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 9,様々な事情


『別に』
 俺はぶっきらぼうな口調で続けた。
『たまたま、俺の目の前をその子が飛び出してきたから、助けられたんだ。目の届かないところだったら、俺がアンパンマンでも助けてやれない。だから、母親のアンタがちゃんと見てなくちゃ駄目だぜ?』
『うん、そうだね。……ちょっと疲れていたなんて、そんなの言い訳にならないね』
 肩を落としながら、万里は呟いた。
 消沈したその姿を見れば、ちょっと言いすぎたかと思う。俺の本当の年齢ならともかく、高校生の俺に親としての自覚を説教されたら、大人としての立つ瀬がないだろう。
 実際に、育児とは疲れるものだ。
 疲労がピークに達していたところに、うららかな春の陽気。
 眠りこけてしまったところで、責めるのは酷か。
『そういうときは、家で休みな。子供の面倒を良く見る母親っていうのは理想的だけど、それでアンタが疲れて、精神疲労から育児ノイローゼになって、幼児虐待に走ったら子供が可哀相なんじゃねぇの?』
 慰めるように言った俺を見上げて、万里はポカンと唇を開けた。
『……飛躍するね。もしかして、経験ありなの?』
 何でそうなる?
『例え話だよ、気にするな』
『ホント?』
 万里は子供を抱いて立ち上がると、疑るような目で俺の顔を覗いてきた。
『やけに、気にするんだな』
『他人の痛みに鈍感になりたくないだけだよ。ねぇ、君は大丈夫?』
『ああ、大丈夫だ』
『…………』
 真実を見極めようとするかのように、黒目がちの瞳が俺を見据える。
『ホントだよ』
 俺は代わりにベンチへと腰掛けながら、笑う。
『生憎と、俺には親がいなかったからな』
 兄貴だけなんだ、と言う。その兄貴が、本当は俺を育てた実の父親だなんてことは、後々ことを考えて黙っておく。
『……あ、ゴメン』
 俺から与えられた情報で、万里が俺の家庭環境をどう推測したかはわからない。
 両親を亡くして、施設に引き取られ。今は兄貴と二人暮らし? ――妥当な落ち着き先は、そんなところだろうか。
 まさか、母親の元から父親が赤ん坊を連れて逃げ去ったなんて。そんな真相まで、いきなりぶっ飛んだりはしないだろう。
『謝ることじゃない。家庭の事情なんて、詮索しないと知れないことだろう、普通。最初から、どこまで踏み込んでいいなんて、わかるわけねぇしな』
『君、高校生?』
 万里は俺の前に立ったまま、小首を傾げた。
『見たままだな』
 俺は自分の姿に、目を落とした。
 学生服を着ているのは、中学生か高校生くらいだろう。
 四十過ぎのオッサンは学生服なんて着やしないだろうからな。……まあ、セーラー服とか、着るかもしれない? ――と、嫌な想像をしてしまい、俺は顔を顰めた。
 その表情を誤解したのだろう、万里は『中学生なの?』と、目を丸くした。
『違う。一応、高校生だ』
 一応と言ったのは、実際年齢が高校生の枠から外れるから。高校生というは、この人間社会で穏便に暮らしていくための肩書きだった。
 俺は目を瞬かせている万里に、通っている高校の名前を口にした。この公園前の道路を南に下ると、高校があった。
『そこの二年。名前は鬼堂冴樹。って、聞いてねぇか?』
『今聞こうと思っていたところだよ。サキくんって言うの? どういう字?』
『冴えるの、冴。樹木の、樹』
 説明しながら、俺は足元を探して小石を拾い上げると、地面に文字を刻んだ。
『私はねぇ』
 差し出してきた手に小石を渡すと、万里は腰を屈めた。そうして、俺の名前の横に自らの名前を書き記した。
 ――柚木万里。
『柚木――バンリ?』
『マリだよ。そしてこの子は、千尋』
 通りすがりだった俺を相手に、万里はよろしくね、と言ってきた。


