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 12,伝言


 唐突に、理解する。
 俺が千尋に対して、幽霊が見えるなんて嘘をついた――その理由を。
 俺のことを忘れていた千尋。たった、三ヶ月だけだから、忘れてもしょうがない。
 じゃあ、万里のことは?
 とても深い愛情で、千尋を育てた万里のことを。
 千尋はちゃんと覚えているだろうか?
 三歳の子供だった千尋にそれを求めるのは、きっと難しい。
 だから、教えたかったんだ。
 伝えたかったんだ。
「万里は、お前を守ったことを誇っていた」
 俺からこぼれた言葉に、翔がハッと顔を上げる。
「お前は千尋にとってのナイトだったからさ」
「……ナイト?」
「騎士様って、万里は言っていた。だから、万里はお前を千尋に残したんだ」
「…………」
「お前がいれば、自分の代わりに千尋を守ってくれるって、そう確信していたんだな。万里らしいよ」
 万里と樹は、親として似ていると思う。誰よりも子供を大切にしているところ。
 でも、決定的に違う部分もあった。
 樹は自分を犠牲にしてしまうけど、万里は自分を折り曲げたりしない。
 自分の気持ちに忠実だった。
 千尋を生もうと決めたのも、千尋を誰よりも愛したのも。
 自分の気持ちに忠実に従っただけだ。
 千尋を生みたかったから――千尋を生んだ。
 千尋が大好きだったから――千尋を愛した。
 そして、千尋に幸せになって欲しかったから、翔を守った。
 そこに迷いなんて、一つもない。
 だから、翔を守れたと知ったとき、万里はあんなに嬉しそうに微笑んだ。
『良かった』と、言った言葉に偽りはない。
 それを俺は知っているから、今こうして翔に言える。
「お前は、自分を責めなくていい」
 息を吸い込んで、翔はクシャリと顔を歪める。ヒックとしゃっくりを上げて泣き始める翔を俺は黙って見つめた。
「事故の原因はお前の不注意だろう。でもな、子供に見えている範囲なんて狭いんだよ。だから、子供に対しては親が、大人が注意してやる義務がある。わかるだろう? お前は子供だった。だから、万里にはお前を守らなければならない義務があったんだ」
「だけど……俺が飛び出さなければ……」
 しゃっくりの狭間で、翔が声を搾り出す。自らの不注意で、大切な女の子の母親を死なせてしまった。
 その罪を背負いながら、翔は千尋の傍で生き続けてきた。
 千尋から逃げ出すことも出来たはずだった。
 でも、万里に代わって千尋を支え、守り続けてきたのは、自らの罪を知っているから?
 違うだろう?
 万里が確信したのは、何があっても翔は千尋を見捨てないという気持ち。
 己の罪深さを知っても尚、傍にいたいと翔が願い続けてきたのなら。
「お前が飛び出さなくても、お前に何かあれば、万里は駆けつけてお前を助けただろうよ」
「…………」
「河で溺れていたら、飛び込むだろうな。お前に血が必要だと思ったら、自分の血を分け与えただろうな。わかるだろ? 万里はそういう女だった。千尋の母親は――」
 本当に、自分の娘が大好きで。
 娘の幸せを願った。
 そして、その為に自分に出来ることを知っていた。
 万里の死は、誰かのためへの自己犠牲なんかじゃない。
 自分自身の気持ちに忠実に従った結果だ。
 千尋を誰よりも愛して、誰よりも幸せにしたかったから。
 千尋に必要だと思った翔を守った。
 それだけなんだ。
 それ以上も、それ以下もない。
「千尋が大好きだったんだよ。だから、千尋のナイトを死なせたくなかった」
「……っ」
「お前は万里の死を自分のせいだと思うな。万里は、そんなことを思って欲しくて、死んだんじゃない。お前には、千尋を想い続けて欲しかったんだよ」
 俯いた翔の目からこぼれた涙が、闇に染まった地面をさらに黒く染めていく。
「…………お前さ、俺に掴みかかってきたとき、何を思った?」
「…………」
「姿が変わっていない俺を恐れながら、それでも、昔の俺だと確信して、問いかけてきただろう? 掴み掛ってきたのは、何でだ? 万里の名を使って嘘をつく俺が許せなかったからだろう?」
「…………」
「でも、俺がついた嘘はお前を許すもので、お前を傷つけるものじゃない。それはお前にもわかっていたよな? だけど、怒ったのは許されてはいけないと思っているからか?」
「……だって、恨まれて当然でっ!」
「じゃあ、千尋はお前を責めたか?」
 しゃっくりを飲み込んで、翔は絶句した。
「母親を殺したお前を、千尋は責めたか?」
「……そんなことする子じゃない、千尋は。いつだって優しくて……」
 翔から事情を聞かなくても、千尋なら翔を許しただろうことは、俺にもわかる。
 許せない相手を傍に置いていられるほど、人間は寛大な生き物じゃない。
 小さな言葉にも腹を立ててしまうから、人は簡単に傷つけあう。
 それは誰でも同じだ。
 腹を立てることがなかったとしても、翔の存在を千尋が厭えば、翔は彼女の傍にいることなんて出来なかったはずだ。
 翔は自分の罪を知りながら、千尋の傍にいた。
 千尋は、自分の罪に苦しんでいる翔を許して、傍にいた。
 その関係は第三者の俺にも明確だ。
 翔は千尋が好きで、千尋も翔が好きなんだ。だから、千尋は翔に俺を引き合わせたんだと思う。
 万里の幽霊が見えると言った、俺の嘘を信じて、翔に許しを与えたかった。
「千尋がお前を許したのなら。お前も自分を許してやれ。でないと、千尋が可哀相だろ? 万里も報われない」
「……だけど」
「万里はお前を守って死んだことを後悔していない――十三年前のあの日、万里の死を看取った俺が言っているんだから、信じろよ」
 とはいえ、この口で嘘もついているのだから、信じてもらおうなんて無理か?
 微かな不安に、翔を見やる。
 すると、翔は顔を両手で覆いながら、俺の言葉に縋るように、頷いた。
 本当はきっと、許されたかったんだと思う。
 そうしないと、千尋との距離は永遠に縮まらないんだから。


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