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 10,瞳の先


 翔は俺たちを見ると、目を剥いて顔を引きつらせた。
 闇の眷属である吸血鬼。夜の闇の中では、俺たちの存在は簡単に人間の領域から逸脱してしまうのだろうか。
 チラリと樹を横目に見やれば、白い肌が発光しているように見えなくもない。光り輝く美貌の中で、青灰色の瞳は困惑の色を浮かべて、俺を見つめ、翔へと向けられた。
 その横顔は現実離れしていて、翔からすれば踵を返し逃げたくなるのか。
 俺は去ろうとする翔の背中に声を掛けた。
「……話をしないか?」
 俺の声は、自分でもビックリするくらい頼りなげで。翔の振り返った顔は、こちらを気遣うような色さえ見えた。
「何もしない……。ただ、話がしたい」
 翔は少し考えるような間をおいて、小さく頷いた。
 俺たちは公園に入る。樹は気を使ってか、ベンチから離れた位置のブランコへと向かった。キィとかすれた錆びた音が静かな闇に響く。
 俺と翔は、俺が初めて万里と出会ったベンチに腰掛けた。昔のベンチは古くなって廃棄されたのか、記憶にあったものとは形が変わっていた。公園を見回せば、外灯の明かりの下、他の遊具もペンキが塗り替えられていたりするのがわかった。
 時間が確実に経過している。そういうものを見るたびに、こういうのには慣れたつもりでいるのに、郷愁が胸を締め付ける。
「……あの人は?」
 囁くような声で、俺は我に返る。振り返れば、翔が樹へと目を向けて聞いてきた。
「樹っていう……俺の親父だよ」
 いまさら、翔に嘘をついてもしょうがないので、事実を告げた。
「……親?」
「実の。……もう、お前は俺たちが年を取らないことは、わかっているんだろう?」
「お前たちって……何なんだ?」
 遠くの樹を見やり、それから俺へと視線を移して、翔は困惑顔で問う。薄々、何かを感じていながら、まだ何と確信できる答えを見つけていないようだ。
 俺は翔の表情の変化を見るように、告げた。
「……人間がいうところの吸血鬼が一番近いか」
「きゅう……」
 吸い込んだ空気が喉で鳴ったような音を、翔は吐き出した。明かりだけの薄闇の中でも、翔の顔色が劇的に変わるのがわかった。
 やっぱり、俺たちは憧れの対象なんだろうか? 小説や映画で描かれる化け物のイメージしかないのだろうか。
「本当……に?」
 かすれた声で、確認する翔に俺は頷いた。
「ああ。でも、安心しろよ。俺も樹も、血は吸わない」
「……吸わなくても、平気なのか?」
「血を吸わないと太陽光の下では生きられないけれど、昼間外に出なければ、普通に生きていける」
「でも、お前は?」
 翔の身体が硬く硬直するのが、気配でわかる。俺は視線をそらして笑う。
「俺が継いだ吸血鬼の血は半分だけなのさ。人間以上の生命力、身体能力なんていうプラス面だけを受け継いだ」
「……半分?」
「俺の母親は人間だった。だから、俺の皮膚は太陽光を浴びても人間同じで、日焼けをするくらいさ。純粋な吸血鬼の樹のように火膨れて炭化することはない」
「……人間」
「でも、寿命は吸血鬼のそれだな。身体が成人すると、成長が止まってしまう。俺の中で時計が止まったのは、もう二十年以上前か。だから、お前が子供の頃に会っていた俺と、今の俺は同一人物だよ」
 俺はベンチから腰を上げて、翔の前へと向かい合うように立った。
「なあ、覚えているか? ……この公園で、俺は万里と色んな話をした。そんな俺たちが見つめていた先には千尋がいて、お前がいた」