                  * * *


 十三年前、俺は高校生だった。
 十三年経った今も、高校生をしている。
 吸血鬼である父親と、人間の母親という二つの血を引いた俺は、太陽光に影響を受けない身体であることを、二歳のときに知った。
 それまで樹は、俺が太陽に焼かれることを恐れて、外へ出すことはなかった。
 俺が二歳のとき、樹はようやく決心をして、日差しの弱い日を選んで外へと連れ出した――樹は今ではまったく血を飲んでいないが――どうしても、外に出なければならないときは俺の血を飲ませるが――その頃は病院に出入りして輸血用の血液を飲んでいたらしい。俺を育てるためには、暗い闇の中ではなく、人間社会に身を置いていたほうがいいと判断してのことだったらしい――そこで、俺は人間の血を見せ付けた。
 そして、何歳の頃だったか忘れたが、空を飛んで大怪我をした事件により、俺の中に吸血鬼の血が間違いなく流れていることも証明した。
 吸血鬼ではないのに、人間でもない。そんな半端な俺は、もしかしたら人間のように老いて死んでいく可能性もあった。
 だが、十代後半になると、成長が止まった。
 日々の歳月に数センチずつ伸びていた身長がピタリと止まった。成長期が終ったのかと、思っていれば五年が過ぎても容姿に全くの変化が見えなかった。
 その頃はまだ、俺の中の時計が壊れているなんて、思いもしなかった。だから、樹の素性を隠すために二、三年をめどに住処を変えていたそれは、どこまでも樹のためだった。
 しかし、十年過ぎても変わらないとなると、流石に自覚せざるを得ないだろう。
 俺は成人と偽ることを止めて、高校生という肩書きを持つことにした。大学生でも良かったが、己の身分を明かす際に説明しなければならない。
 高校生なら、制服を着ていればどこの学校に所属しているのか、一目瞭然。わずらわしい説明の手間を省いた。
 こうして、俺は病気の兄貴を持つという理由で転校し、外の世界と繋がっていた。
 それまでと同じように、二、三年をめどに住む場所を変えて、ただ静かに――って、俺たちの容姿じゃ目立つなっていうのは、なかなかに難儀なことだが――静かに暮らしている。
 ただ、それだけ。
 何も望まない。望むことなんて、出来ないことを知っている。
 壊れてしまった時計は、置き去りにされるだけだから。
 本当は、同じ時間を生きていくことができないこんな俺が、人間たちの世界で暮らすなんて、はなから間違っているのかもしれない。
 樹がその昔――母さんと出会う前のように――山の奥、暗闇の中でひっそりと生きていたように、人と関わらずに生きていれば。
 別れなんて、知らずに済んだのだろう。
 それでも、俺は……。
 俺の中に流れる半分の血が、時間を止めてしまった後も、光の中に生きることを求めてしまう。
 きっと、暗闇で生きていれば、俺は樹を恨んだと思う。
 かといって、樹と決別して一人で生きていく覚悟はない。
 壊れてしまった時計の寿命は果てがない――何しろ、壊れてしまっているのだ――そんな途方もない時間を一人でなんて、想像するだけで背筋が震える。
 その孤独を知っている樹は「冴樹ちゃんがいてくれて、嬉しい」と笑う。
 だから、流されるようにしながら、思い出だけを胸に刻んでいく。
 何事もないように笑っていれば、樹もまた笑ってくれたから。
 笑っていれば、どんなに辛い別れにも耐えられる気がしたんだ。
「冴樹ちゃん?」
 樹が俺の背中に声を掛けてきた。
「――どこに行くの?」
 スニーカーの靴紐を結びながら、俺は答えた。
「ちょっと、散歩」
 部屋に閉じこもり、ベッドに寝転がっていると、うとうとしてしまったらしい。外はすっかり暗くなっていた。
 考えなければならないことは山ほどあるのに、頭が働かない。とりあえず、身体を起こしておかないと眠ってしまいそうだったので、気分転換もかねて散歩へと出ようとした。
「僕も一緒に行ってもいいかな? 冴樹ちゃんの邪魔はしないようにするから」
 樹が控えめな声で問う。
「ああ」
 俺が頷くと、樹は破顔一笑。たかが、散歩なのに何がそんなに嬉しいんだか。
 まあ、学校に通っている俺の生活は昼中心で。太陽光の下に出られない樹が俺と一緒に行動できる時間は限られていた。
 だから、俺と一緒に何かを出来るということが嬉しいのだろう。
 本当に、こっちが呆れてしまうくらいに、樹の世界は俺が占めている。これだけ誰かに思われるというのは嬉しいものだけれど。相手が血縁の男子としたら……素直に喜べないのも事実だな。
 外はしんと静まり返っていた。田舎の夜は、闇が深く星が眩しく輝いている。
 あの星座は何だ? と、問いかければ、樹はツラツラと星座の名前を並べていった。
 目的なんてないままに歩いていたら、気がつけば万里の事故現場近くに来ていた。
 電信柱に備え付けられた白色街灯に照らされた歩道。公園入り口に目をやれば、翔が立っているのが見えた。


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