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 ― 6 ―


 谷は、底を確かめるのを躊躇してしまうような暗さを湛えていた。
 きっと、確かめるまでもなく、落ちたら無事ではすまないだろう高さがある。
 底へと、転落していったグエンの安否を想像するだけで、ユウナの目の前が暗くなる。
「……そんな、グエンさん?」
 茫然自失で座り込むユウナの背後で、ベルナールが叫ぶ。
「師匠がっ! 落ちたですっ! どうします? どうしましょうっ!」
 悲鳴にも似たその声を、ユウナはボンヤリとした思考で、うるさいと思った。
 落ちた事実を今さら確認するまでもなく。
 グエンの身の安全は期待して良いものなのか。
 どうしようと問われても、どうしようもなく。
 今は魔獣を倒さない限り、ユウナたち自身でさえ、その身が危うい。
(……そんな、わかりきったことを)
 口にするベルナールの存在が――うるさい。
 うるさくて堪らない、とユウナは思う。
 そんなユウナ隣で、サーラが魔法呪文を唱えた。
「<不落の要塞>」
 金色の光が一帯に広がり、魔獣の爪を弾く。
 結界に衝突する激音に、ユウナはハッと我に返る。
「サーラさんっ!」
 横を振り向けばサーラが唇を噛んで、魔法を維持していた。強力な結界も、魔獣の力を受ければ削がれていく。完璧と思われる結界も、二度、三度と襲撃を受ければ崩壊する。
 魔族と人の歴然とした能力の差は、こんなところにも現れる。
「――ユウナ」
 薄紫色の瞳が、ユウナを振り返って告げる。
「グエンは殺しても死にません。今は、私たちが生き延びることを考えましょう」
 冷静なその言葉は、ユウナの混乱を覚ましていく。
「は、はい」
 サーラは続いて、背後でいまだ騒いでいるベルナールを振り返った。
「貴方も剣を抜いて戦いなさい」
「そんなっ? だって、オレはまだ師匠に剣を習ったわけじゃないですっ!」
「ですが、グエンから剣を譲り受けたのでしょう。師匠亡き今、貴方が戦わずに誰が彼の遺志を継ぐと言うのです」
(……サーラさん、その言い分じゃ、グエンさんが死んだことになっています)
 思考力を取り戻したユウナは、サーラの言葉の矛盾を心の中で突っ込んだ。
 真顔で、矛盾することを何の躊躇なく言ってのけるサーラが、何だか凄くサーラらしく。
 それと同じように、グエンという人間を思い出せば。
 ユウナの中に、湧いてくる確信があった。
(グエンさんは……大丈夫。だって、大丈夫って、笑ってくれたから)
 どんな苦しいときでも笑う、グエンの強さを知っている。
 窮地に落とされても、大丈夫だよ、と笑って仲間を励ます彼の強さは、谷底に落とされたくらいで命潰えるほど、軟弱ではない。
(……信じている)
 顔を上げて、ユウナは緑色の魔弾を手に、風の魔法を解放する。
「サーラさんっ!」
 ユウナの声を合図にサーラが結界魔法を解く。襲い掛かってくる魔獣に風の刃が飛んだ。一瞬、魔獣の動きが止まったところを、サーラが結界魔法を今度は魔獣に施す。
「<鋼鉄の檻>」
 結界魔法に閉じ込められ、動きを拘束された魔獣にユウナはベルナールを振り返った。
「ベルナールさん、剣を抜いてくださいっ! あの魔獣は魔力を持っています。僕たちの魔法では決定的な致命傷を与えることは出来ません。ベルナールさんの剣で、魔獣を仕留めてください」
「そ、そんなことを言われても困るですっ!」
 焦ったように腰を引かすベルナールに、ユウナは詰め寄った。
「僕たちが魔獣の動きを封じますからっ!」
 ユウナの叱咤にベルナールは渋々と剣を抜いた。
 ――しかし。
 鞘から抜き放たれた剣の刃はボロボロだった。刃こぼれがあり、刀身も鈍く錆びている。
「……なっ!」
 ユウナも剣を抜いたベルナール自身も、絶句する。
 こんな剣では、とてもじゃないが、魔獣に致命傷を与えることなど出来そうにない。
「もう駄目ですっ!」
 ベルナールは錆びた剣を放り出すと、逃げ出した。
「ベルナールさんっ!」
 遠ざかっていく少年の背中に、ユウナは呼びかけるが、ベルナールの姿はあっという間に消えた。
「放っておきなさい、ユウナ」
「でも……」
 振り返ったユウナに、サーラは決然と言い放つ。
「覚悟もなしに夢を語る愚かさを学んで、二度と勇者になりたいなど言い出さないでしょう」
 突き放すような冷たさだが、ベルナールの夢見がちな性格は、彼自身の命を危めかねないのは、事実だった。
 ユウナは、杏色の瞳で放り出されたグエンの剣を見やった。
 錆びたその剣に手を伸ばす。
 鈍い刃色だけで、酷く重たく感じる。持ち上げたそれだけで、刃から錆がこぼれた。魔竜の血を吸ったことで腐食が激しいのか。
 とても、魔獣を仕留めるに足りるものとは思えない。
 だけど、ベルナールとは違って、自らの命を賭して魔族と戦うことを決めたユウナは、ここで退けない。
 リュックの肩紐を、腕に通して左肩に担ぐ。
 僅かに重心を落として、身体の中心でユウナは錆びた剣を構える。
 頬に掛かった髪を払うように、頭を一振りして、ユウナは顎を突き上げ、前を見据えた。
 魔獣の姿を視界の中心に据える。
「サーラさん、僕がやります」