                   * * *


 万里と出会った翌日、俺は学校帰りの道をいつもと同じように帰っていた。公園の近くで何気に顔を上げると、公園の入り口の、車の侵入阻止する柵に――太い鉄パイプをコの字にし、地面を埋め込んである――千尋を抱いて座っている万里の姿が入った。
 誰かを待っている風な万里に、俺は声を掛けた。
『誰を待っているんだ?』
 俺の姿を見つけると万里はピョンと飛び上がるように、立ち上がった。その所作は何だか子供っぽいんだが、不思議と万里らしいと思った。まだそんなに思えるほどに、万里のことは知らなかったというのに。
『待っていたのは、冴樹君だよっ!』
 張り上げられた明るい声。一瞬、耳から音を奪われた。
 元気というより、凶器に近い声。
『……俺?』
 片耳に手を当てて、自分の声が鼓膜に反響するのを確認しつつ、問い返す。
『千尋の命の恩人君だもの。御礼をしようと思ってね、お菓子を作ってきたんだよ。ねぇ、少し付き合わない?』
 強引ではないけれど、断りきれない雰囲気で、万里は俺を公園に引っ張りこんだ。
『礼なんていいよ』
『遠慮なんてしないっ! っていうか、遠慮しないで欲しいな。せっかく、君みたいな綺麗で若い子と知り合えたんだから、これはもう親密になるチャンスっ! って、オバさんは一大決心をしたわけだよ』
 万里は拳を握って、力説した。
『オバさんって……まだ若いだろ?』
『えっ? でも、二十五だよ。君はまだ十六か十七でしょ? 君に比べたら、悲しいことにオバさんだわね』
 ……実年齢から言えば、俺は万里より年上だったりするんだが。
『そんなことを言ったら、世間のうら若き二十代の女たちが泣くぜ?』
『じゃあ、おネエさんってことで』
『ちょい待て。アンタ、千尋の母親なんだろ? 旦那は?』
『旦那さんはいないんだな、これが。だから、君と私が付き合うことになっても、不倫にはならないから安心してっ!』
 万里は千尋を片腕に抱えた姿勢で、無意味に張った胸を叩いた。
 俺は呆れて、暫く開いた口が塞がらなかった。
 ハッキリ言ってしまえば、何なんだ、この女はという感じである。
 人並み外れた外見のせいで、色々な女が言い寄ってきた。俺はそういう、こちらの迷惑を顧みず、自分の好意を押し付けてくる女は大っ嫌いだった。そういう相手には、これでもかというくらいの暴言を吐き散らしたこともある。
 それが俺の本質で、その辺りのことを理解しない女とは恋愛する気もなかったので、俺は転校して数日すると、猫の皮を脱ぐ。そうすると大抵の女は、寄ってこなくなる。
 学校の方では、既に俺の性格の悪さが知れ渡り、遠めに俺の外見を観賞する以外に、接触してくる女はいなくなっていた――代わりに、男友達が増えたけれど――これで穏やかな学園生活が送れると思っていた矢先、この万里の出現に俺は目眩を覚えた。
 ……何だか、すげぇ強引そう。
 俺の好みはといえば、万里のように我を通すような女ではなく、その反対の他人のことを気遣い、自分の気持ちを押し殺してしまうような、女だ。
 樹を長い間、見てきたからだろう。
 自分を犠牲にして他人を優先しようとする女を見ると、守ってやりたくなる。
 実際のところ、俺は樹を守っているつもりで樹に守られているところが大きい。
 やっぱり、何だかんだ言っても、樹は俺の十倍近く長生きしているし、辛い思い、苦しい思いを俺以上に味わってきた。
 両親が惨殺されたこと、何百年も暗闇の中で息を潜めるように生きてきたこと。
 その人生経験の差は、俺と樹の間には歴然としていた。
 自分を犠牲にしても「冴樹ちゃんが笑っていてくれるなら、僕は幸せだから」と言い切ってしまえるその強さは、俺にはまだない。
 強くなりたいと思う。優しくなりたいと願う。
 けれど、そう思い願っている間は、俺はまだガキなんだろう。
 と、いうわけで。俺の万里への印象は、あまり良い感じではなかった。好みとはかけ離れすぎている。
 だが昨日、俺からあれだけキツイことを言われたにも関わらず、めげない根性には感服させられた。
 母親って、こういうものなんだろうか?
 俺たちが腰掛けたベンチの中央に、万里は明らかに手作りと思われるクッキーを差し出してきた。
『旦那さんがいないって……』
 問いかけながら、クッキーを一つ齧ってみる。口の中で簡単に砕け、溶けていく。子供にも食べやすい柔らかな食感。甘さは上品で、見た目に思った印象より、はるかに美味い。
『離婚したとか?』
『ううん。初めから、いないんだ』
『何だよ、それ』
『内緒で子供を産んだの。迷惑掛けちゃいけないと思って。だけど、どうしてもこの子は産みたくて』
『親には?』
『ギリギリまで内緒にしていた。もう生まざるを得ないってところまでね。それから、告白したらお父さん、怒っちゃって。勘当だって。まあ、家は出ていたから困らなかったんだけど』
 高校卒業して直ぐに就職。その際に、家を出て、もう自活していたと万里は言う。その前から、アルバイトなどをして貯金はタップリあったから、出産にも迷わなかったらしい。
 何と言うか、度胸がある女だと、俺は改めて感服させられた。
 今は午前中会社に出て、昼からは家で仕事をしていると言う。事情を察してくれた会社の社長がそう手配してくれたらしい。
 仕事の内容も会社の中でしか出来ないというものではないらしい。
『一人で育てているのか?』
『うん。でも、お母さんが時々、様子を見に来てくれるよ』
『だけど、大変だろ?』
 我が身を省みて、樹の苦労を思う。必然、万里の苦労が目に見えるようだ。
『うん。けど、自分で決めたことだからね、頑張らなくっちゃ』
 そう言って、万里はガッポーズを見せた。
『そっか』
『ホントはね、最近、ちょっとだけ挫けていたの。でも、冴樹君がガツンと言ってくれて、目が覚めた』
『何か、励ますようなことを言ったか?』
『「生んだ子供の命に責任が持てないのなら、子供なんて生んでいるんじゃないっ!」って。言ったでしょ? あれ、ジンときた。千尋を生むって決めたとき、何があってもこの子を愛してあげよう、幸せにしてあげようって思っていたのね。けど、現実はなかなか甘くなくて、大変だし嫌なことも一杯あったの。……それで、最初の決心、忘れそうになっていた』
 でもね、と強い声に引き寄せられるように、俺は万里を見つめた。
 万里は黒目がちの瞳を細めて、笑う。
『冴樹君が私を怒鳴ってくれて、頑張らないといけないって思い返したんだよ』


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