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 11,幸せの形


『大げさだな、初対面の人間の言葉でそこまでいっちゃうっていうのは、どういうことさ? アンタには、何かを言ってくれる人はいないのかよ?』
 俺の問いかけに、万里は表情を曇らせ、寂しげに笑った。それまで、豪快と言っていいほど、明るい笑顔を見せていた万里の変化に、俺は戸惑った。
 感情とは伝播しやすいものなんだろう。万里の腕の中で、千尋が泣き出した。
 万里は父親が知れない千尋を生んだことで、周りから浮いているのだという。同じ年頃の子供を持つ母親たちから異端視され、本当は万里が住んでいるアパートの近くにも公園があるらしいのだが、そちらには仲間に入れてもらえないらしい。
『別に私はいいんだよ』
 千尋をあやすように、ことさら明るい声を万里は出した。
『一人で生んで、一人で育てること。それは私が決めたことだから。でも、千尋が可哀想だよね。私のわがままに付き合わされて、仲間外れ。子供って親の行動を映すのね。分別も付かないだろうに、皆、千尋を無視するの』
『…………』
『だから、車の通りが多くて危ないけれど、こっちまで来るようにしたの。結局、一人ぼっちなのには変わらないけれど……』
 こぼしたため息が、切なく響く。
『……可哀想なのは、千尋だけじゃないと思うけどな』
『えっ?』
『アンタもがんばってんじゃん。それを、父親がわからない子を生んだからなんて理由で、蔑視されるのは辛いだろう?』
 命を産み落とすということは、大変なことで。
 その命を育て上げる労力も、他の母親たちと変わらない。
 それなのに、蔑まれる理不尽さを自分のせいだと、万里は受け止める。それは並大抵の心構えでは出来ないことなんじゃないかと、俺は思った。
『うーん。私が逃げているのかな? 何だか、あの人達の中に入っていくのが、怖くて』
 冷たい視線から逃れ、ここへ来ているのは自分の弱さだと万里は言いたいのだろうか?
 でも、それは違う気がする。
『俺は逃げることが悪いことだなんて思わない。悪いことをして逃げるのは、良くないことだけど。アンタは別に、悪いことなんてしてねぇだろ? 千尋をさ、他の奴らの負の感情から守るために逃げただけ。それは悪いことか?』
 俺は泣いている千尋に手を伸ばして、その涙の雫を指で払った。くすぐったかったのか、千尋は俺を見ると笑う。
『悪いことじゃないと思っていいのかな?』
 千尋に向かって笑った俺は、そのまま万里に目を向けた。
『さあな。でも俺はアンタより、アンタを差別する輩を、親に持った子供たちが可哀相だと思うけどね』
『……え?』
『馬鹿げた観念で、他人を否定することしか出来ない親を見て育つんだぜ? 子供の視野は物凄く狭くなるだろうさ。明らかに、損するだろ?』
 ちょっと違う、それだけで他人を否定しまうことを当たり前と受け入れた子供が、大人になったとき。その狭量を馬鹿にされないといいんだがな。
『変わったものの見かたをするね、冴樹君は』
『別に。俺は、親になったことがないからわかんねぇけど。でも、アンタが千尋のことを大切に思っているのはわかるよ』
『冴樹君は優しいね。慰めてくれているんだよね? 私のほうが年上なのに』
『優しくなんかない。優しくなれたらいいと思うけれど、肝心なときに、いつも失敗しちまう。修行不足だな。いい男への道のりは遠いよ』
 ――って、俺はいつからいい男を目指していたんだ?
 自らの思考に首を傾げた拍子に、腕時計が目に入った。
『俺、帰るよ。あんまり遅くなると、心配する奴がいるんだ』
 万里が千尋を心配するように、樹は俺を心配する。
 親って、やっぱりそういうモンなんだろうな。
『そうなんだ。ねぇ、またお話できる? 君と話していると、元気が出るよ。あ、迷惑だったら……いいんだけど』
 今までの強引さはどこへ影を潜めたのか。万里は心細げに問いかけてきた。
 俺は万里に笑いかけた。
 強引だと思った。けれど、万里の中には強さと同時に、ちょっと力を加えれば簡単に折れてしまいそうな弱さを感じた。
 それを見つけてしまうと、何だか放っておけない気がした。
『学校帰りだったら、ここで会えるさ。大体、今日みたいな時間だけど。万里の方の時間は?』
『冴樹君に合わせるよ。私が会いたんだもの』
 その日から俺は、学校帰りに公園で万里と一時間ばかり話をするのが習慣になった。
 万里は意外に――意外にというのは、失礼か? ――料理が上手くて、俺は万里に料理のレシピを教えてもらったりした。
 和風コロッケやハンバーグ。千尋が大好きなんだよ、と嬉しそうに笑っては、隠し味の細かいところまで教えてくれた。
『唐揚げはね、揚げている途中、一度空気にさらすといい感じの食感になるんだよ』
 試してみたら、美味かった。
 そうして、季節が一つ過ぎるころ、公園で遊ぶ千尋の側にもう一人の子供が付いて回るようになっていた。
 それが、翔だ。
『千尋に遊び友達が出来たんだ?』
 俺はいつも通り公園のベンチに腰掛けて、千尋と翔がブランコで遊んでいるのを眺めていた。
