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 7,真実への扉


 こちらに引っ越してきた日に、俺は新しい住処を確保した後、腰を落ち着かせる前に万里の事故現場へと向かった。
 俺が万里や千尋と出会った公園。その出入り口で、万里は飛び出した子供を庇って死んだ。
 事故が多いその場所には、昔と変わらず献花が捧げられていた。俺も持参した花をその場に置いて、線香に火をつけた。
 俺は幽霊なんて信じていないし、魂なんてものは死んだら終わりだと思っている。だから、自分が死者に対して慰霊している行為に違和感を覚えなくもなかった。
 万里はここにはいない。
 死んで――万里の人生は終った。
 まだ二十五歳の人生だった。
 短いと思う。未練はあるだろう。
 だが、万里が死んだ後も幽霊になってこの世に居残っているなんて、俺は思わない。
 終った。死んだ。それが全てで、続くものなんて、何もない。
 だから、献花も慰霊も、万里に届くことはない。
 ……でも。
 万里が子供を庇った行いは、その結果が万里の死に繋がってしまったが、万里の取った行動は褒めたたえてあまりあるものだったと、俺は思う。
 自らの危険を省みず、人の命を救った。
 もっと自分の身を大事にしろよ、と怒鳴ってやりたい気持ちもあるけれど。
 万里の勇気に、花を捧げるのは、別段おかしなことじゃない。
 そう自分に言い訳しながら、電信柱に向かっていたとき、一人の男が近づいてきた。
 その男は、俺と目が合うと猛ダッシュで逃げていった。
 それが今、目の前にいる、千尋の幼馴染みだという男だった。
 まあ、場所が場所だったし、時間が時間だったわけだし?
 俺がこういう人間離れした姿だから、人外のモノに――正しく、人外なんだけど――誤解されてもしょうがない。
 つまるところ……俺を幽霊と錯覚してしまったわけなんだろう?
 そんな俺を、いきなり幼馴染みから紹介されたら……まあ、混乱するかもな。
 俺はそこまで推理して、相手に媚を売るように笑いかけた。
 大丈夫、別にとって食ったりしねぇよ、ってな感じに。
 唇の端を持ち上げて、白い歯を覗かせる――いわゆる、爽やかな笑顔っていうのを試みる。そして、俺は男の正体に気がついた。
 千尋から、幼馴染みだとだけしか聞かされていなかった。だが、万里もよく知っている奴だと考えれば、該当するのは一人だけしかいない。
 俺が知っているあの子供の頃の面影は、全然ないのだけれど。
「……風見……翔?」
 俺はその名を口にした。
 男は半開きの口を、まるで金魚のようにパクパクと動かした。声も出せないほどに驚いている。
 俺は確認するように、隣の千尋に目をやった。千尋は、俺の視線を受けて頷く。
 その通りだ――と。
 答えを前に、俺は再び翔に目を向けた。
 俺の記憶にあった小さなガキは、いまや立派な男に成長していた。
 万里が命をかけて守ったあの翔が。
 ……そう。
 万里は公園から飛び出した翔を庇って事故死した。
 千尋が俺を――万里の幽霊が見えるという俺を――この幼馴染みに会わせたかったその理由っていうのは、多分、きっと……。
「安心しろよ」
 俺は驚愕に震えている翔にそっと声を掛けた。
「万里はお前を恨んじゃいない」
 翔の黒い瞳が泳ぐ。その言葉を確かめるように、俺を、千尋を見る。
「……万里は、お前を守れたことを喜んでいたよ」
 俺は、あの事故から今まで、翔が抱えてきたであろう重圧を考えた。
 幼馴染みの母親を、自らの不注意で死なせてしまった……その罪の重さ。
 それを想像するだけで、泣きたくなった。
 俺には万里の幽霊なんて見えないし、今の翔に万里がどんな感情を持つのか、わからない。
 だけど、救急車を待つ――永遠にも思えた時間に、万里は俺の腕の中で言ったんだ。
『……翔ちゃんは……大丈夫だった?』
 切れ切れの吐息の狭間で、万里は翔のことを心配していた。
 大丈夫、怪我の一つもしていない、と俺が告げると、万里は嬉しそうに笑った。
 その後、救急車の到着を待たずに、万里は呼吸を止めた。
 蘇生を試みて、病院へと運ばれる万里を見送った後、俺は公園で現れるはずのない万里を待ち続けた。
 もうそこには千尋も翔も現れることはなかった。
 俺と万里の繋がりは、その公園だけで。万里が千尋と暮らしていたアパートも知らなかったし、万里の実家も知らなかった。
 調べれば何か、わかったのかもしれない。けれど、千尋や翔のことがわかったところで、俺に何が出来る?
