルフルと首を振ってから、感嘆の声を漏らす。
 俺は色とりどりの具が詰まった弁当箱を、千尋のほうに差し出した。
 朝早く起きて作った弁当は、実は千尋のためだったりする。
「千尋の好きなやつばっかりだぜ。食べてみな」
「えっ?」
 千尋は、黒目がちの大きな瞳を驚いたように瞬かせた。
「味付けも好みだと思う。騙されたと思って、食ってみ?」
 急かす俺に千尋は「それじゃあ」と言って、無難な卵焼きに箸をのばした。
「美味しい」
 そうして、一口ハンバーグに和風コロッケと、次々に口へ放り込んでいく。
「ホント、美味しいっ!」
 それしか言葉を知らないように、千尋は繰り返した。
 樹も、俺の料理にこういう褒め言葉を浴びせてくれるけれど、あいつの場合は味覚が死んでいるので、いま一つ褒められた気がしないんだよな。
「どうして、私の好きなものばっかり……」
 弁当を勢いで半分、空にしたところで千尋は我に返ったように、俺を見る。
「万里が教えてくれたんだ」
「お母さんが、鬼堂君に?」
「ああ。って、その前に、その鬼堂君っていうの、止めねぇ?」
「えっ?」
「俺、言ったじゃん。自己紹介のときにさ。冴樹っていう名前、気に入っているって」
「あ、うん。そうだったね」
「だから、冴樹って呼んでくれよ。俺なんてもう、千尋なんて呼び捨てにしちまっているんだからさ」
「……あ」
 千尋は、俺の気安さにはじめて気づいたみたいだった。それで嫌な顔を見せるかと少し心配したが、口元に笑みを浮かべると上目遣いに俺を見た。
「じゃあ……冴樹君」
「呼び捨てでいいんだぜ?」
「それはちょっと、……抵抗あるよ」
 困ったように笑う千尋に、俺もまた頷いた。
 そういうキャラじゃないんだな、千尋は。
 俺が野郎に対して“くん”付けしようとすると、背筋が痒くなってしまうように、人間には向き不向きってものがある。
「いいよ、それで」
「名前、変わっているよね。字はそうでもないけれど、サキなんて。男の子だったら、サエキって呼びそうなのに」
「そうだな。どっちの音でも俺は良かったんだけど。この名前はさ、親の名前を一文字ずつ取ったんだ。母親の名前は冴って言って。その人が俺にくれた唯一のものがこの名前だった」
「……えっ?」
「俺が生まれて直ぐに、母親とは生き別れたんだ。その後は、事故死したって話」
「そうなの……」
 悲愴感に暗く沈んだ千尋の顔を見て、俺は笑った。
「暗い顔をするのはナシ。俺の母親が事故死で死んだこともさ、千尋とそう変わらねぇじゃん。万里も……もう死んでる」
「あ、うん。そういえば、……そうだね」
 千尋にとって、万里はどんな存在なんだろう?
 そのことについて、少し考えてみる。
 やっぱり、死んだ母親という認識しかないのかもしれない。三歳だった千尋が俺のことを覚えていないように、万里のこともおぼろげな感じなのかもしれない。
 ちくりと針を刺したように、胸が痛んだ。
 俺自身、母親との思い出なんて何一つない。
 樹が大切に持っている一枚の写真だけが、母さんの存在を俺に実感させた。
 樹によく似た顔立ちの中で、俺の顔が高校生という枠に収まってしまうのは、目元の印象が幼げだからだ。その目元は、写真の中の少女とよく似ていた。
 時々、樹が懐かしそうに目を細めて、俺を見る。それは俺の目元を通して、冴という俺の母さんの面影を見ているのだろう。
 思い出があるから、生きて行ける、と樹は言う。
 俺自身も口癖になってしまった言葉だ。
 今まで、沢山の人達と出会っては別れてきた。
 そうして、胸に刻んできた思い出は、時間という概念から切り離された世界で、俺を生かし、樹を生かす。
 だけど、思い出は懐かしさだけを残してはくれない。
 失われた存在に泣きたくなるような痛みが、胸を苦しくさせる。
 死んだ万里の思い出が、生きている俺の胸を締め付けて、痛い。
 もしかしたら、俺は千尋に余計な痛みを与えているんじゃないか? 
 ふとした考えに、背筋が震えた。
 死んだ母親と割り切ってしまえたかもしれない存在を、俺は千尋に突きつけようとしている。
 それはナイフの刃にも似て、下手したら傷つけてしまうかもしれない。
 ……優しいなんて賛辞は、やはり俺には不似合いだ。後先考えずに、俺は何てことをやったんだ。
「冴樹君は……お母さんのことが見えるんだよね?」
 そっと千尋が問いかけてきた。
 俺はやや間を置いて、頷いた。
 嘘だなんて言えない。千尋の目を見て、それだけはわかった。
「話も出来るの?」
「……万里が話していることだけは聞き取れる。でも時々、聞こえなくなるかな」
 俺は齟齬が生じないような言い訳を口にした。
 俺が千尋に話してやれることは、昔に万里から聞いたことだけだ。
 万里が自慢げに話した千尋のこと。
 千尋の大好物について、嬉しそうに話していたその顔。
 刻まれた思い出を反芻して、さも今聞いたように話すだけだ。


前へ  目次へ  次へ