 翔は、万里たちと一緒にやって来るけれど、何故か、俺に近づこうとしなかった。
『遊び友達っていうか、あの子は千尋の騎士様かな』
『何だ、それ』
『千尋が苛められているところを、翔ちゃんが助けてくれたのよ。それ以来、ずっと千尋の傍にいてくれているの』
『ナイトの登場ってわけか』
『そう。優しい子なんだよ。あの子、ご両親に千尋には近づくなって言われているみたいなんだけど。それでも、千尋が泣いていると飛んできて、慰めてくれるの』
 立派な騎士ぶりに、俺は口笛を吹いた。
『案外、実は万里目当てだったりして。将を射んと欲すれば、まずは馬を射よ、って言うからな』
『あ、やっぱりー? いやー、薄々そうじゃないかなーって、思っていたのよ。私って愛される人間だから。冴樹君と翔ちゃん、二人のいい男に愛されて。ああ、私ってなんて罪な女なのかしら』
 芝居がかった仕草で、万里は泣き真似をする。
 そんな万里を俺は冷たい目で振り返った。
『万里。お前さ、この夏の暑さで頭が沸いたな?』
『ものすごぉぉぉぉぉぉく、冷たい目で見ないでくれる? 冗談だってば』
『脳味噌が蒸発する前に、瞬間冷却してやったんだ。感謝しろ』
 唇の端を引き上げて笑えば、それは皮肉な笑みに映っただろう。
『冴樹君って、前から思っていたけど口が悪いよね。もう少し、優しい口調になれば、モテると思うよ?』
 モテたくなくて、口を悪くしているんだ。
 第一に、その程度で人間性を否定するような女は興味ないんだよ。
『綺麗な外見、それだけが俺じゃない。口の悪さもまた、俺らしささ。こういう俺をひっくるめてみてくれる奴以外と、付き合う気なんてないね。万里が嫌だって言うのなら、今すぐサヨナラしてやるよ』
 冷ややかな視線で告げれば、万里は笑った。
『私は冴樹君が好きだよ』
『俺も万里のことは嫌いじゃない。千尋のことも好きだよ』
『じゃあ、お嫁さんにしてくれる?』
『……千尋をか?』
『そんなに若い子がいいの?』
 万里が真顔で問い返してきた。本気にするか? 普通。
 プッと吹き出しながら、俺は言う。
『冗談だ』
『冗談じゃなかったら、泣いちゃうところだったよ。いくら、私が冴樹君よりオバさんだからって、三歳の子に負けていたら立つ瀬がないよ』
『……本気で千尋と競うか?』
 最初から、冗談だとわかりそうなものじゃないか。
 三ヶ月ばかりの付き合いで、俺は俺なりに、万里という女のことを何となくだけど、わかり始めていた。
 芯の強そうなところがありながら、脆さもあって。
 母親として大人のようで、まだまだ子供っぽさが抜け切れないそんな女だ。
 思い立ったら直ぐ実行で。よく考えて行動しないから、失敗が多い。だけど、失敗にメゲるより先に、言い訳を並べ立てては開き直る。
 俺と出会ったとき、万里は千尋が受ける中傷にメゲていたと言ったが、あの日、俺が喝を入れなくても、一人で立ち直っていたと思う。
 一人で生きていけそうな強い女。だけど、実際に一人で生きて行けるのかと言えば、そうじゃない。
 万里には千尋がいたから。
 落ち込んでいる暇なんて与えてくれない子供を抱えての、忙しい毎日。
 そんな日々が幸せか? と、問いかければ、万里は間違いなく幸せだと笑うだろう。
『だってきっと、千尋は美人になるよ』
 万里は誇らしげに胸を張る。
『まあ、素質はあるだろうな』
 万里もなかなかに美人だ。万里への風当たりが冷たいのは、僅かながらに羨望が混じっているからかもしれない。
 育児に草臥れた母親どもより、万里は若々しい。
 年齢もあるだろうが、内側から発散される快活さが、笑顔を眩しくさせる。
 その笑顔は、万里を綺麗に見せる。
 きっと、万里の血を受け継いだ千尋も美人になるだろう。
 でも、俺はそれを知ることはない。俺はそれを確信していた。他人と同じ時間を生きられない俺は、同じ場所には止まることなんて出来ない。万里や千尋の親子の、この先を見つめ続けることなんて出来やしない。
 その笑顔を見ていると、万里が本当に千尋のことを大切に思っているのがわかった。
 だって、その笑顔は樹に似ていたから。
 樹が俺に笑いかけるその笑顔が、面影も何も違う万里の顔に重なる。
 俺は、樹がどれだけ俺のことを大切にしているか知っている。自分の望みを押し殺して犠牲にして、それでも俺の幸せを願う、と。
 だから、万里の千尋に対する深い愛情を知った。仕事をやりくりして、こうして千尋と遊ぶ時間を作っている。居眠りをしそうなほどに、疲れているのに。
 きっと、千尋は幸せだ。
 俺がそうだったから。
 壊れた俺の時計。想像を絶するような長い時間を生きなければならないと知ったとき、途方に暮れた。でも、絶望はしなかった。
 一人で生きていけと言われたら、狂っていただろう。だけど、同じ時間を生きていける樹がいた。
 一人じゃないと確信できる愛情は、俺の人生を支えてくれる。
 他人にどう見えたとしても、幸せなんだ。
 ……なあ、そうだろう?


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