 だから事故のことで落ち込んでいた俺を樹が見かねて、別の町に行こうと言ったとき、俺はその提案を受け入れた。
 そうして十三年、俺は万里たちのことを思い出すことなんてなかった。記憶に蓋をして、思い出さないようにしていたのかもしれない。
 それはあまりに悲しい思い出だったから。
 けれど、翔は違っただろう。小さい子供だったけれど、翔は事故のことを鮮明に覚えていたに違いない。
 夜の公園前で見かけたとき、翔の手には花束が握られていた。
 俺に驚いて逃げたけれど、翔は事故のことを思い出しては万里に花を捧げに、何度もあの場所を訪れたんだろう。五歳だった子供の心に刻まれたのは、決して優しくない思い出。
 万里は本当に翔が好きだった。
 それは俺がよく覚えている。
 だから、翔を守ったことに対して、嬉しそうに笑ったあの笑顔に嘘はなかったと確信している。
 今、翔の心に刻まれた傷を癒せるのは、恐らく俺だけだろう。
 万里の幽霊が見えるという嘘をついた俺だけが。きっと、その嘘は千尋を傷つけることになると、わかっていても……。
 俺は翔の方に一歩踏み込んだ。翔は縮まった距離を確保するように、後退した。足をもつれさせて転げそうになるのを、俺は手を伸ばして捕まえた。
 指が、腕が、身体が震えているのが繋いだ手から伝わってきた。
 ――怖いのか?
 俺が? ……それとも、万里の幽霊が?
「万里は、お前が好きだよ」
 俺は翔の身体の震えを封じ込めるように、手に力を込めていった。
「だから……自分をもう、責めなくていい」
「……何で」
 震える唇から、翔はかすれた声を出す。
「……何で……お前にそんなことがわかるんだ?」
「それは」
「翔ちゃん、冴樹君はお母さんの幽霊が見えるんだよ」
 俺に代わって、千尋が翔を説得する。
「だから、冴樹君が言っているのはお母さんの本心なんだよ」
「……そんなの……嘘だよ。……千尋、幽霊なんて……」
 そんなものはいない、と声を絞り出して、翔は吐き出す。
 じゃあ、あの事故現場で、俺を見て驚いたのは何だよ?
 俺を幽霊と見間違えて、驚いたから逃げたんじゃないのか?
 その思考に走るっていうのは、幽霊の存在を心のどこかで信じているからなんだろう?
 そうじゃなかったら……何で、そんなに驚くんだ?
 俺は思わず翔を支えていた手を離した。
 もしかしたら、俺が万里そっくりに育った千尋を亡霊と思ってしまったように。
 翔も、俺のことを幽霊と勘違いしたからではなく、過去の亡霊と捉えたのだとしたら?
 死んでしまった万里。消えてしまった十三年前の俺。
 三歳だった千尋は、俺のことを忘れてしまった。
 けれど、五歳だった翔の記憶に刻まれた万里との思い出は、深く深く傷として残っていて。そこには俺の存在も、欠片にでも残っていたかもしれない。
「……翔。……お前は俺を……覚えているのか?」
 翔の目が大きく見開かれた。
 確信させた、と思った。
 疑問に思っていて、だけどありえない現実を前に混乱して怯えていた翔に、俺は問いかけることで、事実を突きつけてしまった。
 ――ヤバイ。
 俺は、自分の身体の中で血が凍りつくのがわかった。
「……お前」
 翔が俺に詰め寄ってきた。一瞬にして、立場が逆転した。
 それは俺が鏡を見なくても自覚できるほどに、青ざめた顔色にあったと思う。
 混乱した頭で、恐れる存在じゃないと判断したならば。
 翔を突き動かすのは、俺への怒りだろう。嘘をついてまで、千尋に近づこうとする俺への怒りが、そのまま声にも現れていた。
「やっぱり、そうなのかっ? あのときの、アイツなのかっ?」
 詰問してくる翔を前に、俺は何も言えなかった。
 何と言えばいい?
 翔の言葉を肯定してしまえば、俺が嘘をついていたことが、千尋にバレてしまう。
 この嘘は、千尋をきっと傷つけるだろう。そうわかっていて、俺は嘘をついた。
 千尋の中に、新たに俺が植えつけた万里という母親の存在を、今さら嘘だなんて言えるはずがない。そのほうが、もっと千尋を傷つける。
 でも、翔にはこの嘘は通用しない。
 翔は、俺のことを思い出した。
 万里のことを、俺は初めから知っていた。そんな俺が、死んだ万里の気持ちを語ったって、翔には届かない。
 翔に届く言葉があれば、それは十三年前の万里の言葉だけだ。
 だが、その言葉を、嘘をつき続けたまま、言えるはずがない。
 真実すら、嘘に変わってしまう。
 翔には真実が必要で。だけど、千尋には嘘が必要ならば、俺はどっちを選べばいい?
 俺はこちらの襟ぐりを掴んだ翔の手を引き剥がすと、卑怯だとわかっていたけれど、その場から逃げ出した。


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