 後ろに退けない。逃げた先に、未来なんて見つけられない。
 ならば、道を切り開くしかない。どんなに難しくとも。戦うと決めたのだから。
 決意をのせたユウナの声に、サーラが薄紫色の瞳で振り返る。
 すぐに魔獣へと視線を戻して、彼女の横顔は告げた。
「ユウナには、指一本触れさせません」
「はい、信じています」
 サーラが結界魔法を解く。拘束から解放された勢いで魔獣が襲い掛かってきた。
 小細工なんて出来ないユウナは剣を突き出した。
 魔獣は迫った剣先から首をそらすと、牙を剥いて刀身に噛み付いた。脆くなった剣はパキンと乾いた音を立てて、真っ二つに折れた。
「くっ!」
 突きの勢いのままに前にのめり込もうとする身体を、ユウナは唇を噛んで止めた。
「<黄金の盾>」
 サーラは即座に守りの魔法を発動させて、ユウナと魔獣の間に盾を顕現させた。
 壁に弾き飛ばされるように、魔獣は数歩、後退する。
 ユウナは肩に右手を回してリュックから、魔弾を取り出す。
 紫色の魔弾を放り投げるようにして、魔法を解放した。魔弾から放たれた幾つもの電撃が魔獣へと落ちるが、寸前のところで魔獣は後退し避けた。
 幾ばくかの距離を確保できたが、いまだに魔獣に傷を与えられない。
 決定打を失ったユウナは焦りを覚え、サーラの横顔を振り仰いだ。
 目の前の現実にも一片たりとも揺るがない美貌。片手を持ち上げ、守りの魔法を維持しながら、魔獣を見据えた姿勢で、サーラはユウナに問う。
「――退きますか?」
「……いいえ」
 ユウナは一息の間をおいて、首を横に振った。
 逃げない。逃げたくない。諦めたくない。
「ユウナらしいですね」
「サーラさんだって、退かないでしょう?」
 上目遣いに見上げれば、薄紫色の瞳は迷うことなく告げる。
「そうですね。ユウナが退かないのなら、私も逃げるわけにはいきませんね」
「……僕が逃げたら、サーラさんも逃げてくれるんですか?」
 一度、退いて、形勢を整えなおすのも有りか? と、ユウナは考える。確か、荷物を収納した魔法アイテムの中に、グエンは予備の剣を持っていた気がする。
 とはいえ、切れる剣があったとしても、魔獣の動きに対応出来ていない自分に、どれだけ戦えるのか?
 そう考えれば、引き際を見失う。
「ユウナの退路を確保するのが私の役目なら、やはり逃げるわけにはいきませんね」
「だったら、サーラさんを置いて、逃げたり出来ません」
「私のことは放っておいて、逃げても良いのですよ?」
 自分のことなど、惜しくないと言った口ぶりのサーラに、ユウナは声を荒げた。
「駄目です。仲間を見捨てるなんて、そんなこと! 絶対に、出来ません」
 折れた剣をギュッと握りなおして、ユウナはサーラの横に並んだ。
「それがユウナの強さなのですね」
「……僕が強いと言うのなら、グエンさんやサーラさんが僕を支えてくれるからです」
 折れた剣で何が出来るというのだろう? ――半信半疑な思考の声に、ユウナは自ら語りかける。
(何も出来ないなんてことはない。折れた剣でも、戦う気持ちがあれば、戦える)
 戦うことを諦めてしまったら、それでお終いなのだ。
「負けません」
「ええ、負けるのは癪ですね」
 ユウナの声にサーラが頷く。
「あれは雑魚と言ってよいレベルの魔獣です。この程度で苦戦していては、私やユウナの名が泣きます」
「はい。――必ず、勝ちます」
 ジリジリと距離を詰めてくる魔獣にサーラは守りの魔法を解いた。
 無防備に晒された二人に魔獣が襲い掛かってくる。
「<重力の呪縛>」
 サーラが、魔獣に重力的圧力をかける。動きが鈍ったところへ、ユウナは飛び出した。
手にした緑の魔弾で風の魔法を解放し、魔獣の身体を下から風圧で押し上げる。浮き上がった魔獣の懐に入り込んだユウナは、折れた剣を魔獣の胸元へと突き刺した。
 肉を抉る感触の後、硬い何かに突き当たる――骨だ。
(これじゃ、心臓に届かないっ!)
 脅威の回復力を持つ魔族を確実に仕留めるためには、心臓を潰すか、首を切断するか、灰になるまで燃やし尽くすという方法しかない。
 しかし、魔力を持っている魔獣に魔法の炎は、決定打にはならない。
 他の魔法も、傷を負わすことは可能だが、心臓に到達するまでに魔獣が持つ魔力に飲み込まれてしまう。
 骨がないところから――改めて、攻撃しようとしたユウナの手から剣が放れる。
「ああっ?」
 魔族特有の回復力により、傷が塞がり、肉が剣を完全にくわえ込む形になってしまった。
 すっぽ抜けた手が、空を切って、ユウナは地面に尻餅をついた。
 そんなユウナを捕らえる魔獣の瞳。振り上げられた爪が、自分へと落ちてくるのをユウナは杏色の瞳に映して――息を呑んだ。
「<黄金の――」
 サーラの魔法呪文が聞こえるが……恐らく、間に合わない。
 そう、感覚的にわかる。
 ユウナはなるだけ、被害を最小限に抑えようと頭を抱え、身体を丸くした。そして、衝撃を覚悟するが――痛みはなかった。
「…………」
 前にもこんなことがあった。
 そろりとまぶたの隙間から外界を覗けば、こちらを庇うように立ち塞がる長身の影。
 ――グエンだ。


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