8,記憶の欠片 「お帰り、冴樹ちゃん」 いつもの笑顔で俺を迎える樹は、昨日と同じように表情を変えると、小首を傾げた。 「何かあったの?」 そんなにバレやすい顔をしているのだろうか。少なくとも、笑ってやり過ごせるような、表情ではないと自覚はするが。 「……今日、翔と会った」 俺は玄関先に立ったまま、ポツリと言った。 「……翔?」 「万里が事故ったとき、庇った子供だよ。千尋の幼馴染み」 淡々と告げた事実を前に、樹はそっと目を伏せた。 「……そう」 「あいつ、俺のことを覚えていた。いや、多分……忘れていたと思う。それを、俺が思い出させた……」 「……そう」 「きっと、俺たちの正体がバレるのは、時間の問題だ」 見上げれば、伏せた目を見開いて樹が俺を見つめ返す。静謐な青灰色の瞳が、 「冴樹ちゃんは、どうするの?」 静かに尋ねてくる。 俺のドジを責めようなんて気は、樹には起こらないんだろう。 正体がバレたら一番ヤバイのは、他でもない樹自身だと言うのに。 腕を掴まれて、太陽光の下に引きずり出されたら、血を飲んでいない樹の身体は一瞬にして灰へと変わる。 その危険性を誰よりも身に染みてわかっているはずなのに。 樹はどこまでも、俺に甘い。 「どうするって……」 直ぐに返せる言葉はなかった。唇が乾いていた。喉がカラカラで、声が思うように出せない。 「僕は冴樹ちゃんに従うよ。もし、この町を離れたいって言うのなら、そうしよう。残りたいっていうのなら、ここに残ろう」 「――お前、自分が言っていることの意味、わかっているのか?」 「うん。ちゃんと、わかっているよ。でもね、冴樹ちゃん。誤解しないでね? 僕はこれからのことに対して、責任を押し付けようとか、そんなことを考えているんじゃないよ。僕は、冴樹ちゃんのやりたいことを、やりたいようにやって欲しいだけ。もしも、何か起こったら、そのときは僕が全力で冴樹ちゃんを守るから」 「俺のやりたいことって、何だよ?」 「冴樹ちゃんのやりたいことだよ」 「わかんねぇよ、そんなこと。初めから、自分が何を考えているかなんて、わかっちゃいねぇんだからっ!」 俺は樹の横をすり抜けて、自分の部屋に飛び込んだ。派手な音を立ててドアを閉じ、安っぽいパイプベッドに転がった。 うつ伏せに転がって、それから首をよじる。 何もない部屋が目に映る。 家具は、その先々で調達するようにしていた。引っ越してきたばかりのこの部屋には、本当に何もない。ただ、生活に必要なものを最低限のものを詰め込んだバックが二つ、転がっている。 それだけの荷物を抱えて、俺と樹はこの町にやって来た。夜の鈍行列車から、懐かしい町並みを目にしたとき、俺は駅を一つ乗り越して、樹を引っ張って降りた。 次の棲家をこの町にしようと言った俺に、樹は少しだけ戸惑ったような表情を見せた。 昔、住んでいた町の近くにまた住むなんて、俺たちの事情を――年を取らない――考えれば止した方がいい選択だった。 だけど、俺はこの町を選んだ。 そうして、俺は万里のことを思い出していた。十三年の封印を解いて、事故現場へと向かった。転校した先で、万里の娘の千尋に再会して、幽霊が見えるなんて嘘をついた。 何かに導かれるようにと言ってしまえば、聞こえはいいけれど。 俺は何かを予感して。だけど、具体的には何も考えていなくて。 いつだって、行き当たりばったりだ。 こんなんじゃ、万里の無鉄砲さを怒れない。 俺は思わず苦笑して、問いかける。 なあ、万里。……俺は、何がしたいんだと思う? * * * 春の陽気は人も心も浮き立たせるもんだ。桜色に染まった町並みに、重たかったコートを脱ぎ捨てて、軽やかに。 そんな浮かれ気分は、人に限ったことじゃない。 サナギから孵った蝶は、フワフワと柔らかい風に乗って気持ち良さそうに、俺の目の前を飛んでいった。 俺は蝶が飛んでいった先を視線で追いかけて、ギョッと目を剥いた。 目と鼻の先で、小さな子供が手を伸ばして蝶を追いかけていた。 それが広い原っぱだったら、なかなか長閑な光景だっただろう。でも、俺が歩いていた道は、高校帰りの帰り道での通学路。歩道から少しでもはみ出せば、車がバンバン走り抜けて行くような町中だ。 俺は慌てて車道に飛び出しかけた子供の身体を掬い上げた。小さな身体は軽くて、抱え上げた勢いで空中に放り出しそうになっていた。危ない。俺の腕力っていうのは、人並み以上のものだから――吸血鬼の血を引いているからか、俺の身体能力は人間の枠から外れていた――気をつけないと。 勢いを殺すように、俺はアスファルトに膝をついた。そんな俺の傍らを走り抜けた車が巻き上げた風が、黒髪をなぶっていく。 呆然と車道の端に消えていく車の影を見送った後、子供がやって来たであろう方向を振り返った。児童公園の入り口があった。この前の道を何度となく通ったけれど、中に入ったことはなかった。 俺は両腕に子供をしっかりと抱いて、そろりと足音を忍ばせて――何でそんな真似をしたのか、いま一つ覚えていない――公園に入った。 所々に植林された桜は満開で、花見客が居るのではないかと思ったが、意外に公園は閑散としていた。児童が遊ぶ遊具が疎らに置かれ、公園の奥に置かれた木製のベンチに、若い女が一人、うつらうつらと舟を漕いでいた。 俺は辺りを見回す。他には誰もいない。 だとすれば、この女が子供の母親だろう。 母親にしては、少し若い気がしないでもない。だが、母さんが十七歳で俺を産んだことを思えば、母親になる年齢なんてあまり関係ない。 問題は、母親になるという自覚だろう。 そう考えた瞬間、俺はベンチを蹴りつけて怒鳴っていた。 『――オイっ!』 揺れる振動にビクッと身体を震わせて、女は目を開けた。 驚いた顔で見上げてくる女を睨みつけて、俺は言った。 『生んだ子供の命に責任が持てないのなら、子供なんて生んでんじゃねぇよっ!』 『なっ、何なのっ?』 俺の剣幕に訳がわからない様子で、女は目を白黒させる。俺は構わずに言葉を叩きつけた。 『ちゃんと、目を開いて自分の子供を見ていろって、言ってんだよっ! 危うく、車道に飛び出すところだったぞっ?』 俺は女の前に、子供を突き出した。 反射的に俺の手から子供をひったくって、女は俺を見上げる。 『まったく。ちゃんと、見てろよな? 子供なんて、何をやらかすかわからねぇ生きモノなんだからさ』 そう言う俺自身、子供の頃、何を考えたのか二階の窓から空を飛んだことがあった。 今思い返しても、自分の馬鹿さ加減がわからねぇが――マジで、何考えていたんだ? 空を飛べるなんて、本気で信じていたとか? 今日びのガキは、そんな夢なんてみやしねぇと思うぞ――まあ、ある程度分別がついた奴なら、空を飛びたいと思うだろうけどな。死へのダイブを試みて。 全身骨折で首の骨も変な方向に折れ曲がった俺を前に、樹は悲鳴を上げた。 曇った日だったが、それでも昼間外に出るのは辛かったと思う。なのに、外へと飛び出して俺を抱いた。 そうして俺はというと、樹から受け継いだ吸血鬼の特性の一部――驚異的な回復力で、数十分後にはピンピンしていた。 このとき、樹は俺の中で二つの血が混じりあっていることを知った。 俺が太陽光に影響を受けない身体とわかったとき、樹は俺を人間だと断定した。だから、怪我をした俺に動揺したのだろう。人間だったら、間違いなく死んでいてもおかしくない大怪我だったから。 なのに、俺は死ななかった。 ラッキーと、安易に喜ぶようなことじゃないのは、十分にわかっている。あんな馬鹿な真似は二度としちゃいけない。ただでさえ血の気のない顔が、紙のように白くなったのを樹の顔を思い出すたびに、俺は心に誓う。 樹にとって俺しかいないように、俺にとっても樹しかいない。 吸血鬼の長い寿命を、共に共有できるのは、その血を分け合う壊れた時計を持つ者だけなんだ。 『あ、……ありがとう』 女はようやくことを理解した様子で、俺に礼を言ってきた。 黒目がちの大きな瞳と、健康的な白い歯を覗かせる眩しい笑顔。 その女が、他でもない万里だった。 |